第222話「骨折魔」
杉並区で発生している連続女性傷害事件は、ほんの三週間の間に三件報告されており、いずれの被害者も四肢の骨を折られていた。
そのあまりにも器用な手口から、格闘技などに精通している人物が怪しいとみて、警察は近所の大学にある柔道部や空手部員などを中心に捜査を進めていた。
だが、犯人と思しき人物の目撃情報は皆無であった。
なぜなら、被害者は三人とも一人暮らしの若い女性であり、骨折の激痛によってほとんど数時間以上気絶した状態であるため、発見されるまでに時間が経ちすぎていて、すぐに機捜による検問・聞き込み等が行われなかったからである。
三人目の被害者については、発覚したのが犯行から丸一日経過してからということもあって、初動がさらにうまくいかなかったのだ。
そういった事情もあって、杉並区の骨折魔と呼ばれた変質者の正体はまるで掴めずにいたというのである。
―――もっとも、妖怪〈獏〉のおかげで、私たちはその骨折魔の次のターゲットとなる女性の見当がついている。
名前は撫原泉希。
今年で二十二歳になるOLであり、〈獏〉に夢を操作された女子高生・撫原彩也子の従姉にあたる。
短大卒業を機に親戚宅の近所で独り暮らしを始めたという彼女は、骨折魔の被害者としての条件は十分に満たしていた。
夢問神社の神主の話では、もともとこのあたりは〈獏〉が発生しやすい地域で、そのために江戸時代に神社が建立されたらしい。
だから、近所に住む氏子の彩也子が〈獏〉の食べた夢の残骸によって犯罪者とリンクしてしまったことも不思議はないのだという。
ただ、その理屈でいうと、骨折魔もこの近所に住んでいることになる。
〈獏〉に夢を食べられたということになるのだからだ。
要するに、今回、てんが担当したのは、妖怪による被害と、現実の犯罪者の凶行が偶然に重なりあってしまったという珍しい事件のようであった。
退魔巫女として使命だけを重視するのならば、てんは妖怪〈獏〉を封印するなりしてしまえばいいだけなのだが、彼女は彩也子の願いを聞き入れ、撫原泉希を助けることを決めた。
以前、出会ったてんの先輩達もそうなのだが、やはり彼女も少々お人好しな気がしてならない。
「―――すぐにあなたにもわかりますよ。熊埜御堂さんは優しい子だから」
かつて、ある少年に言われたことが脳裏をよぎる。
彼はすぐにと言っていたが、未だに私にはてんがどういう人間なのかわからない。
優しいと言ってしまっていいものなのだろうか。
今回のことは、それを見極めるいい機会なのかもしれない。
そんなことを考えていた。
◇◆◇
時間は午前二時。
一人で男がうろつき回るのは怪しすぎる時間帯だった。
〈分身〉とすれ違う人は誰もいない。
まるで、人が一切通りかからない時間帯を熟知しきっているように悠然と歩いている。
マンションには正面玄関からは入れない。
オートロックがかかっているからだ。
だから、〈分身〉は裏に回って、ブロック塀を乗り越えた。
猿のように身軽だった。
少なくとも運動不足の人間の動きではない。
そして、マンションの共用の庭にでると、一室のベランダに昇って、ガラス戸の鍵をマイナスドライバーで壊した。
慣れた手つきと、鍵の構造を熟知した器用さだった。
内部は誰もいない無人の部屋だ。
〈分身〉は誰もいないことを知っていたかのようである。
そっと無人の部屋を出る。
泉希の部屋は三階だ。
廊下にある防犯カメラの位置は把握しているらしく、その前を通る時だけ帽子をかぶってやり過ごしていく。
エレベーターは使わない。
こちらも中に防犯カメラがあるからだろう。
階段を使い、三階まで上ると、まっすぐ泉希の部屋に行き、ノブに手を掛けた。
普通なら開くはずがないのだが、ガキンと捻ると何故かノブが動く。
玄関が管理人つきのオートロックということがあってか、個々の部屋の施錠の鍵が緩くできているようだった。
そのことも〈分身〉はよく知っていたのだろうか。
万事、よく調べているようであった。
そのままするりと音もたてずに室内に入り込む。
玄関の扉が閉まった。
部屋の中では今頃、若い女性の骨を折って楽しむ変質的な犯罪者と撫原泉希という罪のないOLが二人きりになっている。
それはどれほど危険なことだろうか。
これまでの被害者は、すべて両腕は確実に、脚でさえ確実に一本は折られていた。
なんのために、そんなことをするのかはわかっていない。
ただ、いえることは、撫原泉希と対面している犯罪者は異常だということだけである。
―――薄暗い和室では、布団に横になって寝息を立てている小柄な女性と、四つん這いで覆いかぶさっている男がいた。
月光の明るさしかない薄暗い中で、じっと気づかれないように泉希を眺めている。
彼女は横向きになって枕に顔を埋めてすやすやと寝息を立てていた。
長い髪の毛が寝癖でぼうぼうになっている。
不気味な光景だった。
いつ、彼女の骨を折ろうかと考えているようで、狂気に満ちた眼光を湛えている。
四つん這いから膝立ちになる。
屈みこんで手が伸びた。
泉希の手首を握りこむ寸前、
「そろそろ、止めた方がいいな」
「なっ!?」
〈分身〉の手首が紅く充血する。
自分と泉希以外に誰もいないはずなのに聞こえてきた男の声と、いきなり誰かに握られたように圧迫される手首に痛みを感じたのだ。
あまりの異常事態に〈分身〉が取り乱し、室内を見渡した。
だが、誰もいない。
いるはずがない。
しかし、
「ほお。あんただったのか、骨折魔は」
「なんだ、誰だ!? どこにいる!?」
キョロキョロしても誰も見当たらない。
それはそうだろう。
おまえを掴んでいるのは、私だからだ。
〈
「は、放しやがれ!」
「それは構わんが、私に取り押さえられたほうがまだマシだと思うぞ。犯罪者め」
「放せ!!」
「あ、そう」
私はずっと後をつけていた、彩也子のいうところの〈分身〉の手首を掴むのを止めた。
このまま、私が得意の「
放せ、というのだから。
だから、放した。
手首が解放されたことで一瞬ほっとした骨折魔の顔面が驚愕に歪む。
下から伸びてきた手が服の奥襟を取り、そのまま反対側の手が十文字に胸倉を締め上げたからだ。
次の瞬間には、跳ね上がった撫原泉希の両足が胴体を挟み込み、反動と共に位置が逆転する。
まばたきする間もなく、骨折魔は組み敷かれていた。
寝ふけっていた小柄な女性によって。
頭から顔を隠すために被っていたつけ毛が落ちる。
現われたのは、熊埜御堂てんの幼い顔であった。
「―――反応が遅いですよー」
呑気な声でダメ出しをする。
「なんだ、てめえは!!?」
「てんちゃんには変質者に語る名前はないですね」
「は、放せ!!」
「柔道の心得ぐらいはあるみたいですけど、やっぱり無抵抗の女の人を襲う程度の奴じゃたいしたことありませんねー」
「このガキ!! 何をしやがる!?」
てんは組み敷いた骨折魔の左手を握り、そして無造作に捻った。
ポキ
軽すぎるほどの嫌な音がした。
上腕部の第二関節を外した音だ。
「ぐぎゃああああ!!」
骨折魔は激痛に叫び声をあげようとしたが、私がその口にタオルを適当に突っ込んだ。
騒がれてはさすがに困る。
「―――酷いもんですねー。罪もない女の人をこんな痛い目にあわせておいて、自分がされるのはイヤだなんて。でも、心配しなくていいですよー。てんちゃんの方があなたよりもずっと綺麗に折ってあげられますから。まずは逃げられないように肩の骨を外してしまいましょうかー」
……骨折魔にとっては阿鼻叫喚の時間がやってきた。
さすがの私も居たたまれなくなってベランダの外に出るほどの。
すると、隠しておいた携帯に電話がかかってきた。
「……ロバートです」
『首尾はどうですか?』
「えっと、とりあえず骨折魔は捕まえました。こちらに怪我はありません」
嘘は言っていない。
『良かった。……では、こちらは媛巫女さまのための〈護摩台〉の設置を続けます。ですが、そちらが一段落ついてからでもいいのですよ。彩也子さんもそう言っていますし』
「いえ、うちの熊埜御堂は、一刻も早く〈獏〉害から撫原さんを助けたいと言っていますし、今日中に片をつけてしまいましょう」
『わかりました。―――しかし、さすがは〈社務所〉の方たちは手際が違いますね。昨日の今日でもう解決してしまうとは……』
「いえ、まあ、馴れておりますので……」
正直、私は〈社務所〉の人間ではないので素直に称賛されることはできない。
これだっててんが望んだからやっているだけのことなのだ。
「では、すぐに
『お待ちしています』
私は通話を切ると、部屋の中に戻った。
「てん。そろそろ、神社に戻るぞ」
「はいですよー」
電灯を点けると、Tシャツとホットパンツ姿のてんが骨折魔を完全に再起不能にしていた。
人形のように細くて白い手脚なのが逆に恐ろしい。
全身の関節が見たこともない方角を向いている。
壊れた玩具のようで、白目を剥いて気絶していた。
「……どれだけの骨を折ったんだ?」
「えー、実は一本も折ってないですよー。関節を外しまくっただけですよ。うまくやりましたから、すぐに嵌められますし」
「無残な姿だな」
「誰も助けてくれない暗いお部屋で骨を折られた女の人のことを考えれば、こんなのどうということはないですよー」
あっけらかんと言い放つてんは、やはり普通ではなかった。
「そうだ、ロバートに頼みたいことがあるんですよ。いいですかー?」
嫌な予感がするけれど、残念ながら私に拒否権はないのである。
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