第16話「飛ぶ妖怪〈天狗〉」
天狗という妖怪は古代中国から伝わってきたものである。
大陸では、「テング」ではなく「テンクウ」と読み、司馬遷の『史記』においては、「天狗はその姿は大流星のようで、音がする。落ちて地に止まると
要するに、天狗というのは大陸においては、「隕石」のことなのであった。
隕石は不吉の予兆とされ、天から降ってくる災い、天災の一緒であり、それゆえに天狗も恐怖の空からの災いそのものを暗示する妖怪についての総称といえた。
日本においては、仏教の日本への広がりとともに輸入され、特に比叡山の僧侶とこみで語られた結果、仏教を邪魔するものというイメージがつけられたが、その本質自体は変わらない。
つまり、天からやってきて、大きな音を立て、災厄をもたらすものこそが、〈天狗〉なのである。
「―――でもね、この国にも古来から、そういう妖怪が棲みついていたんだよ。その条件にピタリと当てはまる連中がね」
「それが〈天狗〉なの?」
「うん。猛禽類の黒い羽根を持ち、空から餌として子供なんかを狙う、性質の悪い妖怪だ。元々は年端もいかない男の子を性的な欲求を満たすために神隠しに見せかけて誘拐していた倒錯者の怨霊が形になったものと言われているんだ」
「え、元は人間なの?」
「ああ。江戸時代の随所『
僕はちょっとショッキングな話に震えた。
神隠しのことを「天狗隠し」ということは聞いたことがあるが、そんな事件の裏にはこんな真相があったのか。
「とはいえ、妖怪としての〈天狗〉は幸運なことにそれほど強い力を持つ連中じゃない。人間が、ある程度育った子供ぐらいになったらもう抱え上げることさえもできない程度に非力なんだ」
「それだったら、別にどうということはないんじゃない。人間に危害を加える訳でもなさそうだし」
「ところが違うんだ」
「えっ」
御子内さんは懐から写真を一葉取り出して、見せてくれた。
小さな揺り籠だけが写っていた。
「あいつらは五キログラムぐらいの重さのものならば掴んで飛び去ることができるんだよ。そして、人間の赤ちゃんは産まれたばかりなら四キロから五キログラム。ウサギなどと変わらない場合があり、そのサイズならば大きめの猛禽類にさえかっさらっていくことができる。〈天狗〉も同じことができる」
「つまり、それって……」
「うん。わかったね。〈天狗〉というのは赤ちゃんを攫って行く妖怪なんだ。今回の奴はその揺り籠に眠っていた赤ちゃんを攫って行ったんだ。そこでボクらの出番となった」
……御子内さんの説明によると、春から初夏にかけては猛禽類の鳥たちの子育ての時期であり、ヒナたちの食欲を満たすために人間の赤ん坊を攫うことは昔はよくあったことらしい。
今と違い、幼児を連れて畑仕事をしていた農家の人たちが、被害にあっていたそうだ。
人間の赤ん坊はウサギと違って動かないから攫って行くのは容易だったのだろう。
実際に幼児が大鷲に攫われたという事件では、奈良東大寺の「良弁杉の故事」が有名である。
子供の頃に大鷲に攫われて遠く奈良の春日神社の近くの巨木の上で食べられようとしていたところを後に師匠になる義淵に助けられたという、僧侶良弁の話だ。
良弁は東大寺を開基するほどの名僧になるが、三十年経って彼を探していた母親と再会するというもので、おそらく実話なのだと言われている。
このように、猛禽類による赤ん坊の被害と同じぐらいの頻度で、〈天狗〉は子供たちを誘拐していたのだろう。
かつての農村部では珍しくもない光景だったのかもしれない。
空から襲い掛かり、大きな羽ばたきをの音を立て、赤ん坊を攫う災害。
〈天狗〉という妖怪に対して、御子内さんが激怒しているのもわかる。
ただ、彼女が弱音にも似た愚痴をはいているのは非常に珍しい。
「―――でも、確かに悪そうな奴だけど、御子内さんが勝てない相手じゃないと思う」
「そうさ。普通ならね」
「じゃあ、どうして?」
「〈護摩台〉に引きずり込むまではできる。これまで培ってきたうちの社務所でのノウハウがあるからね。ただ、実際に倒すのが容易ではないんだ」
「……?」
「あいつらは翼があるからね。〈護摩台〉の中を飛び回るんだよ。それに合わせるのがとても難しい。ボクのスタイルは立ち技中心だから、飛んだり跳ねたりだとどうしても相性が悪い」
「あっ」
そういうことか。
確かに、コンビネーションを織り交ぜた打撃技や各種跳び蹴り、そして投げ技を主体とする御子内さんだと、飛び回る敵相手には不利なのかもしれない。
狭いリングの上とはいえ、自在に宙を舞う相手に対して、これまでのような肉弾戦は難しいだろう。
古来、人間は空からの攻撃に対応できるようにはできていない。
ほら、有名な正義の裏切り者が言っていたじゃないか。
『俺ならマ○○ガーZを空から攻めるね』
空を飛べない御子内さんだったら、それはきっと有効な戦法になるに違いない。
だからこその彼女のやや自信なさげな発言だったのだろう。
いかに最強を自負する御子内さんでも相性の問題は避けて通れないのだ。
「―――今回の〈天狗〉はこの近くに住む夫婦から産まれたての赤ちゃんを奪って悲しませた。絶対に許してはいけないんだ。だから、相性が悪いなんてことは言っていられないのさ」
責任感の強い彼女らしい毅然とした言葉だった。
「〈天狗〉と相性のいい巫女さんがいてくれたらよかったのにね。こういうことをいうと、虫が良すぎる感じだけど」
慰めるつもりはなかったが、話題を逸らすつもりで僕はそんなことをいってみた。
だが、返ってきたのは意外な内容だった。
「いや、京一の言う通りでね。本来はボクなんかよりもずっと飛ぶ妖怪に対しては適役が来る予定だったんだ」
「え、本当なの?」
「ああ。彼女が来てくれるというのなら、ボクはこんな風にはでしゃばらなかったよ。ただ、社務所と八咫烏、どちらからの連絡も付かなかったらしくてね。でも、彼女を待ってられない緊急性のある案件だということで、急遽ボクが派遣されたという訳さ」
そう言えば、僕のところへの連絡も昨日の晩に突然だった。
週末とはいえ、何か用事が入っていたら困っていたところだ。
まあ、用事なんか何もないけどね。
「へえ、御子内さん以外の退魔巫女には会ったことがないけど、どういう人なの? 君みたいに可愛いのかな?」
「ボクが可愛いというのは当然だけど、あいつはどうかな……? 女が女の容姿を褒めるとたいてい嘘っぽくなるしね」
「それはそうだ」
うちの妹も、わりと可愛さで張り合うタイプらしく、素直に同性の容姿を褒めたりはしない。
自分にとっての脅威とならない場合は手放しでほめたりもするが、大体はやや低めに査定するようにしているらしかった。
もう完璧に妹が絶賛するのは、目の前の美少女巫女ただ一人しかいなかった。
女の子ってかなり面倒くさい生き物だよね。
「あいつは無口だし、電話してもあまりコミュニケーションをとらない性格だから、その辺は厄介だけど、巫女としての実力は折り紙付きだね。ボクが同世代で認めている人材のうちの一人だよ」
「御子内さんが手放しで褒めるなんて、凄い実力者なんだろうね」
「ああ、悔しいが飛ぶ妖怪に対してはあいつの方がボクよりも適任だろう」
そもそも御子内さん以外に、こんな戦いをしている巫女さんがいるということ自体、実は相当な驚きなのだけれど、そんなことはおくびにもださない。
御子内さんにツッコミを入れたとしても、さらに強めのボケが戻ってくるだけなので。
でも、会ってみたいな、その無口な巫女さんに。
「―――京一」
突然、彼女の口調が変わった。
さっきまでののんびりとしたものではなく、鋭い闘士のものに切り替わったのだ。
短い期間だけど濃厚な付き合いをしてきた僕はすぐに事情を察する。
上を見ると、はるか上空だが、何かが旋回しているのがわかった。
おそらく、あれは―――
「〈護摩台〉の方はもう大丈夫かい?」
「うん。できたら、君にきちんと出来栄えを確認しておいてもらいたかったけれど、いつも通りのテンションで用意しておいたから。……でも、あいつをここまで下ろさせることはできるの?」
「できるよ。京一、ちょっとそのままでいてくれないか」
上空を警戒しつつ、御子内さんはリングに上ってきた。
両手を回したり、引っ張ったりしながらのストレッチを忘れずに。
それから、白いマットのジャングルの上で僕の隣に立つ。
「降りてこないね……」
「まあ、さすがに警戒されているさ。でもね、あいつらを確実に下ろす方法があるんだ」
「そんなものがあるんだ」
「ああ。今からその方法を実践するから、ボクがいいと言うまで動かないでくれよ」
「ん?」
すると、何を考えているのか、御子内さんは僕の前に回って、青いツナギのファスナーをジーと下ろした。
「ちょっと待って! 何をするんだ!?」
「いいから黙って動かない!」
「動くに決まっているだろ!」
「京一、ボクを信じろ!」
「信じろって……いつでも君を信じてはいるけどさ……いくらなんでも……」
「うるさいな。悪いようにはしないから黙って言いなりになってくれ」
弱みに付け込まれているかのように、仕方なくされるがままになった僕に対して、御子内さんはもっとハレンチなことをし始めた。
なんとファスナーを下ろしただけでは飽き足らず、肩を剥き出しにして、ツナギを脱がし始めたのだ。
しかも、腕が邪魔だと見るや否や、
「ほら、手を伸ばして。でないと、袖が抜けないだろ」
「ちょっと待ってよ。どうして、いきなり僕を脱がそうとするのさ!」
「別にとって喰いやしないから安心しなよ。ツナギはね、邪魔だから脱がせているだけなんだから」
「そんなこと言っても……」
「さ、ツナギは終わった。次はシャツだ」
御子内さんが今度は僕のシャツのボタンを一つ一つ外し始める。
物心ついて以来、誰かに服のボタンを外されるなんて経験したことがない。
さらに言えば、相手が絶世の美少女で、手を伸ばしたら抱きしめられるほど至近距離なんてことも。
思わず御子内さんを抱きしめたくなる衝動に駆られる。
だが、視線は彼女にではなく、頭上で旋回する羽根の付いた人型に釘付けのままだ。
太陽からの逆光で黒く影となって、細かいところまでは見えないが、間違いなくあれは〈天狗〉だろう。
つい最近赤ん坊を攫ったという、邪悪な妖怪だ。
視線を外せるはずがない。
「よし、これでいいか」
「へっ?」
気がついたら、僕は上半身を裸にされていた。
リングの設置という重労働をするようになってうっすらと筋肉がついてきたとはいえ、あまり日に焼けてもいない自慢できない裸に。
「な、なにをするのさ!!」
「さあ、これを見ろ! 〈天狗〉め!! おまえたちが好きな若い男の肌だぞ!! とんと味わえ!!」
「ちょっっっっっとぉぉぉぉ!!」
必死の抗議をまるっきり歯牙にもかけず、僕を羽交い絞めして空に見せつけるように、御子内さんが叫ぶ。
何をするつもりなんだ!
と思った瞬間、上空から恐ろしい勢いで〈天狗〉が降ってきた。
血走った眼に獰猛な何かが光っていた。
欲情したものの淫蕩な輝きだった。
それだけで僕は理解する。
(こいつ、僕に性的に興奮していやがる)
さっき、御子内さんが言っていたじゃないか。
「〈天狗〉には衆道との結びつきが認められている」
と。
つまり、御子内さんは若い少年である僕の裸を餌にして、このリングに妖怪を引っ張り込もうとしているのだ!
「マジかあああああああ!!」
あまりの急降下のせいか、一瞬でまさに鼻づらまで接近してきた〈天狗〉が、そのまま僕に抱き付こうとした時、
「でやあああああ!」
僕を抱えたまま、反転した御子内さんの回し蹴りが妖怪の横っ面に命中した。
回転してリングのマットに転げ落ちていく〈天狗〉。
さすがの威力である。
そして、〈天狗〉が完全に態勢を整える前に、御子内さんはリングの脇に置いてあった銅のゴングを大きく鳴らした。
カーーーーーン!
リングに結界を張る術式の効力発生のための鐘の音が鳴り響いた。
もうこの〈結界台〉から、あの好色で男色な〈天狗〉は逃げられない。
立ち塞がる最強の巫女を倒すまでは。
「さあ、無制限一本勝負の始まりだ!」
慌てて上半身裸のまま、僕はリングから飛び降りて逃げ出した。
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