ー第3試合 空を翔ける巫女ー

第15話「風に乗り人を攫うもの」



 今日は、〈御山〉が良く見える。

 若い夫婦が住むにしては広すぎる庭の隅で、洗濯物を干しながら、伊嶋由香いじまゆかは山を見上げた。

〈御山〉というのは、異名だ。

 正式な名前は別にあるのだが、地元の住民はほとんど例外なく〈御山〉と呼んでいる。

 鋭く尖った山容をしていて、似たような形をした槍ヶ岳などに比べれば低いが、形としての美しさは勝るとも劣らないと言われていた。

 彼女が住んでいる東京都下の○×市一帯において、ほとんどすぐそこに山麓と登山口があり、成人ならば一時間も歩けば山頂に達する〈御山〉は行き慣れたハイキングコースでもあり、同時に信仰と親しみの対象であった。

 由香も小学校に上がるまえから、山腹までだが何度も家族や友人たちと登ったことがある。

 山頂にはちっぽけな神社があり、初詣に訪れる地元民も少しはいた。


「そういえば、神社が焼けちゃったのよね」


 由香が夫と暮らすこの家からでは無理だが、山頂にあった神社はちょっとした双眼鏡があれば平地からでも見つけることができた。

 しかし、少し前に原因不明の火災が発生し、社務所はほとんど焼失してしまったらしい。

 神主もいない寂れた神社ということもあり、今のところ再建するという話も出ていなかった。

 地元でも、古い歴史はあったがさほど重視されていなかったということもあり、そのまま放置で終わるだろうというのが住民たちの認識である。

 由香自身、何度か訪れてお参りしたこともある神社なので勿体ないとは思うものの、無駄なお金をかけるのも嫌よねと、諦め、無関心になっていた。


(……まあ、うちの子が待機児童とかになると困るし、町にはそっちを優先してほしいから、仕方ないか)


 歴史ある建造物よりは身近な福祉。

 由香にとってはその程度の重要性しかない話題である。

〈御山〉に親しみはあったとしても、その程度の感情しか持ちあわせてはいなかった。


「さて、早く洗濯物を干しちゃわないと。……佑真ゆうまが大人しく寝てくれるうちにね」


 ピンと張った数枚の白いシーツの反対側には、彼女の一歳にもならない息子が揺り籠の中で眠りについている。

 産まれたばかりといってよく、まだ首もすわっていない彼女の一人息子は、あまり泣いたりもしない大人しい赤ん坊であった。

 彼女がこうやって家事をのんびりとできるのも、そのおかげだ。

 フンフ~ン

 雲一つない快晴の下、鼻歌交じりに気分よく洗濯物を干し終え、ようやく一息つけるかと思った時、


「オギャーーーーーー!!」


 突然、赤ん坊のけたたましい鳴き声が響き渡った。

 それは絶対に佑真のものでしかない。

 弾かれたように由香は息子のところへ向かった。

 彼女と佑真を遮るものは白いシーツだけだ。

 それを慌ててめくり上げて揺り籠の中を覗き込んでも、いるはずの赤ん坊の姿はなかった。

 周囲を見渡しても、佑真はいない。

 どこにもいない。

 誰かが連れ去ったということも考えられるが、佑真の鳴き声が響いてから、由香がやってくるまでのほんの数秒の間に、大人どころか子供でさえ隠れられるような場所はなかった。

 立ち去る影さえも見当たらない。

 では、赤ん坊は―――佑真はどこに消えたのか。

 事態を理解できずに、由香が茫然としていると、彼女の頭上からバサっという重厚な音が聞こえてきた。

 由香はその音を聞いて鳥の羽搏きを連想した。

 嫌な予感がして、天を見上げる。

 首が痛くなるほど垂直に顔を上げた視線の先に、何かがいた。

 いや、何かなどという曖昧なものではない。

 鳥であった。

 より正確さを期するのならば、大きな羽根をつけた人型の鳥であった。

 緩やかに羽根を上下させて、まるで空中から撮影をするドローンのように何もない彼女の頭上を旋回していた。

 自分の見ているものが信じられずに眼を手で擦る。

 だが、そんな真似をしても、は消え去ることはなかった。


「ビェェェェェェ!」


 絶対に忘れない愛息子の声が再び響き渡った。

 由香の頭上から。

 天空から。

 の腕の中から。


「佑真あ!」


 間違いなかった。

 彼女の子供はあの羽搏くものの腕の中に抱かれている。

 佑真を攫ったのは、あいつだ。


「返して! あたしの息子を返して!」


 だが、彼女の悲痛な叫びを無視して、頭上の何かはもう一回転くるりと空を巡ると、悠々と羽搏いて飛んで行ってしまった。

 哀れな一人の母親を残して。

 北にある剣のように尖った山へ目掛け。


「佑真……あたしの赤ちゃん……」


 息子を攫って飛び去ったものが豆粒とかして見えなくなって、初めて由香は膝をついて崩れ落ちた。

 目の前で子供を攫われたというのに何もできなかった。

 走って追うことすらできなかった。

 言葉にならない慟哭が彼女の咽喉から飛び出てくる。

 ついさっきまでの幸せは奪われた。


「助けて……」


 由香は呻く。


「誰か助けて……」


 妻は啼く。


「あの子を取り返して……」


 母は懇願する。


「あたしの赤ちゃんを……助けて……」


 しかし、その願いは誰の耳にも聞き入れられることはなかった。



       ◇◆◇



「実を言うと、今日の試合は気が進まないんだ」


 僕がいつものようにツナギを着て、リングという名の「結界」(御子内さんは「護摩台」とも呼ぶのでかなり適当だ)を設営していると、お弁当を食べていた我らの巫女レスラーがぼそりと呟いた。

 呟きにしては声が大きいので、僕に対しての愚痴みたいなものなのだろう。

 もう何か月か付き合っているけど、こういう御子内さんはとても珍しい。

 新鮮だ。


「珍しいこともあるもんだね。御子内さんがそんなに自信なさげなのは」

「京一はボクをなんだと思っているんだい? こう見えてもボクだって十代のJKなんだよ。自信が揺らぐことだってある」

「メンタル強いのがウリなのに?」


 彼女の場合、メンタルというよりも熱血力とか、そのあたりが妙に高めなだけかもしれないけど。

 なんといっても少年チャンピオンが愛読書という女子高生なのだから。


「おかげでせっかく涼花すずかが作ってくれた差入れのお弁当も喉を通らないよ」


 一応事実だけを指摘しておくと、今彼女が食べているのは、妹が用意してくれた僕の分の差入れ弁当で、御子内さんの分はとっくに彼女の胃の中だ。

 そりゃあ、二食も食べれば腹も膨れるし、喉も通らなくなるよね。

 せっかく妹が持たせてくれたというのに、女の子に全部食べられてしまうとは思わなかったよ。

 トホホホ。


「でも、涼花は料理が上手いね。部活のときにボクのためにクッキーとか持ってきてくれるし、涼花は本当にいいお嫁さんになるよ」

「―――実の兄にはバレンタインチョコすらくれないんですが」

「何を言っているんだい。ホットココアを出してくれたと言っていただろ。妹のさりげない照れ隠しに気づかないなんて、兄失格だよ、京一」

「男の子としては普通に固形チョコが欲しいんだけど。ていうか、御子内さん、あいつと部活一緒なんですか?」

「言わなかったかな。入学してすぐに、涼花はうちの部活の門を叩いてきたんだよ」


 部活というよりも道場みたいな表現だ。

 とはいえ、御子内さんの所属する部活ならどうせ格闘系だろう。


「合気道とか、空手とか、そんなところ?」

「何を言っているんだい? どうしてそんな格技ばかりを上げるんだ」

「だって、御子内さんってそんなイメージがあるから」

「心外だな。まったく辛亥革命だよ。ボクは学校ではお淑やかなお嬢様で通っているんだからね。―――日本酒愛好会さ」

「却下」


 もう一瞬で却下だよ。

 いろんな意味で却下だよ。

 なんだ、日本酒愛好会って?

 高校の部活でそんなものを認めていいのか、女子高生が入っていい部活なのか、そんなところに可愛い妹が仲間入りしているのを容認していいのか、もしかしてギャグで言っているのか、と様々な理由が雨あられと湧いてきてしまったよ。


「なんだい、藪から棒に。活動内容も聞かないのに全否定ってのはさすがに酷いじゃないか」

「聞く必要ないでしょ。いいですか、御子内さんが世間知らずで騙されやすいのはよく知っていますが、限度ってものがあるでしょう。本当にそんな部活があるんだったら、さっさと退部しなさい。うちの愚妹と一緒に」

「いやいや、ちゃんとした部活なんだよ。利き酒もするけど、その時は口に含むだけだし……」

「却下」

「それに、顧問は酔拳の使い手なんだ。教えてくれるというから、今のうちにマスターしておくのもいいとは思わないか? 巫女活動の助けになると思うし」


 どんな理由だ。

 御子内さんと結婚した場合は、子供の教育方針とかで綿密に話し合わないとダメな気がする。

 結構、よく物事がわからずにモンペになっているかもしれないぞ、この女性ひとは。


「……ところで、うちの涼花が料理が上手いのはさておくとして、どうしてそんなに気が滅入っているの? もうすぐ「結界リング」も完成するし、御子内さんの出番も押しているんだけど」


 すると、僕が食事も採らないで頑張って「結界リング」を設置している間、僕の弁当までかっ食らっていた腹ペコ巫女は天を見上げた。


「今回の妖怪相手には、さすがのボクも分が悪いからさ」

「そうなの?」


 そういえば、今回は事前の調査とか対戦相手の妖怪のレクチャーとかまったくなしに、こんな○×市までやってきていきなり仕事を始めさせられていたな。

 電話で呼び出されて、いつものようにブルーシートに覆われた資材を使って「結界」という名前のリングを文句も言わずに設置する。

 本来一人ではかなり大変な作業だというのに、今の僕は慣れてしまっているのか苦労を苦労とも思わなくなってきていた。

 まったく疑問を感じなくなっているところに、なんとなく僕の社畜化が進んでしまっているような気がしてならない。


「つまり敵はわかっているというわけか……」


 今回、僕らがリングを設置しているのは、とある山の麓近くにあるもう使われていない田んぼの真ん中だった。

 在来線の駅から歩いて十分といったところだが、あまり人気はない。

 駅前にはそれなりに住宅が広がっていて、コンビニも一軒だけだけどあったというのに、ここらに来るとほとんど何もないのは驚いた。

 人影も僕らぐらいしか見当たらない。

 ただ、具体的ではないもやっとした違和感のようなものはあったのだが。


「……いつもはもっと人里で試合しているよね。こんなに駅からも遠い場所は珍しいかもしれない」

「そうだよ。ボクらは普通、人気のないところで退魔の仕事はしないんだ。何故かというと、自然にあふれた場所はもともと妖怪たちの領域であって、ボクらみたいな退魔巫女が押し入っていいとはされていないからさ。さらに田舎で起こる事件については、ボクらとはまた別の系統の退魔師たちが存在していて、その人たちが対処することになっているんだよ」

「へえ」


 よく考えてみればそうかもしれない。

 この間の〈ぬりかべ〉だって、棲息地域を追われて出てきた人里で深刻な事件を起こしたから御子内さんに退治されたのであって、本来ならば、わざわざ倒しに行くほどではなかったはずだ。

 御子内さんたちが、僕らの傍で学校に行ったりしているのも、ある意味では民草に寄り添って護ろうとする意識の賜物なのだろう。

 であるのならば、わざわざ遠出してまで妖怪退治をする必要性は薄い。

 じゃあ、今回の妖怪はどうして?


「ボクらのすぐ前に山があるのはわかるかい?」


 確かに見上げると、山頂が槍のように尖った山があった。

 他に連なっている山々と比べても一際雄々しく見える。


はその頂きにいる」


 御子内さんはきっと空を見上げ、


「そして、


 凛々しいまなざしが天を貫く。

 御子内さんは今回の妖怪に対してきっと怒っているんだろうと思わされる顔をしていた。



「空を飛び、天を舞う、人の外敵。―――〈天狗〉が今回の相手なのさ」



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