第477話:事故を起こした少年は
早く帰りたいときほど、変な事故が起こりやすいものだ。そして、事故というものは、だいたいは慣れと油断が招く。指差し呼称で安全確認、なんてのは面倒くさいものだ。だが、一秒で済む注意を怠ったばかりに一生ものの怪我を負う、なんてことになったら目も当てられない。
今日の事故も、まさにそれだった。
「あっ、だめ、止めて――!」
最上階のクレーンのもとで、クレーンがワイヤを巻き上げる様子を監視していたリノの悲鳴が、「遠耳の耳飾り」を通して耳をつんざく。それと共に、地上数メートルほどの位置で、石材を載せた板がひっくり返る!
積んでいた石材がバランスを崩してまき散らされ、周囲にいた作業員たちを巻き込んだ。
あれほどクレーンを使うときには、持ち上げた後の安定の確認をしろと、口を酸っぱくして言っていたのに。
こういうことが起こってしまうと、何が「幸せの塔」だ、などと思わず毒づいてしまう自分の余裕のなさに舌打ちをしながら、地上まで駆け下りる。
地上では、崩れ落ちてきた石で怪我をした数名の作業員たちがうめいていた。
クレーンが動いている時には絶対に近寄らぬように、という規則も、十分には守られていなかった。それが、この怪我人たちだ。自分自身、そのあたりが甘かったように思う。自分のうかつさに歯噛みする。
リノが、外壁の足場をひょいひょいと伝いながら飛び降りてきた。
「ご、ごめんなさい! カントク、ボク、止めるの間に合わなくて――」
泣き出しそうなリノだが、こんな十代前半の少女が責任を感じる必要などない。俺の注意不行き届きが原因だ。
「で、でも、ボク、見てて崩れそうって分かったのに。綱が切れそうって、分かったのに! なのに、間に合わなくて――」
「過ぎたことを悔やんでも仕方がない! それよりリノ、すぐに救護室に走ってくれ!」
「う、うん!」
幸い、怪我をした作業員六名のうち、骨折するほどの怪我を負ったのは一名で、それ以外はすり傷や打撲といった軽傷で済んだ者が多かった。
石材が崩れ落ちたのは、高さにして七、八尺(二・一メートル~二・四メートル)程度だったというから、下手をしたら命に係わる大怪我をしていたかもしれなかったわけで、そういう意味では不幸中の幸いだった。
怪我の程度に応じて、見舞金として多めに給金を渡し、一、二日休んで様子を見るように言うと、男たちは怪我にもかかわらずホクホク顔で帰って行った。
この現場が人気の理由の一つは、こうした待遇の良さにあるらしい。
待遇といっても、日当自体は、調査の上で一般的な現場で支給される金額を設定している。だが、リトリィたちによる温かな給食、五日連続で勤務した者への有給、そして怪我をしたときの対応と見舞金。これらが、大工はもちろん、日雇い労働者たちにウケているそうだ。
『福利厚生を手厚くすれば、結果としてやる気のある良質の作業員の確保につながるわけだから、良い仕事をさせるためには出費を惜しんではいけない』
――などと
それはともかく、骨折した者の問題だ。
こいつ、一番の怪我人にして、事故の元凶だったんだ。
リノはロープが切れた、と表現したが、こいつのロープワークが緩かったから、その部分が外れてしまったんだ。誰かがきちんと引っ張って確認していれば。いや、せめて目視ででもいいから確認していれば。
こういうとき、事故を起こした者が見せしめに処罰されるのが、この世界では一般的らしい。だが、そんな恐怖で支配したって、事故が起きた理由をきちんと周知徹底しないと、同じ事故が繰り返されてしまうのだ。
よって俺がすべきは、再発防止のために、何がいけなかったかを労働者たちに折に触れて周知し続けること。明日の朝礼から、改めて「指差し呼称で安全確認」の意味を伝えないといけないだろう。
さて、少年がどうなったかといえば。
以前――今は俺の自宅となっている家を建てていた時も、転落により骨折した少年がいた。そいつの
そいつの所に担ぎ込まれた骨折者は、やっぱりひどい絶叫を上げながら荒療治を施された。なのに、そいつは「まだ働けます、働かせてください!」と、べそをかきながら食いついてきたんだ。
――リノと同じくらいの背格好の少年のくせして。
「送る? そんなことをする必要なんざねえだろう?」
「ああ……でも、あんなことがあったわけだし、俺は現場監督だし」
「そうやってなんでもかんでも背負い込むのはよくねえ癖だって、前にも言っただろう?」
マイセルの父親で俺の義父であり、そして世襲を認められた「
「別にあんたが事故に直接関わったわけじゃねえんだから、そんなことぐれえで……」
「いや、俺の管轄で起こったことだから」
俺は、添え木を当てられた腕を端切れでぐるぐる巻きにされた少年を見ながら答えた。
「ちゃんと保護者に謝っておいた方がいいと思うんだ」
「謝る? 馬鹿言え、そんなことをしたらつけこまれるぞ」
マレットさんは信じられないものを見るような目で首を振ると、「……言い出したら聞かねえあんただ、止めても無駄だろうからな」とため息をついた。
「仕方ねえ、ついて行ってやる」
「そうか、リヒテルっていうのか」
「は、はい……」
俺は、少年の家に向かって一緒に歩いていた。
彼の住んでいるところは北門近くの門外街だという。若干帰るのが遅くなってしまいそうだ。
だから、マレットさんの息子――ハマーに小遣いをやって伝令を頼んだ。「チッ、しょうがねえな」などと舌打ちをしてみせたハマーだが、大銅貨二枚を渡したら小躍りしながら走って行ったから、報酬としては十分だったのだろう。
「本名はなんていうんだ?」
「え? え、ええと……ラィヒ・ス・ティル・エルです」
「ほう?
「……そうかもしれません、けど……分かりません……」
リヒテルは、戸惑うような素振りを見せた。名前を恥ずかしがっているとか、そういうリアクションには見えない。どう返していいか困惑しているような、そんなふうに見えた。
「親御さんは何してるんだ?」
「……分かりません」
「分からない? 分からないって、どういう――」
聞き返そうとしたら、マレットさんに制止された。そのまま、マレットさんが続ける。
「リヒテル。腕の具合はどうだ」
「え? あ、ええと……痛みます、けど……」
「
マレットさんの言葉に、リヒテルが目を見開いた。
「そ、それなんですけど! 利き手は大丈夫ですから、なんとか働かせてもらえませんか!」
「無茶言うな。熟練工ならいざ知らず、お前みたいな未熟な日雇いが、大工の現場で、片手で何をやるつもりだ」
「な、なんでもしますから! お願いします、お願いします!」
「現場の監督としては、骨折までした怪我人を使うわけにはいかない。治ったらまた来い」
やけに食い下がるリヒテルをたしなめると、彼はがっくりと肩を落とした。
しばらく、沈黙が続く。どうにも居たたまれなくなって、俺はリヒテルの肩を叩くと努めて明るい声で話しかけた。
「まあ、お前の親御さんに、事故の事実を伝えなきゃならんからな。無理はさせられないってこともちゃんと言っておくから。働きたいと言ってくれるのは嬉しいが、すべては怪我が治ってからだ」
その時のリヒテルのひきつった笑みの意味を、俺はもう少し考えるべきだった。
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