ー第16試合 熊埜御堂てんの冒険ー
第109話「包帯と無貌」
深夜二十四時過ぎても、まだ人通りの途切れない、渋谷のD坂を一人の男が駆けていた。
いや、男と決めつけてもいいものだろうか。
なぜならば、その人物は真夏だというのに分厚い茶色のトレンチコートを着込んで、黒い鍔広のハットを被っていたからだ。
しかも、それだけではない。
夏に冬場の格好をしているだけならば、あり得ない存在というわけではないし、男女の区別をつけられない理由としては不十分だ。
渋谷の夜を脱兎のごとく駆けていく人物がまさしく異常なのは、その頭部をぎっしりと覆った白い包帯にあった。
顔はおろか、耳や後頭部まで完全に隙間なく包帯が巻かれ、さらに目の部分は薄いサングラスによって隠れされていた。
本来は露出しているはずの両手についても、腕までは包帯、手首から先は包帯という風に覆われていた。
少なくとも見た目だけでは男女の区別をはっきりとはつけられないのである。
とはいえ、身長は百八十センチを遥かに越しており、走る姿勢も肩から進むいかにも男性のものなので、この人物が男であるらしいという見当はつく。
しかし、深夜でもあり、夏休みに入った学生たちが遊びに、観光に、ショッピングに、恋にたむろする渋谷の街を全力疾走する姿は明らかにおかしい。
異様なのだ。
ただ、包帯の人物にとっては仕方のないことであった。
足を止めることができなかったのである。
周囲の目や疲れを気にして足を止めたりしたら、次の瞬間、自分の首筋を噛み裂かれてしまうだろう予感に縛られていたからだ。
立ち止まった瞬間、白い包帯が巻かれた首筋に、耳まで裂けた大口が牙を突き立ててきそうだったのである。
……ほんの数分前、包帯で顔を隠した如何にも正体不明といったこの人物はすれ違う人々の好奇の視線を受けながらも平然と渋谷の街を歩いていた。
その時までは誰にどんなぶしつけな視線を浴びせられようと、まったく気にはならなかった。
すでに慣れっこになってしまっていたからだ。
自分自身、包帯でグルグル巻きになった容貌がどれだけ目立つものなのかをよく理解していたのに、あえてその格好を選んでいるのだから、ある意味では自業自得なのであるが。
まさに我関せずという様子で、大都会東京の夜を悠然と歩いていたのだ。
だが、その耳に女のすすり泣く声が聞こえた。
思わず立ち止まってしまう。
周囲に漂う様々な喧騒に掻き消されることもなく、まるで直接耳元に吹き込まれたかのようにも感じたほどであった。
『何だ、何だ?』
包帯の人物は―――辺りを見渡した。
闇を輝かせるネオンや深夜まで開いている店から漂うBGMに紛れることなく、ある一点で視線が止まった。
道端の自動販売機の脇に、一人の女が座り込んでいた。
渋谷にはある意味で似つかわしくない白いワンピースを着た、黒く長い髪をもった若い女である。
アスファルトの上に何も敷かずに体育座りをして、じっと地面を見つめているようだった。
肩がすすり泣きの余波で震えている。
ずっと下を見ているため、艶とした色気のあるうなじと産毛が曝け出されていた。
『君、いったいどうしたんだね?』
やや海外の訛りのある日本語で、包帯の人物が問いかけた。
低く渋い中年の男性の声であることから、“彼”であったことがわかる。
しかも、そのアクセントからすると日本人ではなさそうだ。
もっとも、口ぶりには心底泣いている女を心配しているような気遣いが感じられた。
そこだけをとり上げてみれば、全身を包帯で隠していることこそ不審だが、まともな感性を持った人物であると思われる。
道端で俯いて泣いている女に下心なしで声をかけられるのは、いかにも外国人のようであった。
『何かあったのなら、力になるよ。警察……は呼んであげられないが』
優しく問いかけると、女の震えが止まった。
俯いたままであったが、包帯男の声は確かに彼女に届いてたようであった。
『―――お優しい方。どうして、こんなあたしに親切にしてくださるの?』
時代がかった物言いであったが、そこをおかしいと感じ取れなかったのはやはり外国人であったからだろうか。
包帯男は、座り込んだ女と視線が合わさるように片膝をついた。
それでも頭の位置は上下に差があるが、見下ろされることに対する威圧感は随分と緩和される。
泣くまで弱っているに違いない女を追い詰めないような自然な配慮であった。
『いえいえ、あなたがお困りのようだから声をかけたまでで。特に私が優しい男であるという訳ではありません』
『……そんな。あたしがここで泣いていたのは困っていたからではありませんのに』
『では、何か悲しいことがあったのですか?』
『いいえ、それも違います。あたしがここで泣いていたのはお腹が空いて動けなかったからなのです』
女の返事を聞いて、包帯男はこんなにも大勢の人が通り過ぎる街中で、飢えて動けないものがいるとは信じられなかった。
ここは日本だ。
世界でも指折りの金持ち国である。
借金大国などといわれているが、それは自国民に対する債務であり、他国の国債保有量は世界でもトップクラスの債権国だ。
自国民が飢えて死ぬことはほとんどない豊かな日本で、まさか……。
『そういうことならば、君のために何かを買ってきてあげよう』
『ありがとうございます。でも、結構です』
『なに、お金の心配はいらないよ。私が奢ってあげるから』
『そうではないのです。あたしが食べたいものをすぐにお金で買うことはできません。だからこそ、ここで泣いていたのです』
包帯男は首をかしげた。
女の言っていることが支離滅裂に聞こえたからだ。
この
それとも彼の故郷でもたびたび見掛けられるクスリの中毒患者かもしれない。
『泣いていると手に入るようなものなのかね?』
『ええ、そうです』
『とても気になるな。それはいったいどんな食べ物なんだい?』
すると、女の顔があがった。
白く透き通るような肌が見えた。
肌だけが。
『それはあなたです』
『……えっ?』
『あたしたちの泣き声はあなたのような異界の人々を引き留めますの。おかげで泣いているだけで、お金も使わずにご馳走が自分の足でやってくる』
包帯男は震えあがって飛び退った。
女の顔を正視できなかったからだ。
違う。
何もない女の顔を。
女には、眼も、眉も、鼻も、頬骨もなかった。
ただ耳まで裂けた口だけが、鋭く尖った鮫のような歯を湛えていた。
他にはなんにもなかった。
包帯男は恥も外聞もなく叫んだ。
あるべきものがないことは、人に多大なストレスを与えるのである。
それは包帯男のような一般人の枠から外れていそうなものについても同様であった。
彼は恐怖に駆られて走り出す。
だが、その耳には女の発した台詞がこびりついたまま離れない。
女はさっきのすすり泣きのように、直接耳孔に響くような声で、
『逃げても無駄よ、あたしのご馳走さん。あたしたちはもうあなたの前にも後ろにも潜んでいるのよ』
女の台詞は事実だった。
逃げ切ったと思って、包帯男が荒い息を吐いて、軽トラックを改造したクレープ屋台に寄りかかっていると、
『どうしました? 何か事件でもありましたか?』
と、クレープを焼いていた若い店員らしいものが、奥から声をかけてきた。
包帯男は安全な場所まで来れたのかと安堵し、普段ならださない大声で応えた。
『か、顔のない女が襲ってきたんだ! 嘘じゃない! 事実だ! あれは、あれは、一体何なんだ!?』
『顔がない女ですって? 見間違いじゃないんですか? のっぺらぼうじゃああるまいし……』
その単語には聞き覚えがあった。
この国に来る前に使ったテキストにあった名前だ。
確か、ラフカディオ・ハーンの著作に……「
『そうだ! そのヌペラボオだ! そいつに違いない!』
すると、クレープを焼いていた店員が窓から顔を出した。
『その〈のっぺらぼう〉つてのは、こんな顔じゃなかったんですか?』
包帯男は再び絶叫した。
覗かせた顔には、またも目も鼻もなかった。
それどころか今度は口さえもついていなかった。
恐ろしい地獄の底にあ異界に迷い込んだかのような気がした。
まさに悪夢だった。
包帯男は逃げた。
逃げた。
逃げ続けた。
完全にどころか、本当に逃げることができるのかと疑問に感じても、足は止まらない。
そして、逃亡を許さないぐらいに脚が疲れ切り動けなくなった段階で、彼はぶっ倒れた。
着ているトレンチコートの暑さに耐えきれなくなったせいもある。
やはり包帯で全身を覆っていることはマイナスでしかなかった。
着用しなくてはならない事情があったとしても、真夏日には自殺行為でしかなかったのである。
脱水症状寸前で、ほとんど熱射病にでもかかったかのごとく朦朧とした状態で、民家の壁に寄りかかっていた彼に、またも声が掛かった。
すわ、さっきのヌペラボオか、と薄れそうな意識の中で身構えたと彼に呼びかけたのは、比べ物にならないぐらいお気楽そうな女の子だった。
「ようやっと見つけましたですよー。これでてんちゃんもようやく退魔巫女見習いの蔑称から解放されるですぅー。やったー」
包帯男の目の前に現れたのは、おだんごのツイン・ミニョンという子供っぽい髪型と緋袴をミニスカのように折って捲った巫女装束の女の子だった。
剥き出しの素足の太ももと白いニーソックスというのもおかしかったが、履いているエアマックスもサイズに見合わないブカブカさ加減であった。
深夜の渋谷には相応しくない服装とテンションのまま現われた巫女は、名を
とある巫女姿のレスラーの後輩にあたる退魔巫女見習いであった……。
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