第626話:地獄からの生還

 目を開けたら見知った天井だった。

 暗いのは、夕方だからだろうか。

 起き上がろうとして、酷く右腕と右脇腹が痛むことに気づいて、うめき声を上げる。


 ──ああ、そういえば俺、リトリィの足を引っ張るようなことを……。


 黒煙に霞む工房、燃える石炭の山。その灼熱地獄の中で俺はシャベルを振るっていた際に、何かで転倒した。


 そこまでは覚えているのだが、それから先、何があったのかが記憶にない。だらしなく怪我をしたあと、リトリィがなんとかしてくれたのだろう。

 生きて還ってくることができたのはありがたい。けれど、彼女のためにと煙の中に飛び込んだはずなのに、むしろ迷惑をかけてしまった。


 ──情けない話だな。


 右腕、右脇腹、どうも腰も痛む。石炭もゴロゴロしていたし、おおかたそれで強打したのが痛むのだろう。

 『幸せのしょうとう』への上り下り、毎朝の体操・乾布摩擦・水浴びで、多少は筋肉がついたと思っていたんだが、やっぱりただのヒョロガリなのは変わらなかったようだ。


 そして、いまさら気がついた。

 リトリィが、ベッドに倒れかかるようにして眠っていることに。


「また、やっちまったなあ……」


 何度同じことを繰り返すんだろう、俺は。

 世界でいちばん大切なひとの手を煩わせ、傷つけ、そして世話になる──いや、世話をさせてしまうのだ。


「ごめんなあ、リトリィ……頼りにならない男で……」


 その瞬間、リトリィの耳が大きく揺れたと思ったら、彼女ががばりと体を起こした。

 目が合って、しばし、お互いに固まった。


「や、やあ、ごめん……」


 言いかけた俺の言葉に弾かれたように、彼女は飛びついてきて、そして、泣いた。


 わたしのせいでごめんなさい、と。

 ずっと泣いていた。泣き叫び続けた。




 薄暗いのは夕方だから──そう思っていたら、東のほうから徐々に空が白んできて、自分が夜明けを迎えたのだとようやく分かった。妙に腹が減っているのは、昨日から何も食べていないからだろう。


 リトリィはしばらく泣き続けていたが、朝食の準備中だったらしいマイセルとフェルミが、ひと段落つけたらしく、リノを先頭に二階の寝室まで上がってきた。


「だんなさま! おけが、大丈夫なの⁉」

「ムラタさん! お体はどうですか、痛むところはないですか!」


 いや、今この瞬間、君たちが二人してベッドに飛び乗ってきた衝撃でめちゃくちゃ痛い。特に飛びついてきたリノのダイレクトアタックが。でもそんなこと言えないから、必死に歯を食いしばって笑顔を作るんだけれど。


 そんな俺の内心の闘争を知ってか知らずか、マイセルが嗚咽の止まらないリトリィの背中をなでながら、優しく声をかける。


「お姉さま、ムラタさん、今度もちゃんと帰ってきたんですから。もう泣くのはやめましょう?」

「……でも、でも、わたし……!」


 まだぐずぐずと鼻を鳴らすリトリィの隣に、フェルミが腰掛ける。


「おっす、ご主人。目覚めは快調っスか?」

「……お前は分かって言ってるだろう?」

「ふふん、なにをっスか?」


 俺の手をつかんで自分の腹をなでさせながら、フェルミが笑ってみせた。


「まったく、ご主人には、ご主人を待っている赤ん坊がいるんスよ? 無茶なことはしないで、しっぽをつかんででも、姉さまを連れ帰るのが仕事だったんでしょうに、逆にお持ち帰りされててどうするんスか。だらしないひとなんスから、ホントに」


 そうやって軽口を叩く彼女だが、俺の手をつかむ手が震えている。しばらく自分の腹をなでさせていた彼女だが、やがて声も震えてきて、結局、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

 しまいにはマイセルも、そしてなんだかわけが分からないといった様子のままにリノもつられて、四人で泣いていた。

 それをなだめる俺は、泣くどころじゃなかった。でも、泣いている妻たちを落ち着かせるのは、俺しかいないだろう。




 あの地獄のような火災現場で俺が転倒したとき、俺はどうも散らばったてつくずでかなりの深手を負ったらしい。かなりざっくりと深くまで金属片が食い込んだりして、摘出するのが大変だったそうだ。

 俺の隣にちょこんと座って、俺の腕などの包帯の感触を確かめるようになでているリノの頭をなでてやりながら、しかしその包帯の下をリアルに想像してしまい、胸が悪くなる。


「ああいった怪我はあとで膿んで腐っちゃったりしやすいスから、もうダメかもって思ったくらいっスよ」


 ひと通り泣いたらすっきりしたのか、けろっとした顔でフェルミが言うと、リトリィがまたも泣きそうな顔で身を縮める。そうなる原因を作ってしまったのは自分だ──リトリィはそう思い込んでいるらしい。


「だったら、俺はよっぽど幸運だったんだな」

「ムラタさんが、ご自身で命を救ったんですよ、きっと」


 ほら、とマイセルがサイドテーブルの陶器の瓶を指した。


「ムラタさんが作った、消毒用のアルコールです。試作のものがタキイ様のお家に置いてあったでしょう? お姉さま、あれを工房から瀧井さんのおうちまで取りに行って、めいっぱい使ったみたいですよ」


 ──消毒用のアルコール!

 そういえば、俺と同じようにこの世界に落ちてきた日本人──瀧井さんと一緒に作ったっけ!


「お姉さまったら、騎鳥シェーンに飛び乗って、ものすごい勢いで飛び出していったと思ったら、あっという間に帰ってきて、ムラタさんの手当てを始めたんですって」


 マイセルが工房の人から聞いたという話によると、服のあちこちが焼け焦げたり裂けたりした、あられもない格好のリトリィが、複数の男たちと一緒に、俺を工房の外の石畳まで引きずり出してきたのだそうだ。


 で、なぜかそこにいた騎鳥シェーン──たぶん、俺が乗ってきた奴──に飛び乗ると、野次馬の壁をなぎ倒す勢いで走らせてどこかに行ってしまったらしい。かと思ったらこれまたものすごい勢いで戻ってくると、俺の腰からナイフを抜き取って、その場で切開手術を始めたのだという。

 ──泣きながら。


「私らは直接見てはいないんスけどね?」


 フェルミが、苦笑しながら続けた。


「姉さま、周りで見ていた男たちが青くなって倒れるくらいの勢いで、小瓶からアルコールをぶっかけながら、ばっさばっさと傷口を切り開いていったらしいスよ?」


 リトリィはうつむいたまま、ずっと黙っている。さっきから一言も口を利かないけれど、彼女のおかげでまたしても命を拾ったっていうことだな。

 それにしても、ギャラリーのほうが卒倒するくらいの手術って……。気絶していて本当によかった。意識があったら……やっぱり痛みで気絶していたかもしれない。


「……そうか。じゃあ、ここにこうしていられるのは、リトリィ、君のおかげだな」


 精一杯の感謝の想いをこめて、ありがとう、と頭を下げる。

 顔を上げて目が合った瞬間、リトリィはびくりと体を震わせた。

 泣き出しそうな顔で、首を力なく横に振る。


「リトリィ……?」

「ホントっスよ。姉さまのおかげっス。死ぬまで忘れちゃならない日付が、また増えたっスね」


 フェルミが、まるで我が手柄と言いたげに胸を張ってうなずく。マイセルもうなずきながら微笑んだ。


「ムラタさんはね、ずっと眠っていたんですよ? 今日で三日目です。お姉さまの口移しでスープだけ飲みながら」

「そうそう。姉さまの口移しのスープだけは、上手に飲み込んだんスよねえ。さすが姉さまと言うべきか、スケベ根性丸出しのご主人の深すぎるごうというべきか」


 フェルミ、お前な。いちいち俺をおちょくらなきゃ話を進められないのか。

 でも、そう言いながらずっと俺の手を握っているお前のことが無性に可愛らしく思える自分の、そのごうって奴を思い知らされている気分でもあるけどな。


 それにしても、今日で三日目──つまり丸二日間も眠っていたってことか。

 考えてみれば恐ろしい。「一メートルは一命いちめい取る」、なんて標語が建設現場にあるけれど、ただの転倒でも、その転んだ先に何があるかで命に関わることを、あらためて思い知らされた。


 ただ、あの地獄のような状況自体は、地震が引き金となったのは分かるんだけれど、そもそも震度三程度の地震でああなってしまう環境が問題なんだよ。整理整頓、資材の適切な管理、そういった点の安全管理が十分でなかったんだろう。


 とはいっても、俺は大工ギルドの、しかもペーペーの、さらに異端児。そんな部外者が、改善案を要求したところで聞いてもらえるだろうか。

 ……まず無理だろうな。よそ者が口を挟むな、なんてなりそうだ。


 でも、警告はしておくべきだろう。地震に限らず、安全上の対策は必要だ。なにせリトリィも世話になっている場所なんだ。少しでも環境が改善されたら、彼女の身の安全にもつながる。


 俺自身の怪我のことは済んだことだからどうでもいいが、妻が安全に働ける場を作ることも、彼女の居場所は俺が作ると決めた、俺の仕事のはずだ。俺がやらなきゃ、誰がやるっていうんだ。



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