第246話「這いよる桃色混沌」



 その毛むくじゃらの腕には言いようのない悍ましさと狂おしさがあった。

 人間というよりも猿のものに近い構造といえばいいのは確かだが、その歪さたるや、おぞましく、冒涜的で、精神的にくる捻じれを持っていて、とても気味が悪いものだった。

 これまでも色々な妖魅の類いを見てきたけど、これの身の毛のよだつ形は想像以上のものがある。

 決して鋭くもない巨大な爪も、節くれだった指も、どれもが鳥肌をたてるものとだけしか言い表せない、まさに「歪み」の象徴だった。

 そんなものがテーブルクロスの下から、まるでカジノでディーラーがチップを集めるようにクイクイと何かを探して動いているのを見るのは慄然するべき光景でしかない。


「何だ……この手……」


 僕は無意識のうちにしゃがみ込み、そして四つん這いになって、そっと中を覗いてみた。


 ―――眼が合った。


 テーブルクロスがはられたテーブルの下から、こちらの様子を興味深そうに窺う紅くぎらついた眼が。

 小柄だが名状し難い冒涜的な何かが、毛むくじゃらの頭に三つの眼をつけた呪われた顔をしていた何かが、僕と数メートルの距離を置いて見つめ合った。

 悲鳴はださなかった。

 呼吸が止まってしまったので、瞬時の硬直が溶けるのを待ってから、ゆっくりと起き上がり、ようやく中腰になると、長く息を吸った。

 ただの空気がとてつもなく新鮮な朝の息吹のようにも味わえた。

 さて、数秒してから、僕はおもむろに叫んだ。


「うわわわああああああ!!」


 びっくりした。

 それ以外に表現する方法がなかった。

 ただ単にびっくりした。

 怖いとかなんとかはどうでもいい。

 心臓が止まるかと思うほどにびっくりした。

 僕の叫びを聞いて、テーブルクロスから突き出ていた歪な毛むくじゃらの腕がびくんと震え、中にひっこんでしまうぐらいに。

 なんだ、アレ!?

 なんだよ、今のは!!


「京一、何があったんだい?」


 僕はテーブルを指さして、


「な、中に何かいる!! 赤い眼の毛むくじゃらのやつが!!」

「なんだって!」


 ここに揃ったすべての退魔巫女が構えをとった。

 そのとき、僕の眼には一つだけ違和感が宿る。

 それは反対側にいた皐月さんのとったリアクションだった。

 彼女の動きは、戦うためとか防御のためのものではなく、額を押さえた「あちゃー」というべきものであった。

 少なくとも他のみんなのように臨戦態勢ではない。


「大きさは?」

「小さい。子供よりは大きいけど、御子内さんの半分ぐらい」

「イメージは?」

「蜘蛛っぽい猿。もしくはその逆で猿っぽい蜘蛛。眼が額にもあって三つ目」


 すると、巫女たちは目配せをしたが、誰も小首をかしげるだけだった。

 覚えのない妖魅なのだろう。

 そうすると、はっきりとした形のない魑魅魍魎なのだろうか。


「てん、脚を掴まれたと言ったな。傷はあるか?」

「ないですー。びっくりして寿命が縮まりましたですー」


 と、熊埜御堂さんはなんとか平常運転に戻っていた。

 さすがの切り替えの早さである。


「一、二、の三でテーブルを引っ繰り返すか」

「待て、唐揚げが勿体ない」

「だけど、妖魅をいつまでも放っては置けないでしょう」

「京いっちゃんゴメン」


 頭を下げられたら仕方ない。

 僕よりも自分の家の中をぐちゃぐちゃにされるヴァネッサさんたちの方が可哀想だ。

 だが、彼女は気丈にも頷いて混乱を認めていた。


「じゃあ……いきますよ」


 藍色さんが声をかけたとき、テーブルクロスの一か所がバッとめくれ上がって、何かがそこから這い出してきた。

 そのまま脱兎のごとく逃走する。

 その先にいたのはゴスロリドレスの魔女姿の音子さんだったが、彼女はその黒いものが股の間をすり抜けていき、ついでにスカートが捲られるように翻るのを押さえるのを必死で通り抜けさせてしまった。

 ちなみにスカートのめくれ方が派手すぎて、僕からは内部が随分とはっきり見えてしまった。

 十七歳の若さで黒いフリル付きのショーツは止めた方がいいと思いましたまる

 僕に目撃されたのに気がついたのか、ちょっと震えて涙目になっている音子さんを尻目に、御子内さんたちは黒いものを追い出した。


「そっちに行ったぞ!!」

「おうさ!!」


 電灯が点いていないせいか、ハロウィーン仕様の薄暗い部屋の中を、黒いものは器用に動き回り、場所を掴ませない。

 ソファーの裏だけでなく、他の人の陰に隠れたりしてどうにも追いかけっこが続くだけだ。

 料理やらお菓子やらが散乱して、居間とかキッチンは酷い有様になっていく。

 狭いこともあって、熊埜御堂さんと御子内さんが正面衝突をしたり、藍色さんの拳がレイさんの顔面に当たりそうになり、身内で仲間割れ寸前という状況でもある。

 ただ、やはり皐月さんだけは心配そうに見守るヴァネッサさんの傍にいて何もしていない。


「痛い!! なにをする藍色!!」

「或子さんが邪魔にゃのよ!!」

「言ったな、ボクよりもキミの方だろ!!」

「もっと或子さんが落ち着いていればいいにゃ!!」

「なんだと!!」


 どういう訳か御子内さんは今度は藍色さんとつかみ合いをやりだした。

 うん、まあ、血の気の多い女の子同士のキャットファイト―――ですめばいいんだけど。


「いやああああああ!!」


 振りむくと、何かに躓いて四つん這いになっていた熊埜御堂さんのお尻のあたりでミニスカがめくれていて、そこに黒いものがまとわりついていた。

 狙ってやったものではないだろうが、ミニスカの中に顔が突っ込まれているようにもみえなくもない。


「お毛けがくすぐったい!! 気持ち悪い!! 舐めるみたいに動かないで!!」


 黒いものが離れようと蠢いたせいで、ミニスカートの中はそんな混乱状態だったのか。

 熊埜御堂さんが泣きそうな顔をしてお尻を振ると、ようやく黒いものは抜け出して、また逃げ出していく。

 そして、べそをかいた熊埜御堂さんだけが取り残されるという悲惨さだ。

 サイコパスな小悪魔だと思っていたけど、なんだか可愛らしい年相応なところもあるんだな。

 もっとも、本人はそんな慰めいらないだろうが。

 業を煮やしたレイさんが〈神腕〉を振るって、ソファーを叩き割った時、今度は黒いものが彼女の胸に貼りついた。

 大きさは人間の上半身ぐらい。

 ただ、毛むくじゃらの塊であの歪な腕が日本と頭らしいものがついているだけの、なんともいえない怪物だということがここでようやくわかった。

 しかし、まだ正体はわからない。

 いったい、なんなのだろう。

 

「くっくっく、掴まえたぜオラ!!」


 飛んで火にいる夏の虫とばかりに、レイさんは左右の〈神腕〉を用いて、がっしりと黒いものを絞めつけた。

 あんな毛むくじゃらで無気味なものをベアハッグできる彼女もたいした肝っ玉である。


『キィキィィィィ!!』


 怪物は呻いた。

 あれが声なのだろうか。

 まるで哀れな小動物のようであったが、見た目の不気味さがあまり同情を誘わない。

 レイさんはこのまま締め付けて落としてしまおうとさらに力を加えたとき、怪物の長い手が閃いた。

 爪をもった手が奇々怪々な動きをしたのだ。


 はらり


 レイさんの身体から何かが落ちた。

 それは布の切れ端だった。

 白いものと、黒いもの、残されたのはきめの細かいレイさんの肌。


「……えっ?」


 レイさんが思わず力を緩める。

 自分の身に起きた不幸な出来事について気がついたのだ。

 アームの部分を除いてシャツが切り裂かれ、残ったブラジャーも落下してしまったせいで上半身が裸になった自分の不幸に。

 なまくらで斬れそうではない爪の代わりに肘にあたる部分に、鋭く光る刃のようなものが突き出ていた。

 あれが触手のように伸びて切り裂いたのだ。

〈神腕〉から抜け出して、そのまま逃げだした怪物を追うこともなくレイさんは顕わになった胸を隠してそのまま蹲ってしまった。

 その際にこっちを慌てて見られたので、視線を逸らしたけど遅かっただろうなあ。

 あとでどう繕おう……

 さすがに僕は悪くないよなあ……


「見んな! 京一くん!!」


 もう遅いんだけどね。


「ダンカンコノヤロー!!!」


 わけのわからないキレ方をして熊埜御堂さんが怪物目掛けて突進した。

 怪物ごときにラッキースケベな辱めを受けたのが相当癇に障っているのだろう。

 ちびりそうなぐらいに恐ろしい夜叉の形相を浮かべていた。


「死ねや、こらあああああ!!」


 もみくちゃになって何故だか知らないけど同士撃ちしていた御子内さんと藍色さんも動く。

 レイさんは……涙目で座り込んでいる。

 マントを拾ってきた音子さんがそれを優しく掛けてあげていた。

 なんだか、もう収拾がつかないで終わりそうな気配になっていたが、怪物はまだ逃げ惑う。

 そして、怪物があるものの陰に隠れた。

 隠れたというよりも横合いから現われた人が背後に匿ったのだ。


「待ってくれよ」


 壁になったのはピエロだった。

 その格好をしているのは、この家のもう一人の住人である刹彌皐月さんしかいない。

 退魔巫女の一人である彼女がどういう訳か、怪物を背に庇ったのだ。


「どういうつもりですか、セクシー皐月先輩。てんちゃんは心の底から激怒しているんですけどー」

「ボクもちょっと見逃す気はないなあ」

「サッキー、あたし、人生でスカートめくりをされたのは初めてなのよね。絶対に許さないから」

「―――殺す。全殺す。邪魔をすれば羅漢でもオレは殺す」


 ……結果としてセクハラっぽいことをこの怪物にされたからか、怒り心頭に達している退魔巫女たちを止める術はなさそうだった。

 ヤバい血が上がっちゃっている。

 このままではマジで血を見ることになるかもしれない。

 皐月さんはどうするつもりなんだ。

 さっきから見せていたおかしな態度の原因がようやくわかろうという感じだった。


「ごめん、勘弁してやってくれないか。この怪物を見逃してやってほしいわけ」

「―――聞けるかと思うか?」

「同意」

「……殺す。ガチ殺す。仏が止めても仏ごと殺す」

「ねえ、その怪物はいったいなんなの。それだけでも説明してくれないかな」


 僕の言葉が通じたのか、皐月さんは怪物を背に庇ったまま言った。


「こいつは、ヴァネッサのところの〈ベッドの下の怪物〉なんだよ。わざわざアメリカからヴァネッサを追ってやってきた努力に免じて許してやってほしい」


 皐月さんが頭を下げた。

 みると、なんとヴァネッサさんも戸惑っているらしく、なんだか狼狽えている。

 あれ、これはもしかして……


「もしかして、皐月さんがそいつを連れてきたの?」

「そういう訳じゃないだけど、まあ、ヴァネッサの家にいたのを見逃していたのはうちなんで、ちょっと責任があると言えばあるんだけど。―――だからさ、頼むよ」


 いつもはお茶らけてセクハラエロトークばかりの皐月さんの真面目な懇願に、いきりたった退魔巫女たちも少しは落ち着くのであった……


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