第225話「夢を折れたら」
私が境内に戻ったのは、例の夢問神社の絵馬に〈獏〉が封印される瞬間であった。
てんが押さえつけた〈獏〉の鼻づらに、神主が絵馬を押し付けて何やら祝詞を唱えると、〈護摩台〉における封印よりもどちらかというと掃除機に掛けられた砂ぼこりのような感覚で〈獏〉が墨になっていき、最後は「絵」となった。
これで絵のない絵馬に、〈獏〉自身が描かれたような形となって完成する。
これが夢を食う妖怪である〈獏〉の退治というわけだ。
なぜ、こんな面倒なことをするかというと、人間のとって夢を見ることというのは、三大欲求である睡眠と結びつくことで大切な機能であるらしい。
脳内のストレスが夢を見ることになって解消し、ストレスをなくす効果もあるが、人の見る夢はときに睡眠時に預けられた神の言葉そのものであることもある。
夢を見ることを阻害されることによって、魂までが被害を被ることになるのだ。
〈獏〉を野放しにすることは、つまりは民草の健康を害することになるが、同時に食べられた夢は場合によっては神の預言でもあるのだから、退治や封印によって安直に消してしまう訳にはいかない。
そのため、夢問神社のような専門の社を建立し、〈獏〉害に備えているというわけだ。
絵馬への封印の仕方が決まっているのはそういうことである。
私は隠しておいた衣服と包帯を身に着けると、〈護摩台〉まで辿り着いた。
マットの上にはてんと神主、そして撫原彩也子がいた。
てんはともかく残りの二人はやや緊張している。
「―――終わったのか?」
「ラクショーでしたよー」
私が見た〈獏〉はもうぐったりと横になっていて、とても巨大な気の荒い獣には見えなかったので、てんが楽勝というのならばそうだったのだろう。
神主は逆に汗まみれだ。
まあ、仕方のないところだ。
てんの封印した〈獏〉を逃がしたのは、実のところ、この夢問神社の失態なのだから。
私は拝殿の奥にある一室のことを思い出していた。
「……な、なにを逃がしたというのですか……?」
「さっき、てんちゃんが捕まえた〈獏〉のことですよー。神主さん、どうしてかは知らないけれど三週間前に絵馬から逃がしてしまいましたよね? それで、解放された〈獏〉が勝手に暴れ回ったんでしょー」
「そんなことは……」
てんの追及を逃れようとする神主に対して、私が追い打ちをかけた。
「神社の拝殿の奥にある、絵馬を奉納するための部屋を見てきたぞ。綺麗に並べられていたが、その中でも一際でかいのに〈獏〉の絵がなかった。ほれ、これだ。てんが今持っているのと同じぐらいのサイズだ」
「いつ、それを! 私の神社に入ったのですか!?」
あそこから待ちだしたものを掲げて見せた。
材質が古いことと、お品書きのように元号と日付が記されていないだけはほぼ一致している。
「あ、ロバート。調査ご苦労様ですー。という訳で、夢問神社の管理不行き届きによって〈獏〉が甦っちゃった証拠も揃いました。言い逃れはできませんよー」
すると、神主は降参したようだった。
神社の絵馬には、〈獏〉を封印した時の元号と日付を隅で記すのが習わしのようなので、過去の元号と日付があるのに〈獏〉がいない絵馬というのは存在しない。
私の持つもののように〈獏〉に逃げられたもの以外は。
決定的な証拠といえよう。
だから、降参するしかないのだ。
「……すみませんでした。ですが、〈獏〉が逃げたのは私の故意ではなく、当神社に盗みに入ろうとした泥棒のせいなのです」
「―――絵馬を盗まれたのか?」
「いえ、奥の安置所に忍び込まれたところで捕まえて、警察に引き渡しました。あとで気が付いたときには、奉納部屋にある百五枚の絵馬のうちの一枚から〈獏〉が消えていました。何故かはわかりません」
てんは少し考えて、
「むかーしむかしに、その〈獏〉が夢を食べちゃった人のことはわかりますかー?」
「それは……」
神主は言葉を濁した。
だから、私が言った。
「この絵馬を読むと、延享四年六月末日とある。おそらく、昼間に神主が言っていた特殊な〈獏〉害を引き起こした個体だったんだろうさ」
「やっぱりー」
てんにはあらかたお見通しだったようだ。
ああ見えても、てんは頭の回転も凄まじく速い。
「あーん、となるともしかしたら〈獏〉が食べた夢というのは、九代将軍・徳川家重くんのものだったのかもしれませんねー。家重くんは近習の前にも姿を見せないから人柄が伝わってこないと言われていたほどのコミュニケーション能力のない将軍だったらしいですけど、実際は夜な夜な江戸城を抜け出して、道端の夜鷹に斬りつけては殺していた辻斬りだったという話を聞いたことありますからー。……となると、今の〈獏〉が骨折魔みたいな変な奴の夢を食べていたのもわかります。ああいう、抵抗できない女の人を襲う欲望に塗れたものが好物だったんでしょうねー」
徳川家重というショーグンがどういう人物かは知らないが、事実だとしたら大変危険な人格の持ち主だったのだろう。
そして、それは現代の骨折魔にも言えたことだが。
「神主さんは、窃盗の現場を泥棒さん以外の人に見せましたかー」
「あ、はい。検分に来た警察官に……」
「なるほどー、その時に大好物の夢をよく見ている相手を見つけてしまい、延享の〈獏〉が逃げ出したんですね」
「どういうことですか、媛巫女さま……」
てんは指を立てていった。
「あの骨折魔は、警察官だったんですよ。確か、佐々木さんでしたっけー? まあ、寝ている女の人の骨を折りたいなんてサディストが警察官になっているということ自体が怖い話ですけどねー」
そうだ。
あの骨折魔は、私に職務質問をしてきた警察官の片割れだったのだ。
てんの推理が正しければ、奉納部屋に盗みに入った盗賊を引き渡した時、警察官として佐々木というあの男がやってきた。
佐々木には骨折魔の願望があったので、その夢に引かれて、延享の御代の〈獏〉が逃げ出して憑りついた。
しかし、まあ、あまりに悪食過ぎたということで夢の一部が残飯になり、撫原彩也子で口直しをした際に変なリンクをつけてしまった。
こんなところだろう。
あとで聞いたことによると、佐々木の入っていた杉並警察署の寮が撫原家のすぐ隣にあるらしい。
彼女が被害者になるということも、偶然にも物理的にも近かったからいう訳だ。
「いいですかー。〈獏〉はそんなに危険な妖魅ではないですけど、奉納している神社がもうちょっとしっかりしてもらわないといけませんよー。今回の件、神主さんには手伝ってもらったこともあり、彩也子さんのお姉さんも無事に助けられたから、不問に付して〈社務所〉には報告しませんけど、もう二度とこういう不始末はしでかさないでくださいねー」
と、女子中学生なのに見事な裁きを見せる。
夢問神社の特殊性を考えたうえでのことなのだろう。
このあたり、てんはさすがにただのサイコパスではない。
ある少年が言っていたみたいには、私にはどう見ても優しさから出た行為とは思えないけれど。
「それでは、これで一件落着という訳ですよー」
てんが朗らかに宣言する。
これで今回の〈獏〉害の事件は解決したということだ。
私の仕事は〈護摩台〉の片づけをするまで終わることはないが。
ただ、〈護摩台〉から降りてきたてんが、撫原彩也子の耳元にそっと囁いた言葉は聞き取れなかった。
聞こえていれば、少しぐらいはてんへの私の印象も変わったかもしれない。
だが、実際には聞こえなかったのだから仕方ない。
◇◆◇
その時、二人はこう言う会話を交わしていた。
「……彩也子さんには、骨折魔と同じような願望がありましたよねー。あの悪食の〈獏〉が夢を食べようとするぐらいに」
「な、なにを……」
「別に責めるつもりはないですけど、でないと、〈獏〉がそんなにあなたに執着する訳はないですからねー」
「そんなことは……」
「でも、いいんですよ、胸の中に抱えているうちは。骨折魔みたいに実行に移さなきゃいいんですから」
彩也子は俯いた。
てんの言うことが事実だったからだ。
彼女には誰かを酷くいたぶりたいという昏い願望があった。
時に、その手の夢を見て翌朝スッキリしてしまうぐらいに。
だから、最初は骨折魔の夢にも違和感を覚えなかったのだ。
「ううん、きっともう見ないと思う」
「―――どうしてですかー?」
「てんちゃんを見ちゃったから」
「はて?」
「力がより強い暴力に蹂躙されるところを見ちゃったから」
彩也子は呟くように言う。
「てんちゃんが戦ってくれたのはあたしのためだったのに、怖いなんて思っちゃった……。暴力が怖いって……。あたし、もう乱暴には憧れないと思う」
「それでいいんだと思いますよー」
あまりにあっけらかんとした言葉に、彩也子は目を丸くした。
今の台詞は単純にとればてんのことを否定したに等しいもののはずなのに、当の彼女が肯定してしまったのだから。
「愛の鞭も、SMプレイの鞭も、殺人鬼の斧も、みんなただの暴力―――力の行使です。区別するのもいけないし、憧れたりするのも不思議じゃない。だから、そういう夢を見たって変じゃないし、嫌がるのもまた同じですよー」
「そうなの?」
「だから、夢をみたことで人格が否定されるなんてことはないんですから、気にすることはないんです。彩也子さんが骨折魔みたいな悪人になるというわけじゃないんですからねー」
「でも、あたしがあいつみたいにならないとは限らないじゃない……」
てんはくるりと回って、彩也子の肩を叩いた。
「彩也子さんが悪いことに手を染めたら、その時はこのてんちゃんにお任せですよー。おんなじぐらい痛い目に合わせて、彩也子さんを更生させてあげますからね」
無邪気さを装ったような苛烈な解決策を聞いて彩也子はくすりと笑った。
「それじゃあ、悪いことはできないね。―――てんちゃんと戦おうなんて怖くてできないよ」
「ですよねー」
しかし、言葉とは裏腹に熊埜御堂てんの顔は慈愛に満ちていた。
あの〈獏〉と戦った破壊神のような少女と同一人物とは思えない。
だから、彩也子は言った。
「てんちゃんは優しいんだね」
「そうですよー」
二人は思わず互いの顔を眺め合い、そして笑った。
熊埜御堂てんの優しさは、ロバート・グリフィンにはどうしてもわからないというのに、一度会ったきりの撫原彩也子にはすぐに理解されてしまったようである……
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