―第61試合 いんすみ市の影―

第477話「ヒトに呼ばれてウミより来る」



「やめて! やめて! 放してよ!!」


 冴え冴えとした月光だけが地上を照らし、行き来する海水が波と呼ばれる砂浜で、若い女の悲鳴が響き渡った。

 耳にしている人間はただ一人。

 女のボーイフレンドだけである。

 だが、その人物は横合いから殴りかかられ、腰から引きずり倒され、助けを求める彼女と同じように黒いものに伸し掛かられていた。

 伸し掛かるものはサイズこそ人と同じではあったが、ずんぐりとした四肢、全身が鱗のような堅い皮膚に覆われ、首は無く、生臭い息を吹きかけてくる醜悪な生き物であった。

 それが何匹も奇妙な鳴き声を発しながら集ってきているのだ。

 ただし、何よりも恐ろしいのは、その目であった。

 目から放たれる光であった。

 悍ましい光だった。

 男には暴力を振るう恍惚さからくる嗜虐の悦びを。

 女には―――他人の女を奪う、背徳の欲情を。

 生き物は丸い滑稽な瞳に宿していた。


「やめてよお! やめてよお!! 変なところに触らないでえ!!」


 女は気が付いていた。

 こいつらがやろうとしていることが、ただよくある程度のことならばまだマシかもしれないと。

 

 しかし、それで止まることはないとも悟っていた。


「やだあああ、やだあああ、あんたたちの子供なんて産みたくない!!」


 女を欲情に任せて襲うだけではなく、孕ませるつもりなのだ。

 化け物の仔を産ませるつもりなのだ。

 なんのためにかはわからない。

 普通に夜の海岸を散歩して、いい雰囲気になってホテルに戻って愛し合うだけの時間がこんな世にもおぞましい地獄に変わるなんてほんの数分前までには考えもしなかった。

 堅いものが柔らかいものを殴打する音がした。

 同時に苦しそうな呼吸音がする。

 ボーイフレンドが殴られたのだ。

 この化け物の一匹が振るう暴力だった。

 それによってボーイフレンド抵抗力は失われた。

 そして、無数の化け物たちは彼の腹部の筋肉を鋭い鉤爪で裂いた。

 真っ赤な鮮血が飛び出る。


「ぎゃあああああ!!」


 悲痛な叫びがこだまする。

 裂かれて内臓が圧迫力でとびだした腹に無数の化け物たちが集っていく。

 腸に噛みつき、顎の力任せに引っ張りだし、血の雨を滴らせる。

 さらに肉を裂き、手を、口を突っ込む。

 痛みのあまりにショック死すらもできずにボーイフレンドは泣き叫び続けた。

 暴れる手足にもしっかりかぶりつかれた。

 唯一無事なのは首より上だけだったのというのは、きっと偶然ではあるまい。

 化け物どもは人の苦悶の声を天上の音楽のように楽しみたかっただけなのだろう。

 だから、あえてとどめを刺さずに愉悦に浸っているのだ。

 ボーイフレンドの惨状に顔を背けようとした女の顔をがっしりと掴む化け物がいた。

 

「見ろ」


 ということだろう。


「おまえの男が泣き叫んで死んでいくのを見ろ」


 そう言いたいのだ。

 この化け物どもはまさに悪鬼であった。

 人を苦しめて遊ぶ羅刹であった。


「いやだあああああ、まさくんんんん!!」


 女はそれでもボーイフレンドの名を呼んだ。

 軽い気持ちの恋愛だった。

 もっといい相手を探すまでの腰掛け程度としか思っていなかった気がする。

 でも、この窮地において女は自分のことよりも死にゆく彼氏のことを想った。

 ボーイフレンドの手が伸びた。

 自分の彼女へと伸ばしたのか、単なる死にゆくものの肉体の条件反射なのか、それはわからない。

 ただ言えることは、まさに引き裂かれんとする恋人たちは、それでもお互いの相手のために身体を投げ出したということだった。

 だが、それを許さぬとばかりに化け物どもは二人を殴りつけた。

 その衝撃で痙攣して動かなくなったボーイフレンドを見ることも叶わず、女は化け物たちに蹂躙されることになった。

 たった数十秒で女の意識は壊れ、人間の尊厳は破壊された。

 残ったたった少しの思考の中で、女は化け物どもがこう囁くのを聞いた。


『―――ときノとのノあだうチぢゃ』

『あだうチぢゃ』

『にっくキやつばらメ、われラノうらミヲおもイしレ』

『びとメびとめ』

『モウアノときノごとクつちノあめハふラヌゾ!!』


 化け物どもはたった今その手で奪っている二つの命のことなど歯牙にもかけていなかったのだ。

 それどころか、ただの慰め、憂さ晴らしのために初々しいカップルを襲っただけなのだ。

 この男女の不運はたった一つ。

 化け物どもが進むときにたまたま近寄ってしまっただけなのだ。

 彼女たちにもう少し用心する心があったとしたら、この悲劇からは逃れられたかもしれない。

 この襲撃場所のあたりでは、数週間前から行方不明者が幾人かでているというニュースをもし耳にしていたら。

 さらにその少し前に陸をわずかにいった場所で、地震の影響で数百年ぶりのがけ崩れがあったということを。

 しかし、そこまでが限界であろう。

 実際には一般人には辿り着くこともできない妖異怪異がこの土地を侵していたのである。

 そのがけ崩れによってそこに封じられていた化け物どもが接している川に解き放たれていたということは当然知れるはずがない。

 その化け物たちは、肉と血と憎悪に飢えた、凶暴無残な魚人であったということもである。


 そして、彼女たちの行方不明という事件が起きなければ、すべてを解決できる一人の巫女が派遣されなかったということは不運以外のなにものでもなかったであろう……



            ◇◆◇


「おかしい」


 太平洋を臨む九十九里浜で〈護摩台〉を設置し、腕組みをして大海原を睨みつけていた明王殿レイは首をひねった。

 腰まで伸びた艶のある黒髪とその下にある美貌は、麗しい猛禽類のようだとも評されている。

 清潔な白衣と真っ赤な緋袴、腰に巻かれた帯の巫女らしい装束以外は、彼女曰く「両腕をしならせやすくするためだ」というために肩で切断されて袖がなく、胴体に巻かれたタスキはやや胸を強調しすぎている。

 色はともかく緋袴も膝の部分が二股になっており、まるで工事現場の職人のような紫色の地下足袋は動きやすさ以外のすべてを排除していた。


〈神腕〉のレイ。


 妖魅の世界での暗闘を知るものならば誰でも耳にするようになった、〈社務所〉において最大の膂力を誇るパワーファイターが彼女である。

 ただ、その膂力も振るう相手がいなければなんの意味もない。

 そのことを虚しく実感しているところであった。


「……あのさあ、明王殿。もう二時間も経つけどなんの反応もないぜ。間違ったんじゃねえのか、場所の選定。あと、もしくはその餌が腐っているとか。いや、臭いからしてもう腐ってんだけどよ」


 レイに命令されて四時間かけて〈護摩台〉を設置した少年―――荘原そうばら武徳たけのりがおそるおそる声をかけた。

 言葉のチョイスは間違いかけていたが、内容自体はそれほど的外れではない。

 実際、自信満々にレイが用意した妖怪を誘き出すための餌に妖魅は食いついてこない。


「おかしいな。腐りに腐った魚のはらわたをニコチン含有量30パーセントのタバコでいぶして作った海の妖怪ならどんなものでも食いついてくる海の底の味だぞ。里心がついてホームシックになりかねないから、餌にしか使えないのが欠点だけどよ」

「でも、そんな大層なものなのに全然やってこないぞ」

「それが変なんだぜ。確かに半魚人というか、海から来たカエルみたいな化け物だっていうから、わざわざ魚市場を漁って用意したってのに」


 思わず、「俺が魚市場を駆けずり回って集めたんじゃねえか」と苦情を言いかけて武徳は口をふさいだ。

 このヤンキーみたいな改造巫女装束の退魔巫女はとてもおっかないので逆らいたくないのだ。

 義侠心にあふれているので普通ならば手を出したりはしてこないが、あの鋭い眼光で睨まれると、もともとイジメられっ子だった彼の精神はたちまち死にたくなってしまう。

 それはいやだ。


「根本的に間違ってんじゃねーの」

「―――その可能性はあるか。まったく、オレと武徳くんじゃあ、やっぱり知恵が足りないか。運もなさそうだ」

「ほっとけっての」

「仕方ない。出直そう。おい、武徳くん。どうせおまえは明日も暇なんだろ。オレにつきあえや。バイト代ははずむからさ」

「―――いや、まあ、俺は普段は半ヒキコモリだから別にいいけどさ。うちの親なんか俺がたまに学校以外に出掛けるだけでなんか感動するし」

「ヒキコモリって変な生態してんだな」


 そこで、「ほっとけよ!」と怒鳴り返せないのが、やはり武徳の限界であった。


「……あーあ、京一くんがいればいいんだけどよお」


 武徳がその名前を聞くたびにイラついてしまうのにも気づかず、レイは不満を口にした。

 彼女にとって親友の助手である升麻京一ほど頼りになる相手はいないのだ。

 そのことを知らず知らずに口にしてしまうことと、彼女を憎からず思っている相手がすぐ近くにいることにもまったく気が付かないのは、ある意味では豪快な彼女らしいともいえた。


(まったく、都合のいいときに俺をこき使う癖に。明王殿のクソが)


 武徳は自分が感じているのが嫉妬というものであることに遅まきながら気づき始めていた……



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