第202話:マイセルの特別な日(3/5)
ケーキを口に含むと、しっとりとした生地がほろほろと口の中で崩れてゆく。
バターの濃厚な香りとたっぷり練り込まれたドライフルーツの芳醇な香り、カステラのようなはちみつの甘みたっぷりの生地。
ナッツ類も、クルミに似たもの、アーモンドに似たものなどが、ほどよい歯触りを生み出す。
そして、
フルーツケーキのようだが、ちょっとちがう。フルーツケーキのほうがふわふわ感があるけれど、こちらはどちらかというともっちりとしている感じだ。どちらが美味いか、ということではなく、こちらも美味い。
「――美味しいな、これ! これ、マイセルが自分で作ったのか、すごいな!」
「えっと……生地を練って、形を整えるのは。焼くのは、ネイお母さんにも手伝ってもらいました。やっぱり、焼き加減は難しいから」
はにかむマイセル。自分の手柄だけを訴えず、ちゃんと手伝ってくれた人のことも忘れない彼女の心がけに好感が持てる。
「とっても美味しいです! マイセルちゃん、あとで、わたしにも作り方を教えてもらえますか?」
「はい! お姉さまの作り方も教えてください、お姉さまのお誕生日に合わせて、二人で一緒に作りましょう!」
女の子二人で、乾燥果実は何を使ったのか、使った木の実は何か、など、果てしなくレシピ談議で盛り上がっていく。実に楽しそうだ。
そうか、マイセルが来たら、なにか違いを発見するたびに、こんな光景が見られるようになるのか。
そしていずれは、そういった違いがすっかり埋まってしまって、たぶん阿吽の呼吸で、何も言わなくても一つのことが回るようになっていくのだろう。
……俺、そこに必要か?
やばい、この二人、これ以上仲良くなっていったら、最終的に熟年離婚で俺が放り出されて、この二人が添い遂げる、なんて地獄絵図が思い浮かんだぞ?
「あの、ムラタさん?」
マイセルが、リトリィに教えてもらいながら刺繍の練習をしているその傍らで、字の練習をしているところだった、リトリィから声がかかったのは。
「ムラタさんが大事にしているものって、なんですか? その、ムラタさんがお仕事をするときに」
「仕事をするときに、大事にしているもの?」
言われて真っ先に思い浮かんだのがタブレット端末だが、もちろんそんなものは日本に放り出してきた。同様にパソコンも置き去りだ。
……建築士の仕事をするうえで、大事にしているものと問われて、はたと思い悩む。
自分の鞄に何を入れていたか。
タブレット端末。
鉛筆――シャープペンシル。
三角定規。
コンパス。
製図用テンプレート。
デジカメ。
各種印鑑。
各種免状。
手帳、ノート。
その他付箋とかこまごましたもの。
……全滅だよ、何一つ持ち込めてない。
鉛筆は一応こっちの世界にもあるけど、ペン先に芯をつめて書くタイプで、すこぶる使いにくい。
定規はあるけど直定規のみ。この小屋を建てる時、屋根の角度をどうするか、ほんと頭をつかったよ。
……ていうか、アイデアノート!
あれを紛失したっていうのは大きかったね!
業界に入ってからいろいろ見聞きして書き溜めた結晶のノート!!
手垢と泥でぼろぼろだったけど、何より俺の研究の足跡としていつも肌身離さず持っていた、あのノート!!
やっぱり、黒い穴に落ちたとき、日本に落としてきちゃったのかなあ。
それとも、別の次元、別の世界に飛んで行ったんだろうか。
「……あの、ごめんなさい。そんなに悩まれなくても、ぽんと思いつくものでいいですから……」
リトリィが、なにやら気の毒そうな顔で俺を見ていた。
……しまった、またやらかした。自分の考えに没頭してしまう癖。
「あ、いや、……ええと、そうだな」
パソコンとかタブレット端末なんて、もう、こちらの世界では手に入らない。
わざとそういうものを言ったところで、彼女を困らせるだけだ。
リトリィは今、刺繍をしている。
そして、俺に、仕事で使うものを聞いてきた。
ということはたぶん、リトリィが、俺の身の回りのものの何かに、それを図案化して刺繍してくれる、ということではないだろうか。
じゃあ、俺の仕事の道具というならば。
「……そうだな。三角定規、直定規、コンパス、そして鉛筆……かな?」
実はこの中で、手元にあるのは直定規と鉛筆だけなんだけどね。
三角定規とコンパスは、早めに手に入れたい。
リトリィが、なぜか首をかしげている。あれ? この世界にないものだったか?
「……あの、金槌とか、ノコギリとか、そういったものではないんですか?」
……リトリィ、お前もか!
お前も、現場に立つ人間しか頭に浮かばないか!
泣くぞ!!
一日、マイセルと過ごしてみて、あらためて考えた。
彼女はどうしてここまで、天真爛漫なのだろうかと。
それは、彼女が、そういう「役割」を担ってきたからではないだろうか。
彼女の家は、円満なようでいて、結構複雑だ。
姓もちの大工マレットさんを父親とし、クラムさんとネイジェルさんの、二人の女性を母として育った少女、それがマイセルだ。
彼女の産みの親は、クラムさん。だが、体調を長く崩していて、実際に彼女を育てたと言えるのは、ネイジェルさん。
クラムさんとネイジェルさんは親戚で仲も良く、だから二人で仲良くマレットさんの妻に収まっている。それ自体が奇跡的だとは思うが。
実の母は床に臥せっていることが多いため、だからマイセルが実際に頼れるのはネイジェルさんであることが多いだろう。だが、俺が以前、マレットさんの家で泊まったとき、マイセルを
つまり、マイセルの精神的な支柱は、やっぱりクラムさんなのだ。
そんな彼女があの家で立ち回るとしたら、やはり「家族にとって役に立つ」という姿を示さなければならない、そんな思いがあったのだろう。
「お姉さま、湯通し終わりました。もう、皮をむいてもいいですか?」
「ええ、お願いね。皮をむいたら塩を振って、バターを乗せてオーブンに入れてくれるかしら」
「はい。四半刻ほどでいいですか?」
「そう……そうね。うん、お願い。そっちは任せていい?」
「任せてください!」
いまも、夕飯の準備に、リトリィと実に楽しそうに立ち回っている。
――だから彼女は、料理に関してはそれなりに高いスキルを身に付けたのだ。毎日の食事の手伝いは必須だったから自然に覚えることができたのだろうし、「役に立つ自分」をアピールできるから。
いつも笑顔でいるのは、そうやって、「愛される自分」という立ち位置を確保するため。
天真爛漫、そんな姿を身に付けることで、彼女は自分の生きる場所を、自分でこしらえてきたのかもしれない。
刺繍のスキルを磨きにこうやってリトリィのもとにやってくるのも、ある意味、そうやってリトリィのもとで自分の立ち位置を確保しようとする思いの表れなのかもしれない。
その、立ち位置を確保するしたたかさは、上棟式のときの立ち回りでも実感した。勝手を知らず、ひとりで行動していた俺に近づき、話をしているという
彼女は無知の天真爛漫なのではなく、考えたうえでの姿なのだ。
「お姉さま、それ、そんなにも使っちゃうんですか!?」
「うちでは、普通ですよ?」
「そ、そうなんですか?」
「その口ぶりなら、知ってるんですね?」
「え、ええと……。クラムお母さんから、最近、教えてもらったけど――」
……いろいろ、料理の腕は仕込まれているらしいな。やはりクラムさん、母親として、嫁ぐと決まったら花嫁修業として料理技術を高めてやりたいと思ったのだろう。
「ふふ……ムラタさんにはいっぱい食べてもらって、今夜はいっぱいがんばってもらわなきゃいけませんから」
「が、がんばる……ムラタさんが」
「そうですよ。わたしと、あなた。二人分、まとめて」
「お、お姉さまと、ふたりで、ムラタさんに……?」
……何か不穏な空気が漂っている気がする。
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