第17話「翔べない巫女はただの巫女だ」
楕円形の眼窩と白目がぎょろりと睨んでいた。
ボロキレのようなコートを着込み、裂け目から覗く皮膚はカブトムシの外郭のように黒く艶々として頬骨が前に出ているせいで鼻が突き出て見える。
散り散りになった水気のない髪も眉もない頭部は無残な印象を与えた。
唇のない口腔には一本の歯も見当たらなかった。何よりもリングを下りてまでも鼻につくすえた汗の臭いが不愉快極まりなかった。
「あれが〈天狗〉なのか」
コートの下には、空を飛ぶための巨大で捩子くれた羽根がついていた。
しかも、その端々に気持ちの悪いことにところどころ抜け落ちて、古い櫛のように歯がかけているというのに、飛ぶことに影響がなさそうなのが不思議だった。
今までに何度も見てきた妖怪たちの物理法則を無視したような見た目。
さすがはこの世の
〈天狗〉は羽搏いて飛び立とうとしたが、三メートルほど浮かび上がったところで急に減速し、真綿が地面に落ちるようにゆっくりとリングに戻ってしまう。
三回ほど同じことを挑戦したが、それでも〈天狗〉は自分の属する場所に帰還することは叶わず、リングから出ることはできなかった。
〈結界台〉の妖怪を閉じ込める効力は今回も健在だ。
「……でも、確かに強敵かもしれない」
リングから逃げ出そうとした〈天狗〉の跳躍力は異常だった。
ほんのわずかに膝をたわめただけで、三メートル以上跳びあがるのだから。
参考までにいうと、棒高跳びの世界記録は六メートル越え、走高跳が二メートル四十五センチ。
ただの人間ではたどり着けない領域に、妖怪は存在しているのだ。
あれと正面からやりあうのは、いかに万夫不当の御子内さんでも荷が重いかもしれない。
「御子内さん!」
「とにかくやってみるさ。ちょっとした異種格闘だね」
……あなたのやっていることは、毎回異種族格闘ですけどね。
「もうゴングはなっている。勝負だ、〈天狗〉」
まず仕掛けたのは御子内さん。
サイコロを振ってイニシアチブをとったのだろう。
滑るように前進して、右のローキックを放った。
鎌のような一撃が唸りをあげて、〈天狗〉の太ももを捉える。
古武術にはローキックというものはなく、近代になって取り入れられたものだという。
それは何故かというと、ローキックという相手の下半身を攻撃し、または上下のコンビネーションを使い、ガードを下げさせるという技術は、実戦においては迂遠だということであるからだ。
命のかかった場所においては、悠長に脚なんぞ攻めている場合があるのなら、一撃で仕留められる急所の顔か胴体を狙うべきなのである。
競技または武道としての格技ならばともかく、戦場往来の古武術においては何かしらの強い理由がない限り採用されるはずがない。
だから、実戦においてローキックは使われない。
実戦では。
しかし、この戦いは殺し合いではない。
御子内さんがどう考えているかは知らないが、これはプロレスなのだ。
つまり、鍛え抜かれた下段攻撃は無限の力を発揮する。
『ぐええ!!』
〈天狗〉が叫んだ。
巫女レスラーのローは鎌のように鋭く、斧のごとく敵の脚を痛めつける。
ただの一撃で〈天狗〉の腰が下がった。
そして、お約束のコンビネーション。
左フックからの右の連打、そのまま掌の堅い部分を左胸に踏み込みと共に打ち込む。
敵の皮膚の硬度が分からない段階での本気は拳を痛めるということもあり、御子内さんが序盤によく使う手だ。
手の甲の部分は白魚の繊手のようだというのに、彼女の掌がごつくて硬いのはそのためだ。
一応、女の子であるけれど、その堅い掌底を彼女はいつも誇りに思っているらしい。
「戦う者のきれいな手だ」
と、言ってみたらなんか喜んでくれた。
変な男に騙されないか心配になる。
『ぎゃあああああ!』
ロープ際に追い詰められた〈天狗〉は一羽搏きすると、ふわりとトップロープ、それからコーナーポストに立った。
距離をとる必要性を感じたのだろう。
黒目のない双眸が御子内さんを睨みつける。
逃げられないことを悟り、御子内さんという相手が一筋縄ではいかない相手であることを理解したのだろう。
妖怪たちはほとんどの場合は本能で動く。
敵と見定めたものには簡単に牙を剥く。
人間のような躊躇はしない。
ここにいたってようやく対峙する一人と一体の意識のベクトルは一致した。
「御子内さん、来るよ!」
「わかっている!」
青いコーナーポストから、〈天狗〉が跳んだ。
いや、舞った、という方が精確か。
人のように無様なジャンプではなく、緩やかな孤を描き、まさに鳥のようだった。
迎撃しようとフライングニールキックを放った御子内さんだったが、完全に目測を誤っていた。
見事なぐらいにスカッた。
あんなに大振りになってしまっては当たるものも当たらない。
そのまま、マットに着地した御子内さんの背後から〈天狗〉が襲い掛かる。
「ちぃ!」
無理な体勢で、力も籠ってはいなかったが、振り向きざまに跳びあがり、得意のローリングソバットを撃つ。
だが、蹴りの大技二つはまったく敵を捉えることもできない。
気がついた時には、〈天狗〉はさっきまでとは反対側のコーナーポストに立ち尽くしていた。
速い上に、身軽だ。
しかも、御子内さんの動きが見切られている感もある。
確かにこいつは強敵かもしれない。
御子内さんの得意とする土俵には絶対に上がってこないだろうということもわかる。
ということは、彼女の方から踏み込まなければならない。
空を飛ぶ妖怪の世界―――空中戦の舞台へと。
「レッグトマホークの方が良かったかな。でも、ボクはブリッツボールが使えないから仕方ないか……」
「御子内さん! 飢狼伝説じゃないから!」
「わかっているよ! ちょっとした諧謔だよ!」
意外と余裕があるのは結構なんだけど、相性が悪いというのは僕にさえわかる。
こうなると、下手をしたらジリ貧だ。
ピピピピピピ……
電子音に驚くと、さっきまで御子内さんが食べていたお弁当の脇の携帯電話が鳴っていた。
今どき珍しいガラケーだ。
いや、ただのガラケーじゃない。
お年寄り向けのラクラクフォンだ。
あと、ついている格闘ゲームキャラのストラップからすると、間違いなくこれは御子内さんの私物だろう。
悪いとは思ったが、発信相手を見てしまった。
『
と、ある。
スマホと違ってプロフィール画像がないから、どういう関係なのかわからない。
だが、僕の勘が電話に出るべきだと告げていた。
しかし、真剣勝負の最中の御子内さんを煩わす訳にはいかないし……。
どうすればいい?
「ええい、ままよ。―――もしもし!」
『……』
「どなたかはわかりませんが、御子内は今のところ手が離せません。あと、僕は御子内の助手です!」
『……』
「すいません! 聞こえていますか!?」
相手は通話を切ることはしないが、何かを話すということもしない。
いったい何のために電話してきたのか。
この状況下でイタズラ電話なんてあってたまるか?
「―――京一、その電話は音子からかい!?」
リングの上で飛び回る〈天狗〉相手に死闘を繰り広げている御子内さんが叫んできた。
「うん、神宮女音子さんって人だよ!」
「よし」
「……でも、通話ができないんだ、電波が悪いのかもしれない!」
だが、返ってきたのは別の理由だった。
「違う。音子は無口なんだよ。携帯電話を持っても話さないだけなんだ。君の言葉はきちんと通じているはずだ」
「なんだって?」
電話して来たのに会話しないってどういうことさ。
「メールで連絡してくれ! そっちの方が早い!」
「わかった。それでどうすればいい?」
「おそらくこの近くまで来ているはずなんだ! だから、音子をここに連れてきてくれ! 彼女ならば、こいつに勝てる!」
リング上ではほとんどコーナーポストとトップロープを撥ね回る相手に対して、御子内さんが翻弄され続けていた。
神宮女という人はたぶん巫女なんだろうけど、あと、あの〈天狗〉にどうやって勝つのかはわからないけど、これはいつもの通りでいこう。
僕は御子内さんを信じるだけだ。
他人のガラケーを弄ることには抵抗あるけど、緊急事態だ。
言われた通りにメールを開くと、なんと受信が未読で埋まっていた。
しかもすべて同じ人―――神宮女さんからの神宮女だった。
あと、こういっては何だけど、もう少し頻繁にメール機能を使おうよ、御子内さん。
絶対、この人、ほとんどメールに目を通してないよね。
「えっと……直近のメールだと。うっ『ねえ、どうしたのアルっち。さっきから電話してもメールだしても返事してくんないし。もしかして、あたしのこと嫌いになった? えーん、えーん、イジワルぅ。嘘ぴょーん。だって、あたしたち毎日がクライマックスで戦わなきゃ生き残れないんだもんね。同志同志、赤の広場wwww。あ、言い忘れてたけど、表題見ればわかるかあ、駅に着いたよ。アルっちたちが〈護摩台〉用意しているところの傍。でも、場所がわかんなーい。お願いだから迎えに来てえ。ひゃっほーコンビニがあるよ! 肉まん肉まん食べたいな。朝から晩までピザまんだあ~♪―――』……」
目が丸くなる。
一回のメールの量にしてはとんでもない文字数ばかりだったからだ。
無口なのはいいけど、あれか、ネットワークの中では饒舌になる感じか、神宮女という巫女さんは。
内容は意味わかんないし。
とにかく最寄りの駅にいるらしいことはわかった。
きっと彼女たちをサポートする社務所から連絡があったのだろう。
なんだかんだいっても助けに来てくれていたのだ。
よし、これで助かるかもしれない。
「御子内さん、すぐに連れてくるから待ってて! それまで粘って!」
「頼んだよ、相棒!」
僕は彼女の言葉に力づけられて、駅に向かって走り出した。
相棒と呼んでくれた彼女のためにも、絶対に救援を連れてこないと。
かつてないほどの全速力で僕は走った。
駅までの道は覚えている。
だが、駅に向かうよりも僕はコンビニを目指した。
きっとそっちに、神宮女音子はいる。
今日の僕の勘は絶好調なのだ。
何百メートルかを疾走し、僕が記憶にあるコンビニに辿り着いた時、お目当ての人間の存在にすぐ気がついた。
そりゃあ、御子内さん以外に巫女装束をまとった女の子なんて滅多にいないけれど、百パーセントの確率で絶対に間違えるはずのない相手と断言できたね。
さっきの〈天狗〉を彷彿とさせる、何故か白いガードレールの上に直立不動で陣取った雄々しい姿は、巫女装束とあいまって目立つなんてものじゃないし。
でも、それよりもなによりも、もっとはっきりとした特徴にあふれていたのだ。
彼女は―――なんと―――
ラメ入りの生地で造られ、目と口の部分にメッシュ素材を使用した「覆面」をつけていたのである……。
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