第224話「暴れん坊巫女さま」
頭上の空間に、どう見ても猪のような外観にも関わらず、蛇がとぐろを巻いているがごとく〈獏〉はうねっていた。
伝承に言うサイの目が、てんと彩也子を不躾に見下ろす。
だが、敢然と最年少の退魔巫女は睨み返す。
彼我の体格差は二倍を遥かに通り越し、子供と雄牛の対峙に等しい。
それなのにてんは怯まない。
「ロデオみたいなもんですねー」
てんは、タイミングを見計らって、背中に庇った彩也子を〈護摩台〉から降ろした。
〈獏〉が空中から襲ってくるタイミングということだ。
神主の話や〈社務所〉からの報告に従えば、〈獏〉は危険な妖怪ではない。
だからこそ、まだ新米であるところのてんが派遣されたはずなのだが、宙でうねりを上げている〈獏〉は明確な敵意―――いや、食欲を特に彩也子に向けていた。
はっきりとした危機まで感じさせる〈獏〉の態度にてんは争いは避けられないことを認識させる。
そして、その認識は事実のレベルまで繰り上がった。
〈護摩台〉から降りたことを「逃げた」と考えたのか、誘われるように〈獏〉が動く。
何もないはずの空中に道があるかのように、猛進の勢いで駆け下りてきた。
目指すは彩也子。
しかし、そんな勝手を許すてんではなかった。
突進してくる〈獏〉の前に立ち塞がる。
〈獏〉のトラのような前肢が彼女を排除しようと薙いだ。
てんはそれを躱すと〈獏〉のたてがみのような毛を掴み、一気に跳びあがる。
退魔巫女らしいバランス感覚で〈獏〉の背に飛び乗った。
背も小さく、身体も軽い彼女には難しくはない軽業である。
奇しくも本人が予想していた通りに、荒れ狂う牛に跨るロデオの格好になる。
ただし、ロデオのための手綱などはない。
〈獏〉が暴れ回れば即座に振り落とされるような危険な体勢だった。
背中に乗られたことを悟ったのか、〈獏〉はマットに着地すると同時に全身を撥ね上げた。
軽い巫女の身体ではまるで羽根か小鳥だ。
ふわりとふわりと宙を舞う。
振り落とされまいと必死にたてがみを掴むてんだったが、さすがに十回以上の乱暴な上下動に耐えきれず、手を放してしまう。
彩也子が思わず「危ない!」と叫んだが、当のてんは余裕の着地を見せる。
もともと身軽というだけでなく、彼女が特技とするコマンドサンボの飛び腕ひしぎ固めを極めるときに見せるへそのあたりで回転する機動の応用だ。
先輩にあたる神宮女音子なみとはいかなくても、熊埜御堂てんの空中戦能力も相当特化している。
「ふぅー、危なかったですよー」
軽口を叩く間もなく、〈獏〉が突進してきた。
四本足がマットについているせいか、さっきまでと違い足音が轟く。
てんは側転してひらりと避けた。
何倍もの体重差がある四足獣と正面からぶつかることはできない。
代わりに横に回った時に、マットに触れる寸前の前肢を蹴たぐる。
激しくつんのめった〈獏〉がマットに倒れこんだ。
近づこうとしたが、牛のものと酷似した尻尾が邪魔をしてきた。
気を削がれたせいでてんは攻める機会を逸する。
再び、体勢を整えた〈獏〉とてんは中央で対峙した。
『キュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ』
夢を
伸縮自在のゾウのごとき鼻が伸びて、てんの手首に巻き付いた。
時には音速にさえなるという鞭の先端のようにあまりにも速かったため、てんの反応がわずかに遅れた。
ぐいっと引かれた。
パワー勝負では小柄な彼女に勝ち目はない。
妖怪の前に釣りだされる。
だが、てんは下手な抵抗をせずに逆に〈獏〉目掛けて踏み込んだ。
そして、自分を迎え撃つ前肢の一薙ぎを躱して抱え込んだ。
人のものとは明らかに違う肢だが、関節の存在は同じである。
てんのコマンドサンボは人ならざるモノと戦うためにも使用できるのだ。
見た目からはあり得ない握力で肢首を掴むと、そのまま力のベクトルを変えないで反対側に捻り、そしてひじ関節をねじる。
至極、初歩の関節技であったが、〈獏〉にとっては初めて体験する攻撃であろう。
関節にかかる痛みにむせび鳴く。
必死に振りほどこうとしても無駄だった。
熊埜御堂てんの握力は、実のところ、120キログラムある。
砲丸投げの金メダリスト室伏広治とほとんど一緒なのだが、そももそのサイズ差を考えると実質は上回っているともいえる。
リンゴを潰すための握力は70~80キログラムの握力が必要であり、成人男性の平均が50キログラムであることを考えると女子中学生でそれほどの握力を持つということは超人的ともいえる。
彼女のコマンドサンボの根幹を支えるのは、その尋常ではない握力といっても過言ではない。
毛皮ごと肉を剥ぎ取るような握力で引っ張り、自分のやりやすいように相手を動かす。
熊埜御堂てん―――二つ名を〈
極めるまではいっても折ることは叶わないと判断したてんは、そのままくるりと回転し太ももの間に〈獏〉の首を挟み込む。
それから、両手を振って、妖怪を引っ繰り返した。
体重差をものともしない、梃子の原理の応用だった。
そして、梃子こそがコマンドサンボの神髄。
〈獏〉は惨めに腹を曝け出した。
てんはその腹を両手で掴んだ。
リンゴも砕く握撃で腹筋を貫く。
ストマッククローであった。
またも、『キュウウウウウウウ』と悲鳴を上げる〈獏〉。
完全に力任せに引きはがせないてんに守勢一方になる。
そのとき、戦いを見つめていた神主の目に奇態なものが映った。
彼はそれを知っていた。
「媛巫女、あなたの白昼夢を〈獏〉が引きずり出そうとしています」
「なんとー!?」
てんの背中から七色の泡が噴き出していた。
彼女自身はなにも感じないが、それはてんが普段寝ながら見る夢を強引に〈獏〉が引きずり出そうとしている結果だった。
夢を食べられると意識が途切れる。
彩也子も何度か失神していた。
ある意味では攻撃にも転嫁可能な〈獏〉の食欲は、妖怪特有の秘儀といってもいいだろう。
さすがのてんも危機感を覚える。
あの夢を食われたら、意識がとぶおそれがある。
だから、そんなことはさせまいと、太ももに力を入れてさらに締め上げると、今度は長い鼻を押さえつけて螺旋に捩った。
〈獏〉の鼻には軟骨はあっても骨はない。
つまり関節技は効かない。
ゆえに、てんは握力で無理矢理に〈獏〉を操った。
すでに〈獏〉が戦闘に向いている妖怪ではないことはわかっている。
ただ、むやみやたらに暴れているだけなのだ。
要するに力づくで制圧してしまえばいい。
彼女の持つ、三つの恐るべきものは、「握力」と「言霊術」、そして「暴虐なまでの力への信奉」である。
先輩である御子内或子たちが持つものが圧倒的な武力だとしたら、てんが持つものは苛烈なるまでの暴力だった。
骨折魔が眠っている抵抗できない女性を一方的に苦しめたものと変わらない、ただの力の行使。
痛みと苦しみだけが残る恐怖の発露。
そんな暴力を止めるために存在するものが「武」だとしたら、てんが使うものは間違ったものでしかないのだ。
しかし、てんは悩むことはしない。
敵を倒すためならば、どんな形でも力を使うことに 躊躇うことはない。
なぜなら、暴力とは牙と爪であり、人間が手にいれた野生の証明であるからだ。
精神性なんていらなかった。
このちっちゃい女子中学生は人を護るためなら鬼になれるのである。
「悪いけど、首をもらうですよー」
申し訳程度の謝罪をしてから、てんは〈獏〉の首を鼻ごと捻った。
ゴキと外れた。
妖怪に生物同様の骨があるはずはないが、てんはあるかのごとくに振る舞い、そして幻想そのものを破壊する。
『キュゥゥ――――――ピク』
長い痙攣のあと、数秒してから〈獏〉は動きを止めた。
自分の何倍もある敵を、てんは楽々と落として見せたのだ。
彩也子と神主もあまりのことに茫然としている。
いったい、何が起きたかわからないほどの呆気なさだった。
「さて、絵馬に封印しちゃいましょうかー。もう、こういうのは拝殿から逃がしちゃいけませんよ、神主さーん」
と、神主を青くさせる秘密の暴露をしながら、熊埜御堂てんは春風爛漫といった顔でのんびりと笑うのであった……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます