第70話:湯浴み(2/2)
背中のあたりを洗う頃には、もう全身に湯が浸透していて、それ以上は不要に思われた。そのためリトリィに手桶を渡そうとすると、その腕をつかまれた。
そのまま、胸のふくらみに、手を持っていかれる。
その豊かな、そして柔らかな感触が、手のひらを覆い尽くす。
胸の突起が、指に触れる。
俺の心臓が跳ね上がる。
「ムラタさん……ありがとうございます」
「あ、ああ……」
「わたし、こんなふうに男の人にしてもらうの、初めてだったんです」
そう言って、リトリィは俺の手のひらの上に、自分の手のひらを重ねる。
重ねて、そのまま、力を入れてくる。
まるで、俺の手を通して――
「ゆめ、だったんです。こうして、好きな人と一緒に、時間を過ごすことが」
山を共に歩き、二人きりで眠ることが、とても楽しかったと続ける。
「そんなことが……?」
「わたしは、
そう言った彼女の寂しげな声に、彼女が、差別的に扱われる種族だったことを思い出す。
「そんなこと……!」
「そう言ってくださるのは、ムラタさんが、知らないから――」
そのまま沈黙する。手の動きも、止まった。
「――リトリィ、俺はこの世界のことがまだ全く分からないから聞くんだけど、気を悪くしたらごめん。工房のみんなはリトリィのことを普通に、大切な妹、娘として扱っていたように思うんだが、街ではそんなに獣人族であることを気にして生きていかなきゃならないのか?」
門番の男が、リトリィの本名をきちんと呼んで、しかも敬意を払った対応をしていたのを見ると、そんなに扱いが悪いとは思えなかったのだ。
もちろん、以前話してくれた三人の若い兵士のこともあることだし、全ての人が差別的、ということではないのだろう。
だが、そうした人たちはごく少数なのか、それとも差別をする人はごく少数だけれど、基本的には歓迎されないということなのか。
知っておいたほうが、明日の街中での行動が変わってくるように思う。
リトリィの答えは無い。
長いまつ毛に光る雫は、しかし、どこか震えているようにも見える。
「リトリィが、『王都』っていうところで、つらい思いをしてきたっていうのはアイネから聞いた。この街にも、リトリィをつらい目に合わせる奴がいるのか?
……それは、たくさんいるのか? それとも、そういう連中は多くはないけれど、リトリィを助けてくれるような人も多くはない、そういう意味なのか?」
リトリィは、それに対して明確には答えなかった。
ただ、これだけは言った。
「王都では、街の子供に石を投げられるのが普通でした。ケモノ臭い、半端者、イヌヒト、雑種――」
そのまま、再び沈黙する。
……辛いことを思い出させてしまった。
それと同時に、不用意に思い出させてしまったことを申し訳なく思った。
彼女は、王都で、春を売ることで生き延びていた。それは、彼女自身が認めている。
街の悪童どもから石を以て追われるような暮らしをしていた街で――そのような扱いが
――考えるまでもない。
その扱いは、おそらく、というよりも、当然、人間の
肩を震わせる彼女に、それ以上を言わせないため、彼女の胸に当てられていた手を引き抜くと、彼女のあごを手に横を向かせ、後ろから口で塞ぐ。さすがに驚いたようだったが、有無は言わせない。
はじめこそ目を見開いていたリトリィも、目を閉じ、あごをつかんでいる俺の手に、自分の手を重ねる。
しばらく、舌を絡ませる音だけが部屋に響く。
「――あ」
口を離すと、切なげな声を上げた彼女を、後ろからそっと抱きしめる。
「リトリィ、……俺は、君がいいんだ」
「――はい」
「俺は、君が……好きだ」
うなずくリトリィを、さらに力を込めて抱きしめる。
もしかしたら、明日は、街を歩くだけで彼女を不快な思いにさせることがあるのかもしれない。
だが、それでも、ここに彼女を理解し、味方になる人間がいる、それを分かってもらいたかった。
昨日も今日も、彼女の舌に蹂躙されていたが、今度ばかりは、彼女の口内を制圧する。力も持久力もリトリィには遠く及ばない、情けない俺だけど、それでも、ここに、彼女を大切に思う男がいるということを、伝えるために。
ふと垂れた雫の冷たさに、湯がすっかり冷めてぬるくなってしまっていたことに気づく。
いったい、どれくらいの時間、こうして
リトリィの吐息が、いつになく荒い。
しまった、息苦しい思いをさせてしまっていたのだろうか。おまけに湯は冷え切ってしまっていた。このままでは湯冷めをしてしまうだろう。いけない、これでは風邪をひいてしまう。
「――ムラタさん? どちらへ?」
立ち上がった俺に、リトリィがすがるような目を向けてきた。
別にどこかへ行ってしまうわけじゃない。安心させるために、できるだけの笑顔を作る。
「早くしないと、湯冷めするから。……宿の主人に、手ぬぐいがもっとないか聞いてくるよ」
一階の食堂のカウンターで食器を磨いていた店主に、体を拭くための布は追加で借りることはできないかと交渉する。
だが、貸し出すような布はないと言われてしまった。体を拭くくらい自分で何とかしてくれとのことだった。あるのかないのかを聞くと、布はあるという。仕方がない、リトリィのためだ。買うことにする。
もちろん、現金の手持ちのなかった俺は、部屋代に含めてもらうことで手ぬぐいを手に入れた。本当はタオルがあるとよかったのだが、タオル地の布ってのは高級品らしく、この宿にはなかった。残念だ。
部屋に戻ると、リトリィはもう、夜着のローブに着替えようとしていた。慌てて手ぬぐいを渡す。
彼女のふかふかの毛並みは水をたっぷり含んでいるわけだから、そのまま着てしまうと余計に乾かなくなっていまうはずだ。
ところが、リトリィは大丈夫ですからと言って手ぬぐいを受け取ろうとせず、そのまま夜着を着ようとした。
しかたない、だったら強制執行である。ひょいと服を取り上げてベッドに放り投げ、その体をバッサバッサと拭いていく。
こう言ってはなんだが、昔、飼っていた犬を風呂に入れたあと、バスタオルで包んで拭いていたときのことを思い出す。
リトリィはくすぐったがったが、風邪を引かれでもしたら困る。
案の定、一枚程度で水分を取りきることはできず、二度三度、絞る必要があった。それでも湿り気はとれなかったため、夜着を着せるのも諦め、そのままベッドに放り込んだ。
ところがそのまま寝ればいいのに、なぜかそこは頑強に抵抗し、いつもの腰に巻く帯だけを巻き付けて寝ることになった。その帯、一体何のために巻くのかが不思議で、聞いてみたが顔を真っ赤にしてうつむくばかりだった。
なんだろう、お腹を冷やさないようにするための腹巻みたいなものだろうか。
じゃあ、と俺は荷物を解いて毛布を取り出し、床に転がって寝ようとしたら、リトリィがこれまた必死になって、俺をベッドに引きずり込もうとする。
俺にだって男の矜持はある。レディーファーストの精神だってあるつもりだ。ゆえにベッドはリトリィに、俺は床で、と頑強に抵抗し――てみたのだが、あっさりお姫様抱っこの上、ベッドに放り込まれた。
……なにかおかしい、逆な気がする。
ベッドは、家の藁ベッドよりずっと上等で、とても心地が良かった。たちまち睡魔に襲われる。
隣からリトリィがぴったりとくっついてきて、なにやら何度か話しかけてきたり、体を揺さぶられたりしたように感じたが、あまりにも疲れていた俺は生返事を繰り返した末、気がついたら夜明けだった。
そして、ものすごく不機嫌なリトリィによって、ベッドから放り出された。
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