第294話「最果ての晩餐」


 原典では、注文の多い料理店の描写はここで終わる。

 山猫と思われる妖魅は姿を現さないし、餌食になる寸前だった二人の都会から来た紳士も目撃していない。

 二匹の白熊のようなイヌと「にゃあお」というような動物の叫びが聞こえてきただけだ。

 だから、注文の多い料理店こと山猫軒が幻覚であったとしても、その正体は不明のままで終わる。

 或子とレイの戦いはついに予習のできない範囲へと突入することになった。

 ―――広い部屋だった。

 レストランテというには殺風景で、ラウンドテーブルと椅子が三つ置かれただけの、窓のない部屋だった。

 花瓶の中に百合の花が一輪だけ飾られていた。

 だが、人影はおろか、怪しい場所さえも見当たらない。

 油断なく室内を見渡した二人は、やや拍子抜けしてしまった。


「ここまでの廊下と同じなのかな?」

「それはねえだろ。としたら、ここだろ。少なくとも賢治の原典では、ここに連れ込まれるということが『おなかにおはいりください』だからさ」

「ということは……」


 或子はとことこと無造作に近寄り、椅子を引いてそれに座った。


「お、おい」


 思わず声を掛けたレイに対して、


「料理にして食べてしまおうというのでなければ、お客様扱いなのかもしれない。だったら、着席して料理を待つのもマナーだ」

「―――てめえのくそったれ度胸にはおそれいるよ」


 親友ばかりを危険にさらすわけにはいかないと、レイも続いて座った。

 そうすると、何もなかった奥の壁に扉が現われた。

 これまで書かれていた金文字はない。

 ただの扉だった。

 そして、ゆっくりと開く。

 向こう側からやってきたのは、黒いハンチングを被り、カソリックの司祭の着るカソックのような丈の長い服と同色のパンツを履き、縁が太くレンズの丸いロイド眼鏡をつけた青年だった。

 髭はおろか、すべての体毛がなさそうな、蛇のようにぬめっとした印象を与える。

 蛇というよりも鳥に進化する寸前の爬虫類だと、レイは感じた。

 或子でさえ、どことなく癇に障る男だと偏見を持ったぐらいだ。

 青年はゆっくりとテーブルまで近づいてくると、最後に空いたイスに腰掛けた。


『―――ようこそ、山猫軒へ』


 乾いた東風を思わす声であった。

 耳にした瞬間、理由もなく痛みが走るような。

 単なる打撃ならばともかく内部へ浸透する痛みについては、さすがの巫女たちも処置できない。

 無視できる程度の痛みと割り切るほかはなかった。


「てめえがここのオーナーなのか?」


 レイは敵意剥き出しの状態で口を開いた。

 すでにわかっている。

 こいつが、だと。

 さっきの蒼猫・赤猫と〈よだか〉のどちらもこいつの手下だということについてもである。

 だが、文字通りテーブルについた以上、交渉の余地はあるのかもしれない。

 この会話がただの時間稼ぎだという可能性も忘れてはいなかったが。


『そうだ。ほら、これを私が持っていることがその証拠だといっていいだろう』


 青年が懐から出したのは、一冊のわらばん紙で印刷された本だった。

 表紙にはタイトルの春と修羅、著者として宮沢賢治の名前がある。

 現在のようにイラストなどはついていないシンプルなデザインのものであった。

 めくらずとも、本全体から漂う妖気から本物であることは疑いようがない。

〈社務所〉どころか、日本中の退魔機関が魔導書と位置付けた書である。


「そこの江戸東京博物館から盗んで来たのかい?」

『いいや、もともとこれは私のものだ。わけあってよそに預けておいたら、勝手に晒しものになってしまっていたから取り戻しただけなのだ』

「だったら、この〈迷い家〉の結界はなんだい? 取り戻すだけでいいなら、こんな大袈裟なことはしなくていいはずだろ」

『―――何十年ぶりに手元に戻るのだ。ついでに悲願を叶えるための一歩を踏み出すのも悪くはないはずだ』

「悲願ってなんだよ?」

『もちろん、ほんとうの幸いとは何かを模索することだ』

「―――邪神を使ってかい?」

『イタクァはただの風の神さまだ。邪神などではない』

「ボクらには同じさ。八百万がひしめくボクらの国では、一柱や二柱、邪神が潜り込んでいても気にはしない。ただ、そいつがこの世に災害をもたらすというのならば、話は別だ。始末させてもらう」


 或子にとって自明の理だ。

 だが、ハンチングの青年は、


『実はね、この世界に生きているものは、みんな死ななけぁならんのだ。どんなもんでも最期には死ぬように。エリートでも、インテリゲンツァでも、プロレタリートでも、つまらない乞食でも、だ』


 息継ぎもせずに続ける。


『人間も、人間以外も、馬でも牛でも鳥でも鯰でもバクテリアでも、みんな死ななけぁいかんのだ。私もおまえたちもいつかは必ず死ななけぁならんのに、なにを拒む? 死ぬときは潔く、いつでも死にますとこういうことで行くべきなんだ。いっこうなんでもないことさ』


 青年は「死」がなんでもないことであるという。

 言葉で平等を訴え、死ぬこともまた同じく公平であると語った。


『だから、イタクァがやってくれば死ぬことを受け入れたって別に問題はない。あるかもしれないが、それは些細なことだ。死ななけぁならないことに比べたら、本当に些事でしかないのだ』

「些細なことかどうかは、キミが決めるものではないんじゃないか。第一、キミがボクらの代弁をする立場にあるのかい?」

『ある。私はおまえたちの考えを知るために、おまえたちに成り代わったという想像をしたことがある』

「それでどうなったんだよ。死にたくねえってことになるだろ」

『逆さ。私は死んでもいいと思った。当然のことだ。それからあとのことについて、もう私は知らないのだ。だったら死んでもいい』


 青年は訥々と真理を噛んで含めるがごとく言った。

 話の内容よりも、その口調に感じ入って説得されてしまう、そんな喋りだった。

 筋が通っている、いないに関わらず、信じていい内容だと感じられるがごとく。

 だが、彼女は間髪入れずに否定した。


「ボクは嫌だね。はい、論破」

「まあ、ちぃと気に入らねえが、こればっかりは或子に同意だな」

「だろ? キミはボクらを代弁して死を許容したといっているけど、そんなことはない。キミの語っているのは死をもたらす側の理屈だ。死を受け入れる側からみた世界ではない。さらに死にたくないと思う側からすれば、死んでから価値を与えられても何の意味もないことだ。それをいかにも、代弁してあげましたというような偽りの論理にボクらが従うものはないね」

「―――もっとわかりやすく言ってやれよ」

「そうだね」


 或子は頤に指を一本当ててから、


「ちゃんちゃらおかしいから、顔を洗って出直してきやがれ! ってことだね」


 青年は顔色こそ変えなかったが、わずかに眉をしかめた。


『話が通じない、ということでよろしいか?』

「違うよ」

『では、なんだ?』

「―――キミがなんのつもりでこんなことをしているかは知らないし、どういう力で〈迷い家〉なんてものを顕現させたのかもしらない。ただ、為すすべもなく殺されるのは誰だってゴメンだってことさ!」


 或子とレイは目配せといった合図もせずに、息の合った呼吸で目の前のテーブルを蹴り飛ばした。

 ひっくり返った天板は、ハンチングの青年に当たる直前に触れもしないのに半回転し、床に倒れていった

 青年が何をしたかなんてことはわからない。

 ただ、或子たちはたった今青年が語ったばかりの「悪」の理屈を許してはならないと考えていた。


『やはり、交渉は決裂か』

「当然だぜ! 悪いがこっちを尊重しているように見えて、実際は侮蔑しているようなやつの言い分が聞けるかってんだ!」

『……けらをまとひおれを見る農夫 ―――ほんたうにおれが見えるのか?』

「見えるさ! 宮沢賢治の不断のテーマは死者と生者の対話だ。それなのに、キミは死者を作り出すことしか興味がない。生きているボクらでは見えないと勘違いをしている。そんな勘違いを押し付けられては困る!」


 御子内或子は跳躍した。

 青年の直前で縦に回転し、胴回し回転蹴りを放つ。

 こんな奇襲的な大技が通用するとは思っていない。

 ただ、ぶつけたかった。

 人の死を支配しようとする論理を操る舌の根を切り取ってやりたかった。

 浴びせ蹴りが青年の肩を打った。

 そして、二人はもんどりうって倒れる。

 尻に敷いたまま、まっさきにマウントをとった或子は狂犬の打拳を放とうと右手を振りかぶる。

 だが、青年は或子に組み敷かれたまま、怨嗟に満ちた嘲笑を浮かべる。


『……たかが定命の人の身で痴れ事をほざくか』

「残念だけど、ボクらはその定命の人間にとっての決戦存在でね。この関東で何か悪さを企んでいるのなら、まずはボクらを始末することだ。でなければどんな悪事も門前払いさ!」

『では、そうさせてもらおう』


 青年は見下した顔のまま言った。





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