第489話「〈社務所・外宮〉の任務」
貴族は足元で蠢く自らの下僕を踏みつけて、前に出る。
決して狭くはない応接間であったが、一人の巫女と一体の〈吸血鬼〉の放つ圧迫感のおかげで通常の何倍も狭く思えた。
マーカムは自分の怪力を最大限に発揮して、ソファの一人用の椅子をソフトボールのように下手から投げた。
ほとんど手首のスナップだけだというのに、椅子はわずかに宙を浮いてララに迫る。
ところが、ララは一歩だけ下がるだけでそれを交わした。
まるで彼女の身体をすり抜けていくように。
難しいことは一つもない。
それは前後に進む歩法だけで攻撃を避けてみせるという神撫音ララの〈神業的ディフェンス〉であった。
『当たらなかっただと!?』
彼女の幻惑的な動きは妖魅すら戸惑わせる。
マーカムですら一瞬命中を確信したにも関わらず、椅子は何事もなかったかのように壁に激突した。
大音響とともに四散する。
どれだけのパワーがこめられているのかわからない勢いだった。
〈吸血鬼〉の持つ膨大なまでの怪力がこめられていた結果である。
ただし、当たらなければどんなパワーも無意味である。
「当たらないように速く動けばいいだけダネ」
嘲笑混じりに嘯きつつ、ララは歩き出した。
この地獄のような光景の中を、触られただけで破壊されそうな力を持つ化け物に向かって、しずしずと我が家を行くように。
正中線を保ったまま、わずかもバランスを崩さない歩法。
これは同じ媛巫女からはジャイロ・コンパスと呼ばれている。
ララの肉体の軸は、方位磁石が北を向くように常に地面に対して垂直に向けられているのだ。
ゆえに不変。
ゆえに普遍。
理解できずに手を伸ばした〈吸血鬼〉の手首を下から掴むと、わずかに退いて体勢を崩させ、反対側から撥ねあがった掌底が顎をかちあげる。
伸ばした両手がくるりと一回転すると、マーカムは気が付いたときには天井を寝そべって見上げていた。
意味が分からなかった。
日本の巫女が何らかの武術を使ったということはわかる。
だが、踊るような動きを見せただけで体格のいい彼を床に這わせることなどできるはずがない。
何か仕掛けがあるのだ。
(東洋の猿めが!!)
人種差別意識をむき出しにして、〈吸血鬼〉は跳ねて立ち上がる。
反動もつけず、勢いもなく、膝さえも曲げずに起きあがりこぼしのようにすっと元の姿勢に戻る。
その首に左右から手刀が見舞われた。
呼吸を必要としない死人である〈吸血鬼〉であったとしても、咽喉を突かれれば怯まずにはいられない。
人であったときの意識がそのまま
ララが躊躇わず一歩出て、短く距離を詰めた双拳を叩き込む。
本来、利き手と利き手ではないという区別があることから、人は同じタイミングと力加減で同時に殴ることはできない。
どうしてもその差はでてしまうのである。
しかし、ジャイロ・コンパスのおかげで左右どころか全身の精緻なバランスが千分の一も狂うことのないララにとっては、双拳はわずかなズレもなく命中し、変わらぬ力を加える打撃にすることができるのだ。
そして、それはなんということもない拳撃の威力を数倍にもはねあげる。
百年を生きた〈吸血鬼〉は少女のパンチを受けて、応接間の入り口まで吹き飛ばされた。
『なっ!!?』
万全な状態で殴りつければ、人間の首を切断できる彼の力を意にも介さず、しかもこれまでに受けたこともないダメージを与えられて、マーカムは顔を歪めた。
この黄色い雌猿め!!
次の瞬間、彼は全身の妖力拘束を解除する。
それは彼の肉体を構成する筋肉が夥しい数の蝙蝠へと戻っていくことであった。
マーカムの正体は蝙蝠の集合体であり、同時に霧の群体である。
こんな極東でハンターでもない素手の少女にほんの数秒のうちに追い詰められ、しかも切り札でもある妖力拘束の解除などしなければならないといことは屈辱以外の何者でもない。
しかし、マーカムの本能が訴えたのだ。
生存するための本能が。
この敵を侮ってはならない、と。
「蝙蝠の群れに化けた―――いや、戻ったのカナ?」
ララは欧州にいる〈社務所〉のエージェントが用意していたマーカム・フォン・ブライシュティフベルガーのデータを思い返した。
(欧州の小国クリニアマラカに流入した移民の娘の血を吸ったことで、その怒りを買って国を追い出された〈吸血鬼〉。……クリニアマラカの国民が辛うじてお目こぼししていただけなのに調子に乗って移民を狙い、怒れるイスラム教の暴徒に襲われたと。考えの足りない貴族だということはわかるネ)
欧州の民では血の報復を恐れて泣き寝入りをするかもしれないが、近年流れ込んでいるイスラム教徒の移民たちはいい意味でも悪い意味でも住みついた地に溶け込むことをしない。
ゆえに、イスラム教徒の移民たちとの争いによってマーカムは追放されたのだ。
あとは様々なルートを通ってユーラシア大陸を逃げまどい、最終的には神の流刑地である神州にやってきたのだろう。
ただし、兆候は掴んでいた。
欧州を追放されたはぐれ〈吸血鬼〉が日本に来るかもしれないという兆候は。
ララたち〈社務所・外宮〉の仕事はまさにそれだからだ。
(―――〈
外来種の侵入を許したのは、どんな力を持つかもわからない妖魅を野放しにして、それを媛巫女たちに討たせてレベルアップを計ることにあった。
そのため、かつてならば本土の土すら踏ませることもない、わずかな漏れすらない妖魅の防疫をわざと緩くしたのである。
御子内或子たちは、ララたちの動きを敵対行動と捕えているだが、それはある意味間違っていない。
ララたちはあの手この手を用いて、御所守たゆうが選び出し鍛え抜いた媛巫女たちを磨き上げていたのである。
これは〈社務所〉の本来の
おかげでこの神物帰遷の時代に、必要な戦力が間に合いそうなのだ。
〈社務所・外宮〉の任務は果たされる寸前といえた。
だが―――
「……予想外の〈吸血鬼〉の侵入なんてものはノーサンキューなんだヨネ」
〈吸血鬼〉は扱いを誤れば一つの地域を全滅させかねない災害だ。
しかも、力は当たり前の妖魅を凌ぐ。
そんなものをせっかく育てた〈戦勝闘仏〉や〈五娘明王〉にぶつけて不測の事態を招くことは何としてでも避けたい。
すでに外なる神との前哨戦は各地で頻発しているのだ。
しかも、都内には数人の仏凶徒が入り込んでいるらしいとの嫌な噂もある。
だからこそ、神撫音ララは非情にも確実に〈吸血鬼〉を殲滅させるための犠牲も厭わない計画を進行させたのである。
「M84!!」
ララの叫びに従って、締め切られていたはずの窓や玄関から幾つもの黒い物体が投げ込まれてきた。
応接間を覆い尽くさんとばかりに飛び始めた蝙蝠たちはそれに気が付かない。
脳みそまで蝙蝠以下になっているのだ。
「ちっ!!」
ララは懐から用意していた耳栓をだして耳孔に詰めて、目を閉じて、身を屈める。
次の瞬間、あり得ないほどの爆発音とマグネシウムによる炸薬が閃光を発した。
スタン・グレネードであった。
そして、この暴徒を鎮圧させるための非致死性兵器は無数の蝙蝠さえも沈黙させる効果を有していた……
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