第92話「ファンの言い分」
病室のドアがすっと開く。
非常灯がついているとはいえ、廊下よりは暗い室内に、白色灯の光りが差し込む。
入ってきた人影はしばらく立ち尽くしていた。
ベッドの上で手術の日を待つ男の子とその母親がいた。
母親は壁際にある簡易ソファーで熟睡していた。
さっきまで夜中に様子がおかしくなる息子のために我慢して起きていたはずなのに、どういう訳か一瞬にして眠りに落ちてしまったのだ。
まるで伝説の眠りを誘う妖精〈
母親は人影の侵入にも一切気づくことなく深い眠りについている。
しかし、彼女一人がおかしくなったのではない。
病室のすぐ外には男性の看護師がわざわざ椅子を用意して寝ずの見張りをしていたというのに、彼もいぎたなく座ったまま寝落ちしていた。
いや、それだけではない。
異常事態があるかもしれないと廊下の監視カメラを見張っていた警備員も、モニターを睨んでいるうちに今までに感じたことのない眠気を感じて、画面に何が映っていたとしても正しい認識ができなくなっていた。
だから、例えモニターに小規模の行列が映し出されていても、警備員はそれがおかしいことだと認識することはできなかったであろう。
人影はそうやって誰にも見咎められずに、異様なまでの静けさとともに病室に辿り着いたのだ。
ベッドには一人の男の子が横になっている。
だが、その眼は見開かれていた。
「ふっ、ぐっ!」
彼は必死に身体をねじり、よじり、悶えていたが一切動かない状態であった。
金縛り。
その現象の名前こそ知らなかったが、自分の身が自由にならないという恐怖を男の子は骨の髄まで味わっていた。
口も動かないので叫ぶことさえもできない。
ただ眼だけが室内に入ってきた人影―――男を見つめていた。
彼はその男を知っている。
(蘭条友彦だ……蘭条友彦だ……)
少し前の彼だったらそのことを幸運だと思って喜んでいただろう。
炸裂ファイターGAに変身する蘭条友彦は正義の味方であり、子供たちのヒーローであったからだ。
彼だって憧れていた。大好きだった。
だが、今は違う。
今や蘭条友彦は彼にとって恐怖の対象でしかなかった。
夜な夜なこの暗い室内に、誰もいない場所にやってきて、恨み言を吐きながら彼の首を絞めてくるモンスターでしかないのだ。
憧れていたからこそ、落差は大きい。
蘭条友彦は男の子にとってどんな悪魔よりも恐ろしいモンスターに変貌していた。
『俺を呼ぶな……』
地獄の底から上がってくるようないつもの呪いを蘭条友彦が吐く。
『俺に期待するな……。俺を信じるな……』
また一歩男の子に近づく。
『俺はヒーローじゃない……。正義の味方なんかじゃない……。俺はおまえらの期待になんか応えない……』
ベッドの脇まで来た。
男の子は眼球の動きでしか男を捉えられない。
ただ、その双眸に浮かぶ真っ赤に爛れた憎悪の炎だけが焼き付いていた。
蘭条友彦が言っていることは何一つわからない。
理解できもしない。
恐ろしいからというだけでなく、男の子ぐらいの年齢では、年を重ねるごとに湧いてくる正義という大文字に対する失望と絶望が想像できないからであった。
もし、この場にある程度の年齢に達した人物がいれば、もしかしたら蘭条友彦の恨み言に共感できたかもしれない。
だが、そうなるには男の子は幼過ぎた。
何か事情があったであろうからこそ嘆き悲しむ他人の叫びをただの騒音としか捉えることができない隣人のように。
怖い、恐ろしい、嫌い、泣きたい……
男の子の心にはそれしか刻み付けられなかった。
『俺は炸裂ファイターになんかならなければよかったんだ……』
蘭条友彦の手が伸びた。
また、男の子の首にかかる。
今日こそ彼は殺されるかもしれない。
かつて大好きだったヒーローの手によって。
「―――そんなこと言わないでよ」
どこからか声がした。
恐ろしい悪霊と化した蘭条友彦まで愕然と振り向いてしまうぐらいに唐突に。
『……っ!?』
部屋の入り口に新しい登場人物が立っていた。
病院から貸与されるパジャマを着て、スリッパをつっかけた姿の、どうみてもただの患者だった。
しかし、その顔を見たとき、男の子は思わず心の中で叫んだ。
口は動かないけれど、心が叫んだ。
(お兄ちゃん!!)
と。
◇◆◇
そこにいたのは確かに蘭条友彦だった。
服装からすると、最終回のある第四クールあたりだろうか。
四肢の長さが妙に歪だったり、背筋が曲がっていたりするし、僕を睨みつける眼もやたらと黒目部分が大きいから、間違いなく霊なんだろうね。
御子内さんの助手を始めてから、強い怨念もっている地縛霊なんかは視えるようになってきたからさらにわかる。
この蘭条友彦は間違いなく霊だ。
しかも、直視できないほど悲しいけれど、本物の蘭条友彦―――つまり橋本竜生の霊なのだ。
そいつが小さなただヒーローが好きなだけの難病の子供を苦しめている。
なんて残酷な。
「勇太くんに罪はないでしょう。もう止めてください」
淡々と僕は言った。
あまり感情をこめたくなかった。
「あなたがどんな苦労をして、どうして亡くなったのか、僕は知っています。ネット社会ですからね。あなたの自殺のことも記事で読みました」
『……』
『あなた自身の苦しみとかはわかりませんが、それをファンの小さな男の子にぶつけるのはやめてください。あなたに憧れていてみんなが悲しみますよ』
すると、蘭条友彦は今度は僕を怨嗟の眼差しでねめつける。
不気味な視線だった。
とても炸裂ファイターGAに変身する男らしい若者のものではなかった。
『俺は蘭条友彦じゃない……。俺は橋本竜生だ……。俺に嘘のヒーローをいつまでもやらせるな……』
「やっぱりそうなんですね。お気持ちはわかります」
『外野に何がわかる!!!』
蘭条友彦―――橋本竜生は吠えた。
血の涙を流しながら。
どれほど深い絶望があったか。
自ら死を選ぶほどに。
『炸裂ファイターなんかをやったせいで俺には仕事が来なかったんだ! 俺が演技の勉強をやったのはあんなジャリの番組のためじゃねえ! 俺はもっと大きな仕事がしたかったんだ! あんなくだらねえもんのために潰されるなんて許せるかよ!』
僕はその告白をまともに聞きたくなかった。
でも、聞くべきだと思った。
『何が正義だ! 何が他人のためだ! 一人の時は泣いちゃだめだだ! くだらねえ! あんなガキの親から金を巻き上げるための番組でこっ恥ずかしい台詞を吐いてられっか! 死ねばいいんだ、あんなものを見ているガキも作っている
そんな蘭条友彦の呪いのような憎しみに僕は吐き気を催した。
自分勝手?
いや、違う。
彼の言っていることは実は正論なのだ。
本当のことなのだ。
正義の味方の特撮ヒーローものは玩具を売るための三十分CMでしかないし、下手をしたら当の子供でさえ信じられない綺麗ごとを連ねるだけの幼稚な脚本もあるし、いい歳した大人が熱中するにはくだらない面もある。
だから、正しくはある。
でも―――
「―――だから、何さ?」
僕は言う。
「ジャリ番の主役をやったせいでイメージがついて、普通の仕事がこなくなって、酒浸りになって自殺した俳優がいたからって、それがどうなのさ」
蘭条友彦の霊は黙った。
「ヒーローを演じた俳優のその後がどうなろうとファンにとってはどうでもいいことだよ。死のうが麻薬に溺れようが水商売に落ちようが。ただ、応援していた子供たちにとって永遠の憧れでいてくれさえすればそれでいいんだ。演じた俳優なんてヒーロー本人ではないんだからね」
そして、僕の想いを語る。
「男の子は子供の頃に大好きだったヒーローに死ぬまで影響される。年をとって幼稚さや子供っぽさから避けたり忘れたりしても、ヒーローの魂はずっと男の子を燃やし続ける。永遠なんだ。だから、例えあなたが橋本竜生本人であったとしても、子供たちの憧れであった蘭条友彦を―――炸裂ファイターGAを穢すような真似は許さない」
僕は手にしていた桃剣を縦に構えた。
以前の事件の時に、中華街の元華さんに教えてもらった桃剣の使い方の一つだ。
「橋本竜生。―――蘭条友彦を騙る偽物。子供達の夢を傷つけ、希望の光を消し去ろうとすることは、この僕が認めない!」
『ダマレ!!』
呪われた霊はすでに正常な人の姿を保つことができず、靄のような影になって僕に迫ってきた。
不気味だけどむしろ僕には好都合だ。
蘭条友彦の姿のものに攻撃することはさすがにできなかった。
僕は桃剣の先に御札を刺しこむ。
いつかの〈殭尸〉退治だけでなく万物に潜む魔物にも効果抜群という破邪の護符だ。
そして、イチ、ニ、サンと決められた運足をする。
これが効果を発揮するための簡単な儀式。
そのまま全身全霊をかけた桃剣の突きを放った。
十分に引きつけてから、魔物の胴体を剣尖で切り裂き、札を突っ込むのがコツだと聞いたままに。
手応えは―――なかった。
橋本竜生だったものはその両手らしいもので僕の首を掴んだ。
「ゴホっ」
咳が出た。
呼吸管を一気に絞められたからだ。
だが、僕は桃剣を手放さない。
怯んだら、負け。
怯えたら、逃げ。
そうしたら、この自分で人生を断った悪霊が勇太くんをどんな目に合わせるかわからないから。
聖なる力をもった破邪の桃剣と護符を信じて、僕は最後の気力を振り絞り全身を震わす悪寒に耐える。
痛みも忘れる。
ギリギリまで意識を保ち、そして前に出る。
桃剣なんて使ったことはないけれど、これしか僕にはないのだ。
目に涙が滲んだ。
痛みか恐怖か、そのどちらか。
でも、堪える。
泣くことは視界を塞ぐこと。
眼が見えなかったらなにごとにも勝ち目はなくなる。
「ああああ゛!!」
次の瞬間、黒い靄は晴れた。
橋本竜生の霊らしいものはどこにもいなくなっていた。
さっきまで部屋を覆っていた冷たい空気もなくなっている。
ふと、隣をみるとソファーで寝ている勇太くんのお母さんが目覚めかけていた。
どうやら僕は勝ったみたいだ。
となるとさっさと退散しないと。
「じゃぁね、勇太くん」
僕は寝ている彼の頭を撫でて、離れた。
部屋を出る寸前、忘れていたことを思い出した。
桃剣を振るってポーズをとり、
「
と決めセリフを言った。
……勇太くんの病室を出て、慌てて自分の部屋に帰ろうとした時、階段の途中に友達が立っていた。
「やりましたねー、京一さーん」
ハイタッチのポーズを熊埜御堂さんがしていたので、それに応じた。
「いざとなったら、てんちゃんがでようと思って隠れていたのに、京一さん一人で終わらせちゃうんですもん。びっくりしましたよー」
そうか見守っていてくれたのか知らなかった。
でも、知らなかったからこそ最期まで意地を張れたのかもしれない。
結果オーライだね。
「ありがとうね」
「いえいえ、どういたしまして」
熊埜御堂さんはそのまま階段を降りていこうとして、
「この事は或子先輩たちには内緒にしておきますねー」
「そうしてもらえると嬉しいな。無茶をしたみたいだし」
「じゃあ、てんちゃんと京一さんの内緒の秘め事ということでー」
「いかがわしい言い方はやめて」
去っていくミニスカ巫女さんを見送りつつ、僕も自分の病室へと戻っていった。
明日には退院だし、ようやく気兼ねなく出ていけるようになったと安堵しながら。
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