第46話「弁天様は非リアなのか?」



 スワンボートはちょうど出払っていたので、普通のボートを借りることにした。

 体力とか腕力では僕よりも御子内さんの方が上なのだが、女の子に漕ぎ手をさせる訳にはいかないので、僕がオールを握る。

 最初のうちはうまくいかなかったけど、コツを掴むと意外と簡単だ。

 ただ、他の人とぶつからないようにしないとならないのに、船尾側に乗っている御子内さんが確認をやってくれないので困った。

 ボートの縁に肘をたてて、なんだかやさぐれたように景色を睨んでいるのである。

 しかも、なんだかスラリとした足を無造作に組んでとても機嫌が悪い。

 まるでうちの母さんが、結婚記念日に帰ってこない父さんにイラついているときのようだ。

 そういえば涼花もたまにこんな風になる。

 女性というのは似たような挙動をするものなのだと感心してしまった。


「気持ちいいね」

「はん。どこが」

「池の上はなかなかいいよね」

「さっぱりだよ」

「少し身体を動かすと調子が出てくる気がする」

「それはようござんした」

「……」


 目も合わせてくれなくなった。

 まったくもってどうしようか。

 四月になったばかりだけれど、今日はとてもいい陽気で、じっとしているだけでも汗が流れてしまうぐらいだった。

 オールを漕ぐと額が汗で濡れるほどだ。

 ふう。


「……そういえば、ちょっと前もこんな暖かい日があったよね。三月だというのに記録的な初夏みたいな一日だとか言われていた。なんだか毎年記録的な暖かさとかいうけど、ああいうのは本当なのかな。あれは絶対に盛っていると思わない?」

「覚えてないね」

「いや、あの日は、僕と御子内さんで映画に行ったでしょ。で、御子内さんがGジャンは暑いからって脱いで……」

「巫女装束にGジャンは変っていったのはキミだ」

「そんなこと言ったっけ?」

「言ってた」


 結局、きちんと覚えているのに。

 なんでこんなに不機嫌なんだろ。


「そういえば、したんだってね」


 かいぼりというのは、農耕用のため池から水を抜き、魚を捕獲したり、護岸の補修や点検等を行うことをいう。

 ため池の機能を維持するために必要な管理のことをいい、この弁天池のような都市部の公園池などでは、水質改善や外来魚を駆除することによる生態系の回復を目指すことも含まれている。

 ここ井の頭公園は再来年が100周年にあたるということで、その事前準備の一環としてかいぼりを行ったのだ。

 そして、水を抜いたら予想以上のことが起きた。

 池の底には自転車が200台くらい捨てられていて、他に中型バイクやスクーターなども引き揚げられたのだ。

 それだけでなく、台車やゴルフバッグ、プリンター、路上標識、扇風機なども見つかり、ゴミ処理の費用が必要になって一時問題になったという。


「でも、そうなると、例の離婚したがっていた夫婦は、いつボートに乗ったんだろう?」

「……神田川から水を入れるときに、希望者を募ったらしいよ。それで汲尾きゅうお夫妻が応募して当たったって話」


 きちんと話は聞いていてくれるようだ。


「そっか。日にちはわかる?」

「さあね。自分で調べればいいじゃないか。……確か、さっきの映画に行った日のことだと思ったけど」

「ああ、今日みたいな暖かい日ね」


 ということは、この公園も散歩しやすい日だったのだろう。

 そりゃあボートにでも乗りたくなるのはわかるね。

 カップルならともかく夫婦なら別れることもなさそうだし。

 汲尾きゅうお夫妻はそう判断したのだろう。


「虫が邪魔だなあ」


 御子内さんの手が伸びた。

 何気ない動きだというのに、ほとんど動き出しが見えなかった。

 白い指先で何かを摘まんでいる。

 差し出されたので目を凝らすと、なんと蚊だった。


「もう蚊が飛んでいる季節なんだね」

「びっくりだよ」


 びっくりするのは飛んでいる蚊を不安定なボートの上で摘まんでしまう君の動体視力だ、と思った。

 本当にいつも思うけれど御子内さんは凄い。


「蚊に刺されなかったかい?」

「大丈夫だよ」

「なら、よかった。結構大きいやぶ蚊だから、刺されたらにでもなっていたかもしれない」

「まさか」


 冗談を言ってくれるぐらいには気が緩んだらしい。


「……でも、ボートに乗っただけじゃなにもわからないね」

「妖怪だから水面下にでもいるかもしれない」

「それがかいぼりで出てきたとか?」

「ありえなくはないね。だって、長らく動いていなかったものを人間の都合で勝手にすると、そこに怪異を招くことがあるというのはよくあることだから。ボクも何度か体験したことがある」

「そっか……」


 ただ、井の頭公園のかいぼりは一昨年も行われている。

 何かあったとしたら、一昨年も起きていないと辻褄が合わない。


「それに、ここは弁財天の守る池だ。生半可な妖怪なんて、ここに棲み続けられないよ。弁財天が許しはしない」

「じゃあ、弁財天が特別に許したってことは?」

「神仏が? ……うーん、よほどの繋がりがないとね。例えば、もとは神々を守っていたルーツを持っている妖怪―――河童とかなら……」


 弁財天というのは、もともとはインドのヒンドゥー教の神様サラスヴァティーのことだといわれている。

 サラスヴァティーの語源は「聖なる河」であり、基本的には水の神様である。

 我が国でも、三大弁才天とされている、江ノ島や竹生島、厳島では、水のそばにまつられていることが多い。

 この井の頭弁財天も、池の中に祀られていることからわかるね。

 もっとも、水の神であっても、水の流れが音楽を連想させることから、音楽をはじめとした芸術や学問全般の神様としても有名であり、同時に五穀豊穣の神様としても崇められている。

 弁財天と呼ばれるのは、「才」を「財」に置き換えて、財宝を授ける神様としても信仰されているからだ。

 ここの井の頭弁財天にも、本堂の裏手に、龍の形をした銭洗い弁天があり、お金を洗うことで財産が増えるご利益があると言われていた。

 転じて、福を授ける七福神の一角になったということらしい。


「鬼子母神とかと違って、気性は穏やかな神さまだからね」

「……そういえば大黒様もインド出身なんでしょ」

「ああ、七福神はルーツが天竺ということが多いね」

「天竺かあ」


 まるで逆の西遊記だ。

 弁天様は、インドから旅をして東へ東へやってきて、この極東の静かな島にやってきたんだね。


「ただ、弁財天のもとになったサラスヴァティーは二柱の主神のもとで相当な苦労をしたみたいだからね。意外と苦労人で、嫉妬深いところもあるようだよ」

「ああ、だからカップルが別れるなんて話があるんだ。リア充死ねってやつか」

「りあじゅう……?」


 御子内さんには難しい話だったらしい。


「うーん、よくわからないなあ」


 実際にボートに乗ってみても、わからないことだらけだ。

 どんな妖怪―――今回は怪異かもしれないけど―――がこの井の頭公園で暴れているのかさえわからない。

 下手をしたら、もうここにはいない可能性もある。

 妖怪は目に見えないものだけど、普通ならば霊感の強い人による目撃例の一つぐらいあってもおかしくないのに……。

 もっと目に見えない妖怪ということなのかも。


「とにかく、ボートの乗り心地はわかったし、降りるとしようか」

「そんなものを知れても意味はないと思うけどね。降りることは賛成だよ」


 僕はボートを乗り場に接舷させ、艀に上がると、手を伸ばして御子内さんを地上へとあげた。


「……随分と手慣れているね。もしかして、初めてじゃないのかい?」

「いや、初めてだよ。オールなんて漕いだこともない」

「ふーん、それにしては紳士なエスコートだ。ボクはちょっとキミのことを見なおしたところだよ」

「それはどうも」

「京一がいてくれると安心だね」

「ありがとう。嬉しいよ」


 多少は機嫌がよくなったらしい御子内さんとともに、僕は陸へと上がった。

 桜の花に導かれるように。

 だが、まだこの公園に巣食う謎の存在についてはわからないままだ。


 いったい、どうすればいいものだろうか?

  

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