第350話「地底紀行」
おそらくはホシバナモグラであろうモグラ妖怪は、僕を見てぎょっとしたようだった。
まさか、誰かが降りてくるとは思っていなかったのだろう。
ここは彼らの地下王国。
上に行くと見せかけて、獲物を逃がさないように連れ込むための場所だからだ。
もっとも僕だって好きでやってきてしまった訳ではない。
ある意味では不可抗力だ。
自分から罠にはまりに行くなんて、我ながら迂闊だったとしかいえない。
とはいえ、一瞬の判断ならばエレベーターの中で予測していた僕の方に分があったようだった。
急いで、床を蹴ると二本足で直立する背広姿のホシバナモグラの脇をすり抜ける。
モグラというよりは、オケラに近い長い腕のせいで咄嗟に僕を止めることができない。
廊下を逃げたからと言ってどうにかなるものでもないけれど、狭いエレベーターの内部で追い詰められるよりはマシだった。
僕は奥へと進む。
一見、地下の施設とは思えない、ふつうのオフィスの一画のようだった。
ただし、窓がない。
連れ込んだ人間が不審を覚えないように異常なまでに明るくしているのが、逆に地下鉄の構内みたいだ。
しかも、広い。
上の建物は瀟洒ではあるが所詮は雑居ビルで狭そうだったのに、この地下はかなり広い。
地下鉄でいえば乗り換えがある霞が関やそのあたり並みに広いのである。
とてもではないが、吉祥寺駅の地下とは思えない。
エレベーターで降りた時間からするとあり得ない広さだ。
つまり、そこから想像できることは二つか三つ。
中でも僕が怪しいと思ったのは、ここがきっと結界内だということだ。
御子内さんたち退魔巫女が〈護摩台〉という妖魅封じの結界を張るように、モグラどもは獲物を封じ込めるためにこの空間をでっちあげているのだ、と。
これほど広大な空間を用意できるということは、モグラによる地上侵略はかなりの勢いで進んでいるのだろう。
もし、生きて帰れたら、〈社務所〉の重鎮の御所守たゆうさんにでも訳を話して、対策を練ってもらおう。
とてもじゃないけれど、妖狸族だけに任せておくことはできないはずだ。
『キュピィィィィィ!!』
可愛い声でホシバナモグラが叫んでいる。
僕を取り逃がしたことが悔しいのだろう。
しかし、アメリカやカナダに棲息しているホシバナモグラの妖怪とはちょっと意外だった。
絶対に日本にはいない動物だからだ。
脳裏に年末に僕を監禁した
〈社務所・外宮〉という部署の一員である彼女は、外来種ともいうべき海外からやってくる妖怪・妖魅との戦いが増えてくるという予測を立てていた。
それがこれからさらに激化していくとも。
もしかしたら、今の〈
日本の固有種ともいえるタヌキたちが、ハクビシンと戦っている間をつくようにここまで力を伸ばしたモグラたちとはいえ、いきなり地上侵略を始めるとは思えない。
もしかしたら、さっきのホシバナモグラが日本のモグラ妖怪を煽動して教唆した可能性は高いかも。
そうだとしたら、一体一体倒していく、まさにモグラ叩きをするよりも、あのホシバナモグラをピンポイントで倒していく方が早いかも。
「……そうすればこんな恐ろしい人攫いの事件もなくなるか」
となると、生きて帰れたらなんてことは言っていられない。
腕の一本、脚の一本ぐらいはくれてやっても、必ず地上に戻らないと。
僕一人だけの問題じゃなくなるのだから。
『キュピイイイイ』
後ろからモグラが追ってくる。
いくら広いとはいっても、所詮は地下の施設だ。
僕は簡単に追い詰められた。
背中に白い壁を背負って、やってきたホシバナモグラと対峙する。
「……七條さんをどうした?」
『七條? 最高学府を出たという人間のことか。あいつならばあとで巣に持ち帰って、脳みそだけ切り分けてパーティーのメインに据えてやる』
「脳みそだけ?」
『頭のいい人間の脳みそはうめえからな。我らの世界では垂涎の的の珍味よ。ただ、そう簡単には手に入らねえ。だいたい育ちもいいし、周りも優秀なのが揃っていて拉致するのも難しい。だから珍味なんだがね』
ホシバナモグラの喋りにはやはりたどたどしい訛りがあった。
人間の言葉になれていないというよりは、やはり想像通りに外国から来た妖怪だからだろう。
「……だから、七條さんを誘き出したのか」
『おうよ。まさか、職業安定所にあんな出物があるとは思わなかったぞ。最高学府、しかも法学部なんてそうは見つからない』
「でも、七條さんなんか食べたら腹を壊すよ、きっとね」
この点、僕には確信があった。
とんこつラーメンに含まれたこってりとした豚の脂が腹痛をおこさせるように、七條さんなんか食べたら絶対に痛い目にあう。
でも、彼を妖怪のディナーになんかさせてたまるものか。
例えどんな変人でも友達は友達だ。
『だが、おまえも美味そうだ。脳みそだけでなく、全身から美味そうな匂いがしている。なんだ、おまえ、なんだ』
「なんだとは、何さ。僕は君らみたいなのに執着されるようなものじゃない」
美味そう、なんて言われて喜ぶ馬鹿はいない。
『とりあえず味見はあとだ。おまえもいただこう』
「勘弁してくれないかな」
僕は全身を硬直させた。
殴られても平気なように。
その様子を見て、ホシバナモグラは長い手を伸ばしてくる。
掴まえて手籠めにするつもりなのだろう。
どうしようもなくおぞましいけど我慢した。
だって―――
『いてえ!!!』
僕の首に巻いてるマフラーを掴んだホシバナモグラが熱いものにでも触ったかのように、激しく手を放した。
ジュッと白い湯気が上がっている。
かかった。
やはり妖怪相手には効く。
僕のマフラーに巻き込んである護符の依り抜きが妖怪の身体を灼いたのだ。
一般人にとってはなんてことはないけれど、僕に不用意に触ろうとする妖怪相手には効果的な護身武器だ。
この事を知っている分福茶釜が僕に触らないのはそういうことである。
僕ももう完全な素人じゃない。
護身のために策を巡らすのはあたりまえであった。
それに、こいつら〈
警戒することすらせずに、こちらの策にかかってくれて助かったよ。
これでまた時間が稼げた。
僕は折り返し、もと来た道を戻る。
すぐにエレベーターに到着した。
一階行きのボタンを押す。
たぶん、こっち側は仕掛けがないはず。
ウイーンと一階からカゴが上がってくる。
もうすぐだ。
だけど、そのわずかな時間の間にホシバナモグラは再び僕に追いついてきた。
『ニンゲンめ……!!』
護符に焼かれた痛みに眼が血走ったモグラが僕めがけてやってくる。
報復のためにその爪が容赦なく僕の身体を掻き切ろうとする。
ガチャ
エレベーターの扉が開く。
だが、もう間に合わない。
逃げることも隠れることもできない。
モグラの爪を喰らって僕は死ぬのか。
しかし。
「にゃんと危機一髪でしたね」
耳元で囁く声が聞こえたかと思うと、電光石火の左ストレートがカウンターとなってホシバナモグラの顔面―――星型の触手の生えた鼻づらを撃ち貫いていった。
覚えてる。
忘れることはない、その一撃を。
「ボクの同期の中で最も美しい戦いをする」と御子内さんが評したボクサーの打撃を。
猫耳藍色さんがやってきてくれたのだ。
「―――話は〈三代目分福茶釜〉に聞きましたよ。〈
かつて、あの御子内或子とさえ引き分けた最強の巫女ボクサーという援軍はなによりも頼もしいものとして僕の目には映っていた……
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