第59話:思慕(5/7)
……まて、
たしか前にも、その言葉を聞いたぞ?
聞いたどころの話じゃない、それがあったから、俺はこの一ヶ月、彼女をあきらめさせるために、無視し続けたのだ。
「髪を撫でるのが、祝言を挙げるために必要な儀式の一つ……なんだ、な?」
「はい」
頭の中が真っ白になる。
カノジョを通り越して祝言……結婚。
……道理で、髪の毛を拭くことは許したわけだ。リトリィにしてみれば、願ったりかなったりといったところだったんだろう。
俺はいったい、どこで道を踏み外した。
あ、あの夜、事務所から出たときだな。
変に乾いた笑いが浮かんできそうになる。
「……三つ、って言ったよな? あと二つは?」
「
二人で同じもの――口をつけたものを、分け合って食べるのが妹背食み、三夜の臥所は……言わなくても、分かりますよね?」
……ちょっと待て、その二つに比べて、櫛流し――髪に触れる、とかいうその条件、それ、緩すぎなうえにいろいろ心当たりがありすぎるんだけど。
冗談めかして聞いてみると、リトリィは大真面目に答えた。
「正式には、両家の代表――普通は親ですけど、それと
……なるほど。
アレだな、つまり
まあ、翻訳首輪が俺の知ってる概念に翻訳してくれるもんだから、いろいろな用語が完全に日本語だしな。
「……って、ちょっとまて! 三夜の臥所って、三回もベッドを共にするってことだろ? 親公認で!?」
「はい。だって、
……とまあ、ごくナチュラルにそんなこと言われても、童貞には刺激的すぎるんですよ!
「……それで、もし、お互いにいろいろと、不一致があって、どうしてもこの人とはダメだ~、ってなことになったら、どうするんだ?」
「お互いに、より気の合う人が見つかることを願いながら、お話は無かったことになりますが」
……結婚するなら初めて同士がいい、なんて思ってた俺が甘すぎるということか。ということは処女性は、それほど重視されないっていうことか。いや、それなりに価値はあるのかもしれないが、さして重要ではないのだろう。
がっかりして彼女を見て、そして、真っ直ぐに俺を見つめる、その透き通るような青紫の瞳を見て、思い出す。
彼女は、ここに来る前は、ストリートチルドレンとして――
……最低野郎だ、俺は。
ああ、最低だ。こんなに素晴らしい女性の価値を、処女か、そうでないかだけで決めつけてしまうなんて。
こんなクズな思考に、未だに染まっていたなんて。
俺は一度目を閉じて邪念を追い払う努力をすると、もう一度、彼女に聞いた。
「ええと、櫛流し――だっけ。間違って触ってしまうことって、よくある話だと思うんだけど、そういうときはどうするんだ?」
リトリィはきょとんとして、そして、微笑んだ。
「だから、さっきも言った通り、女の子は年頃になったら、普通は絶対に髪を触らせないんですよ? 親兄弟、親戚、幼馴染――異性なら、誰にもです」
……絶対って言われても俺、リトリィから抵抗を受けた記憶がないんだが。ほら、あの時――屋根の修理をした、あのときも。
そう思って聞いてみると、リトリィは恥じらいつつも、やっぱり微笑んで言った。
「だって、ムラタさんですから」
……なるほど。
なるほどしか、もう返事が見つからない。あの時には、すでに自分はロックオンされていたのだということを思い知る。
「それよりも、あの夜――初めて親方たちが、あなたの作った濾過槽を見た日の、あの夕食後のときです。あのときにもう、撫でてもらっていますから」
……俺、無自覚に、結婚のための儀式を彼女に対して仕掛けてたってことかーそっかーなるほどー。
……なるほど。
じゃあ、妹背食みとかいうのは? 口をつけたものを分け合って食べる? それはさすがに記憶にない。
「ふふ、ありますよ?」
俺の疑問に、嬉しそうに笑うリトリィ。
「『櫛流し』――髪を撫でてくださったそのときに、わたしの口についていたの、つまんで食べましたよね?」
「……そう、だったか?」
ていうか、俺、いつの間にそんなリア充的行為をしていたんだ?
正直、記憶にございません。……なんて言ったら、また泣くんだろうな。とても言えない……。
「はい。わたし、あのときはムラタさんが、
全然、かけらも、全くそんな意識はなかったと思います。
……いやマジでごめんなさい。
ふふ、と彼女は微笑むと、ぺろりと首筋を舐めた。くすぐったいが、実に嬉しそうな表情に、何も言えなくなる。
「……許してあげます。でも、女の子の唇についていたものを、つまんで食べるんですよ? やっと仲直りできた、しかも、獣人族の女の子の。
これで
そんなものだろうか。リトリィにも言った通り、俺はそんな風習なんて知らなかったのだ。結婚したいとまで思って、行動したわけじゃない。たとえ、彼女に好意を持っていても、だ。
「だめですよ? 女の子の期待、裏切らないでくださいね?」
そう言って、彼女は再び首筋にそっと舌を這わせてくる。
背筋がぞわわわっとして、思わず彼女を抱きしめる腕に力が入ってしまった。
まあ、そうなると、三夜の臥所は、もう、罠にはまったも同然だったな。今もこうして、同じベッドで寝ているくらいだし。
単に横になっているだけじゃない、こうして、強くお互いに抱きしめ合っている時点でもう、言い訳もへったくれもない。
「罠って、どういう意味ですか? わたし、これでも真剣なんですよ?」
ほほを膨らませて抗議する彼女が、また可愛らしく、
……いや、それにしたって、まだ清い関係と強弁することはできるぞ!
「一緒にベッドに入れば、一刻でも半刻でも、たとえ体の関係がなくても一夜は一夜ですから」
なるほど。俺はここに来た時二日間眠っていたから、それを含めたらもう、とうの昔にクリアしていたってことね。
……って、まさか――親方はそれを見越してリトリィに温め係を命じたってことか?
「お父さまは、あなたを見て、“異界渡り”をした人だって、すぐ気づいたんだそうです。だって、ムラタさんの服装って、わたしも見たことないですから」
……ああ、たしかに親方は、俺が異世界の人間――日本人だって、気づいていたみたいだしな。最初はとぼけてみせてたが。
「お父さまは、今でこそ優しく丸くなられましたが、昔はすごく野心的な人だったそうです。稀に、昔のお知り合いの方がいらっしゃるんですけど、ほんとうに目的のためには手段を選ばない人だったそうですから」
「……優しい? 丸くなった? ……アレで?」
信じがたいセリフに、おもわず突っ込んでしまう。
彼女も、父親代わりの親方が未だ苛烈な男だという理解はあるようで、そこは笑った。
「ですから、いざとなったら……ほんとうにいざとなったら、わたしを使って、なにか鍛冶師として利益が見込める情報を引き出そうとしたんじゃないでしょうか」
たぶん、問い詰めてもそこは絶対に認めないでしょうけれど、とは付け加える。親代わりの親方が、自分を売るような真似などしない、と思いたいのだろう。
しかし、アレだな。鉄砲が伝来したころ、とある鉄砲鍛冶が、火縄銃の尾栓のネジのノウハウを得るために南蛮人に自分の娘を嫁がせて情報を得たっていう、あの話に通じるものがあるな。
――職人ってのは、突き詰めるとそうなるってことか?
「……リトリィ、そんなことに君は納得できたのか?」
出会って以来の疑問をぶつける。
「最初に言われたときはびっくりしましたよ?」
そこはやはり素直なリトリィ、答えも正直だ。
「でも、うなされているあなたを見て、なんとかしなきゃって思って。それで、いろいろ考えてて、びっくりどころじゃなくなったんですけど……」
「けど?」
「……はじめ、なんでしたっけ、『あんびす』? 不思議な名前で呼ばれましたよね? 殿方から頭を下げられるなんて、わたし、初めての経験で。わたしのほうがびっくりしてしまいました。
――
初めて彼女を認識したあの日のことか。
あの時、自分は、たしかアヌビス神を思い浮かべたんだっけか。犬? ジャッカル? とにかくそんなような黒い頭をした、エジプトの神様。
なんの神様だったかは覚えていないが、その姿だけは知っていたから、彼女をアヌビスだと思い込んだのだ。
――全く違ったが。
「わたしを見ても嫌がらないし、いろいろお手伝いしてくださるし、それどころか一緒に食べようって、お食事に誘ってくださるし。わたしが獣人族だっていうこと、ぜんぜん気にしない人、家族以外で初めてで。
――すごく、うれしかったんですよ?」
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