第178話:フィネスさん(2/2)

「私も、決して余裕があったわけではありません。でも、屋台で食べ物を売っていますと、どうしても視線を感じるのです。――ああ、腹が減った、という、あの目を」


 人の姿がまばらになったころ、フィネスさんが伏し目がちに話してくれた。


 フィネスさんは、彼女の夫となる人に身請けされたらしい。もちろんそんなことを詳しく語ったわけじゃない。だが、彼女の、断片的な話をつなぎ合わせると、おそらく間違いない。


 この街のことはまだほとんど分からないが、この街の一角には、そのような区画があるということか。まあ、人間が人間である以上、そしてフリーセックスが推奨されていないのであれば、そういった需要は当然生まれるし、需要に応えて供給する店も当然できるだろう。


 そして、そういったところで働く女性は当然、何らかの事情で、そういったところで働かざるを得ない人たちなのだろうし、そういった女性が自由を謳歌できるとも思えない。


 リトリィも、純潔こそ守り抜いたものの、街娼として少女時代を生きたこともあった。生きるために選ばざるを得なかった道を否定する気になど、到底なれない。


 ただ、彼女を身請けした男性は相当に無理をしたようで、その借金は、彼が死んで遺産を整理するまで、重くのしかかっていたらしい。彼女の自由を買い取るためにおとこを見せた、というところだろうか。

 それで、フィネスさんは自分の身分を買い取ってくれた彼の世話をする傍ら、彼の店を手伝うようになったそうである。


「それから、私をにしてくださったのは、すべて夫なんですよ」


 言葉遣い、立ち居振る舞い、料理の腕。そういったものすべてを、彼の好み通りに躾けられたのだと、フィネスさんは笑う。


「思い通りの女に育てる、ということなんでしょうね。厳しかったですが、それがあの人の、優しさだったのだと思います。連れ添ったのは十年ほどでしたけれど、夫には感謝、しているんですよ」


 小さいながら料理店を営んでいた男に、厨房を任されるようになるまで三、四年ほどかかったそうだが、その修行も、とても楽しかったそうだ。


「夫からすれば、孫ほども年が離れていたわけですから、店じまい前に、いろいろと便利遣いをできる弟子を一人、とったようなものだったのでしょうね。ずいぶんと、可愛がっていただけましたよ?」


 あのひとの仔が産めなかったのは残念ですけれど、と笑う。

 途端に、リトリィが目を伏せてうつむく。一瞬あせったが、耳の伏せ方が完全に恥じらっているときのソレなので、まあ、そういうことなのだろう。仔がという言葉そのものへの反応でなくて、ほっとする。


 ……しかし、可愛がるって、そっちか。話の流れから、料理の技術を仕込まれたことだと思った俺は、まだまだ純情だということか。


「あら、ですよ?」


 年が年だっただけに、十年ほど連れ添った相手は先に旅立ってしまい、残された店も、彼女の身請けのために背負った借金を整理するために、売らざるを得なくなった。だが、彼に仕込んでもらった料理の技術を生かして、屋台を始めたのだという。


「仔もいませんから、一人で生きていくなら、それで十分でしたから。

 ――あの人は、私に、生きる力を与えてくれました。連れ添った時間は長くありませんでしたが、あの人には感謝し尽くしても、なお足りません」

「旦那様のこと、愛してらっしゃるんですね」


 リトリィの言葉に、フィネスさんは「もちろん」と微笑む。


「あの人がいたから、今の私があります。一人で生きていく力をくださったあの人のことを、私は愛していますよ」


 亡き夫を、今でも愛していると断言するフィネスさん。

 その思いはすごいが、しかし、それでいいのだろうか。

 獣人は、ヒトよりも寿命が長いという。そしてリトリィも、俺よりずっと年下だ。

 フィネスさんのパターンと同じだ、間違いなく、俺の方が先に死ぬ。


 そうなったら、俺は……

 リトリィには、新たにいい人を見つけてもらえばいいと思っている。


 ただでさえ、俺は、リトリィ一人を愛し抜く生き方を選ぶことができなかったのだ。大工の棟梁の娘であるマイセルを、いずれは二人目の妻として迎えねばならないことになっている。


 だから、フィネスさんのように、俺に操をたてて一人で生きる、そんなことをさせるなどできない。同じ世代の、一緒に生きてくれるひとを、新しく見つけてくれればいい。

 まあ、そんなこと、今は口が裂けても言えないけれど。


「ふふ、話が少し、それてしまいましたね」


 フィネスさんは、やや恥ずかしそうに笑って、そして続けた。

 死別した夫の置き土産となった、料理の腕。その腕を活かして屋台を始めてから、店で働いているときには気づかなかった視線――そう、空き腹を抱え、こちらの手元を注視しながらもあきらめざるを得ない、そんな視線に、気づくようになったのだ。それも、獣人の、子供の。


 ある日、店じまいしようとしたころに気づいたその視線についほだされて、自分のまかない分としてとっておいたものを使って簡単なスープを作り、食べさせてやった時の、その、本当においしそうに食べた少年の顔。

 自分よりもずっとヒトに近い顔かたちの、兎属人ハーゼリングの少年の笑顔を見たときだ。


 自分を、払いきれないほどの借金を抱えてでも身請けし、救ってくれて、そして身の振る舞いや食事を作るという「技術」を身に付けさせてくれた夫の愛に応える、そんな生き方をしたいと思ったのだという。


 もちろん、彼女には余分な資産などほとんどなかった。ゆえに不定期に、手作りスープを無料配布するようになった。しかし、しょせんは個人屋台。身を削るような振る舞いなど、そうそう続けられるものでもない。

 どうしたものかと途方に暮れていたとき、手を差し伸べてくれたのが、ペリシャさんだったそうだ。


 ああ、そういえば瀧井さんが言っていたな。ペリシャさんは、昔からそういう、奉仕活動のようなことをしていたと。


 ペリシャさんは、自身も出資してフィネスさんと炊き出しを始めるとともに、持続的に炊き出しができるよう、伝手をいろいろ当たったそうだ。

 そして、ペリシャさんと以前から親交のあったナリクァンさんがそれを聞きつけ、なぜ自分を使わない、と絡んできたらしい。


 ペリシャさん自身は、どちらかと言えばナリクァンさんを巻き込みたくなかったようである。売名行為と受け取られて、商会の評判に傷がつくかもしれないと。


 だからフィネスさんは、最初、ペリシャさんから話が届いたとき、冗談だと思ったそうだ。


獣人族ベスティリングのための炊き出しに、ナリクァン商会が出資する──なにか、悪い冗談かと思いましたわ」


 しかし実際には、ナリクァンさんは商会の資金を一切使わず、すべてご自身のポケットマネーから支援をしてくれたらしい。


「商会のお金を使うなんてことになれば、口さがない連中がいろいろとさえずりますからね」


 ただ、一つ誤算だったのは、ナリクァンさんの個人的なお金であっても、さえずる連中はいたということ。

 それでも、ナリクァンさんは全く気にすることがなかったという。それどころか、一度や二度ではなく、初めて炊き出しに協力してくれた日からずっと、ナリクァンさんは資金を提供してくれているのだそうだ。


 おかげで、炊き出しを定期的に行うことができるようになった。さらに、彼女の潤沢な資金力によって、獣人だけでなく、温かな食事を求める人すべてに、炊き出しを開放することができるようにもなった。

 以来、この炊き出しはもう、十年以上にわたって続いているのだという。


「城内街の方々は相変わらず、金持ち未亡人の奇行、と笑っていらっしゃるようですが、門外街の人でナリクァンさんを笑う人など、一人もいませんよ」


 フィネスさんは誇らしげだ。始めたのは、フィネスさんのはずなのだが。


「だって、私一人では続けられませんでしたから」


 屈託のない笑顔を浮かべるフィネスさん。


「私は始めただけですわ。ペリシャさんが手を差し伸べてくださったこと、そしてナリクァンさんとお友達でいてくださったこと。この二つの奇跡の縁が、こうして今につながっているのですよ」

「奇跡の縁、ですか……」

「そうですよ? あなたも、リトリィさんのようにすてきな娘さんに出会うことができた、それも素晴らしい奇跡ではなくて?」


 ――奇跡の、縁。

 本当に、縁というものは不思議だ。


 この世界に落ちてきて、リトリィと出会い、ジルンディール親方、フラフィー、アイネ。瀧井さん、ペリシャさん、ナリクァンさんとその御友人がた――様々な人と出会った。


 まるで、なにかに導かれるように。 

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