第523話:ボク、お役に立ったら
「だんなさま、ボクのこと、嫌いになったの……?」
酷く心細げに聞いてくるものだから、もう何も言えなくなって、一緒に朝の水浴びをすることになった。
リノのことが大事だからこそ、これからは別々に水浴びをしよう――どんなに言って聞かせようとしても、リノは頑として言うことを聞かなかった。
「ボク、だんなさまのお嫁さんになるんだもん。ボクだって、だんなさまになら見られても平気だもん」
……あの孤児院での騒動以来、俺はもう、リノのことを「面倒を見ているチビ」とは見られなくなってしまっていた。
いつまでも小さくて凹凸のないチビっ子だと思い込んでいたから、これまでは、一緒に風呂に入る父親の気分で水浴びをしていたのに。
だが、もう……。
「だんなさま、ボクはボクだよ? ずっとずっとだんなさまのことが大好きな、ボクだよ? どうして急に、一緒じゃだめになったの?」
どうして?
今はともかく、いずれ俺の理性を保つのが難しくなってくるからさ。
……なんて、情けなさすぎて言えるかよ!
そんなわけで、俺は一線を引くことにした……のだが。
ええい、そんな悲しそうな目で見るんじゃない。
分かった、今日までだ。一緒に水浴びをするのは今日まで!
明日からはちゃんと別々に水浴びをするぞ、絶対にだ!
失敗し続ける禁煙者かダイエット挑戦者みたいなことを心の中でつぶやきながら、俺は目を閉じてリノの頭から水をぶっかけてやる。
「つめたーい」
「いつものことだろ」
「えへへ、だんなさま、あったかーい!」
そう言って、平たいはずの胸を押し付けてくる。
……リノって、こんなに柔らかかったっけ?
思わず大きく首を振る。
ええい、それもこれも今日までだ。
明日からは絶対に……!
「んー……ここも! おじちゃん、こっちこっち!」
「おう、そうかい。嬢ちゃんは耳がよくて助かるよ。……おい、
「えへへ、ししょー! ボク、褒められちゃった!」
天井付近まで延ばされた脚立の最上段に立ち、その耳を天井に触れんばかりに近づけて、材の中にアリがいるかどうかを聞き分ける――先日、そのアリに噛まれて酷い目に遭ったばかりだというのに、リノは率先してその役目を引き受けていた。
「だって頑張ったら、ししょーからごほうびがもらえるんだもん!」
「師匠からご褒美? 何がもらえるんだ、飴か? お小遣いか?」
「えへへ、ないしょーっ!」
孤児院「恩寵の家」に着いたとき、リノは館の門の前で立ちすくんでしまった。口では「平気だもん!」と言いながら、門の前から入れずにいた。
やはり、アリや少年たちの暴行は彼女の心をひどく傷つけていたのだ。いくら本人が「やる!」と言い張っても、やはり連れてくるべきではなかった――反省し、家に帰そうとしたときだった。
「ぼ、ボク、がんばる……がんばるから、そんなこと、い、言わないで……!」
全身ぶるぶる震えながら、けれど一歩……自分から孤児院の敷地内に踏み入ったのだ。
その健気さに胸がいっぱいになって、もうこれ以上無理させたくなくて、抱きしめて落ち着かせ、一歩踏み出せたことを褒めてほっぺに口づけをして、今日はここまででいいから一緒に帰ろう、と声を掛けた俺に、リノはひきつった笑みを見せた。
「……ボク、がんばったら、だんなさま、うれしい?」
「ああ、よく頑張った。偉いぞ。だから今日はもういい、家に――」
「だったらボク、がんばる。もっとがんばって、だんなさまにもっともっとほめてもらうの」
無理はしなくていいと言ったのに、リノはもう心に決めたみたいで、頑として言うことを聞かなかった。
仕方なく、俺は彼女を連れて入った。なるべく俺から離れないこと、もし気分が悪くなったりしたらすぐに言うこと、それで帰ることになっても俺は決して怒らないことを何度も何度も言い聞かせて。
「……ただ、ひとつだけいい?」
「なんだい?」
「……ボク、がんばるから。ボク、お役に立ったら、ご褒美、ほしいの」
「ご褒美?」
「ボク、どうしても欲しいものがあるの。一度だけでいいから、それが、欲しくて」
上目遣いで心細げにそう言われると、なんとも弱い。
「……あまり高いものだったりしたら、買ってやれないぞ?」
「おかねなんていらないよ?」
「お金のいらないご褒美? 何が欲しいんだ、言ってごらん?」
「……えっと、帰ったら、言うから」
帰ったらということは、店で買うようなものではないということだろうか。
いったい何が欲しいのかよく分からないが、リノがそれで頑張れるというのなら、それもいいかもしれない――ポジティブに考えることにする。
思い返してみれば、今まで彼女が要求したものなんて、「お腹空いた!」くらいしかなかったのだ。服の好みすら、強いて言うならもともと着ていたワンピースと同型の服、というだけで、あるものを着てそれで終わっていた。
その彼女が、初めて俺に、欲しいものを求めたのだ。それを心の支えにして心理的な壁を乗り越えることができるというなら、それもありだろう。
「分かった。じゃあ、今日の仕事をがんばったら、ご褒美だ」
「……ほんと? ボク、だんなさまのお役に立ったら、ごほうびくれる?」
「約束する。ただし、絶対に無理をするんじゃないぞ? 俺は絶対に怒らないし、リノがの元気こそが最優先だからな?」
「うん! ボク、がんばる! がんばって、だんなさまのお役に立つよ!」
肩を震わせながらも、そう言って笑ってみせた彼女の思いは、本物だった。
彼女は、香料ギルドからやってきた職人たちの作業を見て、自分ならアリの足音が聞こえるよ、と言って、実際にいる場所を聞き当てて感心させ、それならと任されて今に至る。
「おじちゃん、こっちはいないみたいだけど、ここはいるみたい!」
「おう、嬢ちゃんありがとうよ」
リノの誘導に従って、香料ギルドの職人が、薬剤の壺を持って
どうもこの薬、企業秘密だからと、どういう薬理効果によるものかは教えてくれなかったが、巣に流し込んだあと、中の虫が麻痺して死んでいくのだそうだ。
薬液によって殺すのではなく、揮発したガスが虫を死に至らしめるらしい。鼻にツンとくる刺激臭は人間にも毒だそうで、だからリノにはマスクがわりの手ぬぐいを顔に巻き付けた。
ちなみに屋根の上にも香料ギルドの職人が回っていて、そこでは巣から逃げ出した虫を直接殺すための薬剤をぶちまけている。
正しくは、巣から逃げ出しても殺せる薬剤をぶちまけておき、アリが巣に閉じこもったところで、巣に毒を注入するといった様子だ。
「なあに、前に作ったときに余った薬がそろそろ古くなっていてな。ここらで売りつける家がないか、探そうと思っていたトコロだったのヨ。いや、もちろんナリクァン夫人から話が来てから、追加で作った分もあるからな? 全部が全部、使い古しの薬ってわけじゃねえから、安心しな」
わっはっはと笑ってみせる職人。なるほど、渡りに船だったということか。
それにしても、殺虫剤を作る職人が香料ギルドだとは思わなかった。てっきり医薬ギルドだと思っていた。
「そうだな。ひとに使う薬は医薬ギルド、それ以外は香料ギルド、ってなふうに分かれている。というより、元々、薬ってのは香料ギルドから始まってるんだ。で、その中からひとの薬専門のギルドに分派した、って感じだな」
なるほど。香料から薬へ、というのはぱっと聞くと違和感があるけれど、アロマからより有効なものへと分派した、と考えれば、納得がいくようにも感じる。
「獣人ってのはアレだろ、だいたいは三、四番大路のあたりの貧民窟にいる、身勝手な連中だろ? どうにも信用できなかったんだが、ちゃんと躾ければ意外に使い勝手がいいんだな」
――ああそうだよ、その子はまさしく四番大路の貧民窟で拾ってきた孤児だよ。
思わず言い返しそうになったが、ぐっとこらえる。
差別意識を隠そうともしない物言いだが、それでも言っている内容はあくまでも一般論。リノ個人を蔑んだ言い方ではない。むしろ、素直に褒めてはくれているのだ。余計な波風を立てるのは得策ではない。
するとそこに若い男がすり寄るようにやってきた。
「あんなヒラヒラな服一枚しか着せてなくて、おまけに下着もはかせてないなんて、ダンナ、やっぱりああいうガキの躾も、夜のアレっスかァ?」
そんな目で見てなかったから気づかなかった! というか「パンツはいていない」が標準のリノだったから、全然意識に無かった!
いや、ちゃんとマイセルにお願いして、家を出る前にパンツをはかせたはずだったんだよ! いつのまに脱ぎやがった、脱いだパンツはどこにやったんだ、あいつ!
だが、それはそれとしてだ。助平根性はともかく、それをヘラヘラと言える精神性には灸を据える必要があるだろう。
というわけで、気が付いたらぶん殴っていた。
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