第290話「料理店の行き止まり」



『どうか帽子と外套と靴をおとりください』


 黒い扉に書かれた金文字を流し読みして、注文をまったく無視して或子は先に突き進んだ。

 どうせ注文主も聞いてもらえるとは思ってはいないだろう。

 この山猫軒に潜むものたちは、単に物語をなぞっているだけだ。

 物語の中の二人の若い紳士のように、自分の都合のよいように解釈して疑いもせずに進むとは考えてもいないだろう。

 もちろん、或子もそのつもりだ。

 時間がないのはわかっていた。

 ついさっき結界の外部で異常なまでの妖気の高まりがあったのを感じていたからだ。

 妖魅や妖怪の類いではありえないほどの巨大な妖気。

 或子はその正体も薄々見当がついていた。


「神さまの召喚か……」


 宮沢賢治の魔導書〈春と修羅〉を用いて行われるというのならば、おそらく風の神イタクァが目的だろう。

 日本ではなじみの薄い神だが、アメリカでもアジアでも大陸部ではよく知られている。

〈社務所〉の調査でも賢治とイタクァの関係は確認されているのでまず間違いはないはずだ。

 多くの人を風で空に巻き上げて生贄とする血に飢えた神―――いや邪神である。

 賢治はその邪神の信者であったようだから、彼が生きていたとしたらきっと召喚を目論むことだろう。

〈春と修羅〉初版本にはその呪文が記されていたのであろうから。

 だが、そんなものをこの東京で召喚させてたまるものか。

 或子は無限に続くかと思わせる扉をどんどんと蹴り開けていく。

 罠があるかもしれない。

 しかし、慎重に進んでいく暇はない。

 自分自身の勘と運を信じていく。

 もし、この世に御子内或子を必要とするものがいるとしたら、たかが罠ごときで彼女を遮れるはずがない。

 傲慢ともとれる自負心を抱いて、或子は突撃を続ける。

 新しい扉を開いたとき、


『いろいろと注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうかからだじゅうに、壺の中の塩をたくさんよくもみこんでください』


 と書かれている。

 或子はにやりと不敵に笑った。


「……ということは、この扉を開けたら子分どもが待ち構えているってことだね。ふん、長くイラつかせてくれたもんだけど、もうおしまいにしてやる」


 逃げることなどありえない。

 御子内或子の足は前に進むためについているのだから。

 幾つめかは覚えていないが、或子は黒い扉をまたも乱暴に蹴り開けた。

 もう一枚、これまでの二倍のサイズの扉があり、大きな鍵穴が二つついていて、銀色のフォークとナイフの形が切りだしてあった。

 例の金文字には、


『いや、わざわざご苦労様です。しかし、大変残念な出来でございます。仕方ありませんが、そのままおなかにお入りください』


 とあった。

 或子の記憶にある文言とは違う。

 すべての注文を無視してきた彼女に対して立腹しているらしいことがわかる。

 だが、物語をなぞらえて言いなりになるなんてことはできない。

 鍵穴からこちらを見つめる二つの黄色の目玉がキョロキョロと動いていた。

 何かがあの扉の向こうで様子を窺っているのだ。

 妖魅特有のオパールの瞳を持って。


『ダメだ、ダメだ。こっちのいうことを聞きやしない。まったくなんて客だ』

『あたりまえさ。今どき、注意書きを忠実に守るような行儀のよい客がいるわけがない。やっぱりいつもの通りにギャルソンを用意しておくべきだったんだ。親分の言うことを聞くべきだったんだよ』

『だけど、もともとの間抜けな文章を書いたのは親分だ。悪いのはあっちじゃないかな』

『どっちでもいいよ。どのみち、あんなに美味しそうな相手でも骨だってわけてくれないんだ』

『それはそうだけど、料理をするのは僕らの責任なんだぜ』

『じゃあ、呼ぶか。―――おい、お客さん。早くいらっしゃい。お皿も洗ってあるし、付け合わせのサラダも用意してあるんだよ。あとは、あんたらと綺麗に盛り合わせればいいだけなんだ。はやくいらっしゃい』

『いらっしゃい、いらっしゃい。なんなら、フライでも天ぷらでもどれでも構いませんよ。下ごしらえはできていないけれど、まあ何とかなるでしょう』


 舌なめずりをしているのが想像できる猫なで声が聞こえてくる。

 誘っている。

 扉の奥から或子を骨までしゃぶりつくそうと誘っている。


『いらっしゃい、いらっしゃい。さっきまでの勢いはどうしたのですか。足が竦んで動けないのですか。―――へい、ただいま。じきに持って参ります。……では、こちらからお伺いしてもよろしいんですよ』

『早くいらっしゃい。親分が、お客さんを待っていらっしゃるんですから。なにを愚図愚図してらっしゃるんですか、このノロマめ』


 身じろぎ一つしない或子を、怯えてしまって動けないと見たのだ。


『なんたることだ。肩が震えている』

『泣いている! 泣き声を漏らしている!』

『所詮はただの人の小娘であったということか』

『用心して無駄であった! これではさっさとフライにしてしまうしかないではないか。面白くもない』

『面白くなし』

『親分の眼も曇られたものだ』

『では、さっさと―――』


 その明らかに或子を舐めきった台詞が止まった。

 宙に呑み込まれた。

 或子は泣いてなどいなかった。

 漏らしていたのは泣き声などではなかったのだ。

 低く低く、やがて廊下全てを揺るがせて鳴り響くような哄笑の凄まじさは、もはや、ただの少女のものの範疇には留まらなかった。

 ぐいとまっすぐにねめつけた視線は、扉の奥のものをもたじろがせた。

 唇を吊り上げた笑いは、たじろがせたものを石へと変えた。


「―――この程度のレストランテが客に注文をつけるというのかい? は、ちゃんちゃらおかしいね!


 或子は両腕を組んで、仁王像のように言い放った。


「注文の多い料理店は、どっちもどっちの悪党同士による収奪の物語だというけど、それは物語の上でのことさ。キミたちは、ここでただの通行人をお客様にしたてあげて餌食にしてきただけのただ化け物じゃないか! 少なくとも、悪いのは確実にキミらだ!」


 そして、指を突き付け、


「人を害する化け物どもめ。太陽神天照大神の力をお借りした〈社務所〉の媛巫女が恐ろしくないというのならかかってくるがいいさ!」


 或子の発した啖呵に対して、扉の奥のものたちは、さっきまでの態度とは打って変わった弱腰で、


『なんか恐ろしい客みたいだよ』

『親分が言っていたのとだいぶ違うんじゃないかな?』

『ちょっと強そうだよ。僕たちの予想よりもずっと強そうだよ』

『でも、行くしかないんじゃないかな』

『―――行くしかないのかな』

『親分がキレたら僕たちも終わりだから』

『それはこわいねえ』

『僕わからない』

『僕たちしっかりやろうねえ』

『そうだね、カンパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ』


 こそこそと話し合いをしたかと思うと、いきなり扉が開いて、赤と青の二つの色の毛皮を持つ人よりも大きな怪猫が或子目掛けて襲い掛かってきた。

 或子は慌てもせずに構えを取り、そして迎撃する。

 さらに奥にはまだ親分と呼ばれる敵がいる。

 こんなところで手こずっている訳にはいかないのだ。



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