第223話「妖怪〈獏〉」
夢問神社は、入口こそ狭いところにあったが、境内は小さな祭りを執り行うには十分なレベルの余裕があるほど広く、また、〈護摩台〉という名の例のプロレスリングも余裕をもって設置することが可能だった。
骨折魔を取り押さえに出掛ける前に、ほとんどの準備を終わらせていておいたといっても、まだ細かい点検は終えていなかったので心配をしてはいたが、残りについてはなんとか神主がやっておいてくれたようだ。
少し離れたところのパイプイスに神主と撫原彩也子が疲れた顔で座っていた。
彩也子にも手伝いを頼んでおいたのである。
だが、あの二人にはこれからしてもらう仕事があるので、休めるときに休んでもらうのはいいことだ。
「―――おまたせしましたですよー」
てんが春爛漫という雰囲気を発しながら、二人に近づいていく。
あれが骨折魔の全身の骨を脱臼させた悪魔のような少女だとは、百人に聞いても百人が否定的に答えることだろう。
神主が聞いてきた。
「おや、ロバートさんはどうされたんですかな?」
「ロバートは骨折魔さんを引渡しに警察屋さんに行っていますですよー。こっちが片付くころには戻ってくると思いまーす」
「道理で姿が見えないものと思いました」
私はいつものコートと包帯を巻かずに、〈透明人間〉としての通常のスタイルである全裸のままでここにいた。
だから、当然のこととして、二人には見えない。
「ですが、禰宜の助けを借りずに、媛巫女さまだけで〈獏〉の相手を為されるのは大変なのではありませんか?」
「全然、大丈夫ですよー。てんちゃん、これでも飛び級するぐらいには無敵ですからー」
笑顔で受け答えをしながら、てんは〈護摩台〉の様子を確かめた。
彼女は今からここで戦うことになっている。
戦場のチェックに余念がないのは闘士としては当たり前なのだ。
「ロープのテンションもこのぐらいなら、まあいいですねー。てんちゃんはあまり空中戦はしませんからー」
私は音を立てずに近寄った。
すると、てんがすぐにこちらを向いた。
視点が合っていないので、私の位置を正確にわかっているわけではないようだ。
ただ、退魔巫女と呼ばれるものたちの野性的な勘で気が付いたのかもしれない。
私がてんに敗れたときもこんな反応をしていたから。
二人には気が付かれないように小声で話しかけてきた。
「―――気がつかれていませんねー」
「まあ、そうだな。私は〈透明人間〉であるから普通はわからないだろう」
「では、頼んでおいたことをお願いしますですよー」
「……いいのか、そんなことをして?」
てんは首をひねって、
「だって、さっきの骨折魔がおかしなことを呟いていましたからねー。そこは検証しておかないと」
「私にこういうスパイみたいな真似をさせないでほしいところなのだが」
「別にいいじゃないですか。一生懸命なのはいいことですよー。でないと、うちのお父さまに、ごくつぶしって呼ばれちゃいますよー」
「……熊埜御堂氏には感謝している―――って私はごくつぶしと言われているのか!?」
「今のところ、しょっちゅう口にしているのは、うちのお母さまだけですけどねー。エンゲル係数があがりすぎて困っているそうですよー」
聞きたくない内容だった。
一応、仕事はしていたつもりだが、もしかしたら熊埜神社では居候の私の立場はだいぶ悪いことになっているのでは……
ニートよりはマシなつもりなのだが。
「―――とりあえず、私は行ってくる。てん、あまり無理はするな」
「はい、ですー」
てんがひょこひょこと歩いて行く。
そのまま神主のところに行き、何やら話を聞いている。
おそらくさっき私が聞いたことの繰り返しだろう。
「では、この絵馬に封じればいいのですねー」
「はい。幽体ならともかく、実体化した〈獏〉は我々では術を使っても捉えきれないのです。純粋な力を使って拘束しなければならないので、江戸期には角力の力士を雇っていたという話もありますが、ここ最近は〈社務所〉の媛巫女方に依頼するようにしているんです」
「なるほどー」
てんが渡されたのは、ベースボールのホームベースほどの大きさの巨大な絵馬だった。
何かの呪文が書かれているが、絵馬らしい絵はどこにも書いてない。
確か、あれが〈獏〉を封印するための呪具という話だ。
てんの仕事は、〈護摩台〉に〈獏〉を誘い込み、叩きのめしたうえで、あれに術をかけることになる。
そして、〈獏〉を誘い込むための餌は……
「わ、わたしですか?」
「みたいですよー。〈獏〉に夢を食べられる人ってどうも決まっているらしく、彩也子さんは何度も狙われているのでいい食材になりそうですよねー」
と、撫原彩也子が連れていかれた。
あいつはホントに強引である。
しかし、他人を食材扱いしてはいけない。
「まあ、仕方ない。てんを信じるとするか」
私は独り言をつぶやくと、そのまま夢問神社の拝殿へと忍び込んでいった。
正面は鍵がかかっているようだが、神主などが出入りする横の出口は開いていた。
入ると、かなり薄暗い。
まだ夜明けまではだいぶ時間がある。
私は暗殺者として育てられたイギリス時代を思い出して、ゆっくりと慎重に奥に向かった。
構造としてはごく普通の社だ。
ただ、拝殿の奥にさらに広めのスペースがあるらしいことがわかった。
倉庫とはまた違うもののようである。
多分、そこがてんの確認したいところだろう。
近づくと、かなり杜撰にブルーシートが貼ってあった。
屋内であり雨風を防ぐためのものではなさそうなので、何かを隠す目的だろう。
神社の中にブルーシートというのは非常に珍しい。
ペンキ塗りでもしているようだ。
軽くめくってみると、奥に行けそうだった。
私は躊躇わずに中に入る。
そこは窓のない真っ暗な場所だった。
LEDの目印に従い灯りのスイッチを入れる。
部屋が明るくなり、私は内部の状況が完全に読み取れた。
「さすが、というべきか……。あいつの予想通りとはね」
それから住人に気づかれないように、さっさと私は逃げ出した。
◇◆◇
実際の動物のバクと違い、空想上の〈獏〉は鼻はゾウ、目はサイ、尾はウシ、脚はトラにそれぞれ似ているとされる。
夢問神社の建物を上から見下ろす高みに、気球のように浮かんでいる妖魅はまさにその姿をしていた。
てんは妖怪が予想以上に大きなことに驚いた。
「あれー、猪どころか河馬くらいあるんじゃないですかねー?」
〈護摩台〉のマットで彼女の隣にいた彩紗子は見覚えのある妖怪の姿に怯えていた。
深夜悪夢に震えて目を覚ました彼女の頭上でムシャムシャと咀嚼音を立てていたあの時の怪物だ。
悪夢から飛び出してきたかのような醜い顔つきと、人のものに酷似した歯を持っていて、これまた人にそっくりな舌なめずりをしている。
丸い眼球は彩也子を見ていた。
はっきりとわかる食欲という欲望にまみれた目つきで。
〈獏〉は彩也子の悪夢を味わいつくすために現れたのだ。
人は喰われることに耐え難い恐怖を感じる。
まだネズミのような小動物であったときの名残であろうか。
捕食者に睨まれたとき、生物は動きを止める。
彩也子は自室でみたときとは明らかに違う、質感をも備えた〈獏〉の姿から目を離せなかった。
目を背けたらその瞬間にも食われてしまうのではないかという思いのままに。
「でも、大丈夫かな。彩也子さん、安心しててんちゃんに任せるですよー」
その手をぎゅっと握りしめられた。
手の主は春の風のように陽気に、優しさに満ちた声をだした。
子供のような小さなつるつるした手。
汗さえも掻いていない。
全く平然とした様子だった。
「あなたに……任せていいの?」
「もちろんですよー」
ハートマークがつきそうなほどに気楽な声だった。
だからこそ、彩也子は信じた。
「お願い、てんちゃん」
「はーい!」
熊埜御堂てんはいい返事をした。
この場は彼女に任された。
ならば、結果を出さねばならぬ。
それが彼女たちの使命なのだから。
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