第351話「誰の目にも入らず終わる」
今、降りてきたエレベーターの籠の中にいた藍色さんの左ストレートを受けて、ホシバナモグラの妖怪は派手に吹き飛んでいった。
20から30キロ程度の
ホシバナモグラの特徴的な鼻は約22本の突起でできていて、アイマー器官と呼ばれる、神経細胞と繋がることで触れたものの情報を読み取ることができる。
そうやって餌を見分けるのだが、星型の器官から得た触覚情報を処理する「大脳皮質領域」が、他のモグラに比べて大きくなっていて、ただのモグラに比べて知能が発達していると言われている。
この外来種のホシバナモグラの妖怪が日本のモグラたちを支配下に納めて、地上侵攻を開始したということが今回の原因なのだろう。
こいつらが何匹いるかはわからないが、おそらくそんなに多くはないだろう。
とりあえず、まずはこいつらを殲滅することが喫緊の課題だろう。
「藍色さん、このホシバナモグラが敵の首魁だ! 倒してくれ!!」
「承知しました!!」
吹き飛んだ巨体に追いついて、さらに連打を胴体にぶち込む。
動物型の妖怪の多くは腹筋がさほど鍛えられていることはない。
なぜなら、四足獣については腹を見せることは弱点を見せることと言っても過言ではないほど弱い部位だからだ。
内臓のすぐ傍だからというだけでなく、筋肉自体もそれほど堅くない。
特に藍色さんが相手をしているモグラなんて、地下で暮らしている以上、天敵もいないだろうし、戦うことなんてまずないはずだ。
だから、藍色さんの前後のフットワークを交えた、コンビネーションによって、顔面・胸・腹・腋を打たれても反撃すらままならない。
このまま一方的な攻撃でKOできるかも。
しかし、相手が例え木偶人形だとしても、藍色さんは油断しない。
なぜなら、妖怪たちは常に共通の特徴―――秘儀と呼ばれる恐ろしい武器を隠しているからである。
この〈
『ギィピャアアアア!!』
モグラの右爪が振るわれた。
壁の表面が何条もの傷を伴って切り裂かれる。
堅い粘土層ですら掘り進むモグラの力がサイズとして人間大になればどれだけの破壊力になるのか。
しかし、コンクリートも簡単に破壊するモグラの力も、藍色さんのボクシング技術にかかれば当たらないそよ風のようなものだ。
簡単なスウェーバックとダッキング、そして前後の移動だけでことごとくモグラの爪を躱す。
御子内さんの連続攻撃ですらものともしない藍色さんの技術は、狭い廊下においてでさえ色褪せることはない。
インファイトもアウトボクシングも自在にこなす、まさにオールマイティタイプのボクサーにかかれば、動きの鈍いモグラでは相手にすらならない。
喉元を突かれ、モグラが膝から崩れ落ちた。
倒れるのに巻きこまれないように藍色さんはバックステップで下がる。
僕は邪魔にならないように、エレベーターの扉に背中をつけた。
軽い震動を感じた。
つまり、エレベーターが動いているってこと?
でも、手元にある表示も頭上のパネルでもエレベーターは動いていない。
まさか、また何か起きるのか、と思って身構えた瞬間、
ドゴン!!!
と、とんでもない衝撃音が落雷のように鳴り響いて、同時に扉が横には開かずに僕を吹き飛ばす。
何かがエレベーターのカゴから飛び出してきたのだ。
黒い、巨体が背中から滑るように廊下に現われた。
前肢についた五本の爪と、黒い体毛の隙間から覗く白い眼、鼻づらについた不気味なイソギンチャクのような触手、そのくせ胴体にはサラリーマンの破れた背広がまとわりついている。
もう一匹のホシバナモグラの妖怪だった。
だが、すでに誰かにボコられた跡がはっきりと残っている。
まさか、もう一人、誰か退魔巫女が来てくれたのか。
しかし、照明が壊れて真っ暗になったカゴの中からのっそりと顔を出したのは、全身を鉄の茶釜で覆い包んだ大タヌキだった。
「分福茶釜っ!!」
エレベーターのカゴの天面がぽっかりと空いていた。
上から突き破られた結果によるものだろう。
どうやって突き破ったかもすぐにわかった。
分福茶釜はわずかに足を引きずっていて、全身がボロボロの状態だった。
つまり、こいつはエレベーターの縦のシャフトをホシバナモグラとともに落下してきたのである。
動かないカゴに乗りことなく、無理矢理に一階の扉をぶち開けて、雨のように降ってきたのだ。
全身を鉄の茶釜で覆ったとしても、中身はタヌキが妖怪変化かした生身でしかないのだからダメージはそれ相応に食らったに違いない。
下手をしたら、落下の衝撃で死んでいてもおかしくはない無茶だった。
だが、こいつはあえて無茶を承知でやったのだろう。
なんのために?
言う必要もないことだね。
「助かった! さすがは江戸前の五尾だ!」
『なに、
「ありがとう!
僕の呼び声に応えて、分福茶釜は親指を立てた。
嬉しそうな顔しないでよ。
分福茶釜は仰向けに倒れてピクリともしないホシバナモグラを踏みつけて、廊下に出てきた。
ふらふらして、足をひきずっていても、闘志は落ちてなんかいない。
いいぞ、タヌキの若旦那!
『モグラども、これ以上、ワシらの街で好き勝手にはさせねえぞ』
『ギャピィィィ!!』
踏みにじり、叩き潰して、タヌキは進む。
通路の反対側からは、一階のロビー同様にワラワラと変化したモグラどもが群れを成してやってきていた。
藍色さんも自分が倒したホシバナモグラを完全に沈黙させ、敵の集団を迎え撃とうと両手の腱を伸ばしつつ、不敵な笑みを浮かべている。
いかにも御子内さんの親友の一人だ。
どれほど敵が軍勢を繰り出して来ようと、欠片も怯んだりはしない。
「どうやらわたしの臨時の相棒は貴公のようですにゃ、タヌキ殿」
『そのようじゃ、猫の姐御』
「あのモグラが何匹いるかは知れませんが、残らず殲滅するまでわたしらは帰れにゃいことを覚悟してくださいね」
『もとより、承知。もともとこれはワシらタヌキが買った喧嘩じゃ。それに―――火事と喧嘩とタヌキのきんたまは江戸の華よ!』
一人と一匹の人獣コンビか並び立つ。
狭い廊下を舞台に、命がけのサバイバルマッチが始まろうとしていた。
でも、僕には手助けはできない。
友達を応援するだけだ。
「頑張れ、藍色さん、分福茶釜!」
次の瞬間、戦いの嵐が巻き起こった。
タヌキと人間、それに対してモグラ、どちらの勢力が生き残るかの雌雄を決するための。
◇◆◇
「―――あれ、升麻くん、どうしてこんなところにいるんだい?」
「迎えに来たんですよ。七條さんが遅いから」
「駄目じゃないか、勝手に入ってきたら。最近、こういうところの保安厳しんだぜ」
悟郎は大きく欠伸をした。
どうやらラノベを読みながら寝てしまったらしい。
本は足元に落ちていた。
「あらら、ヤベ」
それを拾い上げてから、升麻京一以外は誰もいないことに気が付く。
「フラン・コーポレーションの人は?」
「さあ。僕が受付の人に聞いたら、六階にいるから迎えに行ってもいいと許可を得たのできたんです。目、覚めましたか?」
「まあね。……なんだ、面接はもう終わりかよ。つーか、最初から真面目に面接する気なかったんじゃねえのか、この会社。おっと、いけね」
会社批判だととられるとヤバいと思って口を噤むが、今の不平を聞いていたのは目の前の少年だけだった。
「もう、帰っていいそうですよ。もうそろそろ九時ですから」
「なんだよ、適当な会社だな。面接通ってもこんなところ、絶対に就職しないことにするわ。いくら俺の心が広くても、こんな適当なところに勤められるか」
七條悟郎的にはアリかナシかで問われたら、ナシに決まっている会社であった。
そんな彼の憤慨を生暖かい目で見つめながら、京一は言った。
「じゃあ、帰りましょうよ。特になにごともなかったみたいですし」
「そうするかな」
廊下に出ると、さっきとは違う場所のような気がした。
「どうしました」
「いや、さっき来た時って窓があったかなあって……」
窓から見える夜景はなかったような気がした。
だが、ここに来たとはすでに夜だったから覚えていないだけかもしれない。
昼間なら間違えることはないのだが……
「気のせいじゃないですか。最初から、七條さんがきたのは、ビルの六階でしたよ。まかり間違っても地下とかじゃありませんでしたし」
記憶の齟齬に首をひねる七條を連れて、京一は非常階段を下る。
「エレベーターは使わないのか?」
「夜八時以降は使えない規則らしいです
「面倒だな。やっぱり、この会社は止めよう。なあ、升麻くん」
「ええ、そうですね。こんな土臭いところ、いいことはありませんから」
受付にもう誰もいない一階ロビーを抜けて、二人はビルの外に出た。
もうほとんどの階の電気は消えていたから、七條悟郎はなにもおかしいとは思わずに吉祥寺駅に向けて歩き出す。
足下に広がる地下の通路で、どれだけ激烈で命がけの死闘が繰り広げられたかについて、彼が何かを知ることは一切なかったのである……
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