第108話「その猫はスポットライトを見て笑っていた」
藍色さんは再びライト・アップ・スタイルに戻っていた。
対する御子内さんもいつもの構えだ。
ただし、やや内腿を絞めて、ボクシング的フットワークでもできそうだ。
きっと御子内さんにもできるんだろうが、今更、研ぎ澄まされたボクサーに通用するとは思えない。
場内は異常な静けさに包まれている。
熱気は消えていない。
すべての観客が固唾をのんで見守っているからだ。
これまでの戦いで、みんながわかっていた。
ここで繰り広げられているのはただの異種格闘戦ではなく、怪物と化け物による
「……まったく、ボクシングというのは恐ろしすぎるね。よくわかったよ」
「私は昔からそう言っています」
「でも、さっきのはボクシングの技じゃないだろ。とんでもないのは藍色だけという可能性もある」
「じゃあ、最期ぐらいは私もボクサーに徹しましょう。それで或子さんは納得してくれるのですね」
「へえ、大きく出たね。そういうことなら、ボクもとっておきのボクシング技を披露しようか。同僚の退魔巫女相手ぐらいにしか使えない技だけどさ」
と、御子内さんが訝しいことを言う。
さっきまでの二ラウンドにおいて彼女が見せてきたのは、どれもいつもの変則的でありながら磨き抜かれた技ばかりだった。
だが、その中にはボクシングのテクニックらしきものはない。
アタックもディフェンスも足運びも、どれもボクシング由来と思えるものは使ってないのだ。
彼女の格闘のセンスならばできないとは思えないけど、さっきも考えたように付け焼刃では藍色さんには絶対に通じはしない。
考えられるとすれば、ブラフかハッタリだが、そんなものが効果のある相手だとはとても思えないし。
御子内さんはそんな搦め手を使う性格でもない。
「わかりました。最後の決着をつけましょうかにゃ」
藍色さんものっかった。
なんだかんだ言って、退魔巫女は挑発に乗りやすいのだろう。
あの神社で会話を交わした女の子とは到底同一人物には思えない闘気を放ちながら。
「いくよ」
御子内さんのオーソドックスな左ジャブに会場がどよめいた。
目の肥えた観客ばかりだけあって、御子内さんの技術がかなり高いことを悟ったのだろう。
もちろん、藍色さんに比べれば稚拙だが、素人の物まねのレベルではない動きだ。
同じボクシングスタイルで反撃に出た藍色さんとまさに一進一退の攻防が始まる。
風を切るジャブ。
トドメを狙うストレート。
リズムを破壊するフック。
上下に打ち分け、左右に小刻みに追い込む。
肩でのブロッキング。
のけ反るスウェー。
相手のパンチをはらうパーリング。
どれもが凄い。
すべてが速い。
体力が足りない女の子のボクシングとは思えぬ、競技の魅力のすべてがぎっしりと詰まった素晴らしい攻防であった。
やはり畑違いの御子内さんが疲れたのか、相手に抱き付くクリンチに逃げたこともあるが、それもすぐに引き離されて大して休息にもならなかった。
クリンチはボクサーの唯一の親友とも言われるほどに試合中に息をつける瞬間なのだが、藍色さんはそれをやらせない。
さすがにボクサーは倒しどころをよく見極めている。
御子内さんが疲れ切っている今こそ絶好のチャンスなのだ。
ブレークされた御子内さんがステップバックにもたついた刹那、紫電のように藍色さんが動いた。
裂帛の気合いとともに放たれる必殺のストレート。
しかも、捻りが加えられたコークスクリューブローであった。
まともに食らえば、いかに巫女レスラーとてリングに沈む。
だが、ほぼ同時にタイミングを合わせたかのように御子内さんも突貫していた。
もたついたのは演技―――囮であった。
彼女が狙っていたのはカウンターだったのだ。
いや、それも違っていた。
左ストレートを顔面に受けた御子内さんとは対照的に、藍色さんにまで迎撃の拳は届いていなかった。
拳の先は藍色さんの腹部に辛うじて当たる程度。
リーチの差が逆転の芽を摘んでしまっていたのだ。
顔面に一撃を受けたせいで足元までふらつく御子内さん。
今度こそ演技ではない。
ダメージが顔から全身へと響いていくのがわかる。
ああ、だめだ。
今度倒れたら、絶対にもう立ち上がれないだろう。
いかに万夫不当、常勝無敗の巫女レスラーといえども、このまま撃沈される運命からは逃れられない。
しかも、追い打ちをかけるように藍色さんが腰をかがめた。
あの体勢から撃ち込まれるパンチは一つ。
地上から宇宙へと向けて上昇気流とともに競りあがっていく渾身の必殺ブロー―――アッパーカットしかありえない。
ジェットの力で顎を下から打ち貫くアッパーは確実に御子内さんを敗北へと叩き込むだろう。
危ない、巫女レスラー!
避けるんだ、御子内さん!
「おおおおお!?」
観客全員がどよめいた。
なんと、ジェットアッパーを放つ寸前、藍色さんの脚がもつれたのだ。
いや、もつれたというよりも、まるで下半身の神経が麻痺したかのように止まってしまったのであった。
疲労とダメージが足にキていたのか?
それにしては不自然な硬直だった。
アッパーを打つための踏み込みすらできない状態になっていたのだ。
しかし、それはほんの一瞬。
その場にいた全員が事態を完全に認識し終えたときには、藍色さん目掛けて膝をつきながらも右の拳を振り上げる御子内さんがいた。
上半身は動かせるのか、逆に放たれたアッパーはかろうじて藍色さんの顎をかすめただけで済んだ。
「あっ!」
だが、ボクシングを知っているものならみんな理解している。
顎をあの勢いで打たれたら、梃子の原理で脳がシェイクされて立てなくなるということを。
その理屈は藍色さんにおいてさえも例外ではなかった。
猫耳藍色は尻もちをついて倒れた。
そのまま、どんなに頑張っても立ち上がることができない。
御子内さんの最後の片膝立ちのままのアッパーが決着をつけたのである。
「御子内さん!」
同時に御子内さんもリングに横になっていた。
最後の苦し紛れの攻撃が当たっただけで、彼女に蓄積したダメージも限界を超えたのだ。
二人の退魔巫女はほぼ同時に倒れ、カウント10が告げられる。
どちらも立てないのであれば、これは引き分けということなのだろう。
あえてルールを覆すほどの劇的な死闘だったということか。
「両者、引き分け!」
判定がない以上、ともに立てなくなれば終了するしかない。
殺し合いではないのだから、妥当な落としどころともいえる。
こうして、御子内さんと藍色さんの戦いは決着つかず、ドローということになったのであった。
すると、僕の隣で聞き慣れた声がした。
「龍極破からの雷神拳かよ。或子にしちゃあ、エグイ技を使ったもんだ」
「ノ。 アイちゃん相手なら仕方ない」
「それもそうか」
会場の封鎖を任されていた二人の退魔巫女―――レイさんと音子さんだった。
なんだかんだ言って、試合を観戦していたようだ。
「今、何があったかわかるんですか?」
と聞いてみると、レイさんが答えてくれた。
「或子が最後に出したカウンターのパンチ、外れたように見えただろ」
「ええ。藍色さんの腰に当たったみたいに見えました」
「あれ、外したわけじゃねえ。最初から狙っていたんだ、あそこを。……あそこらへんには人間の神経の一部を麻痺させる点穴があるんだ。〈龍極〉ってんだけど、そこを正確に打つと下半身が一瞬だけ麻痺る。もともと一瞬だけで、数秒あれば回復する程度なんだが、麻痺っているときに無理に動くとさらに数秒は下半身が動かなくなるんだ。藍色は勝負を決めるためにアッパーを出そうとしたせいで、動けなくなったという訳さ」
まさか、あの状況でそんなものを御子内さんは狙っていたのか。
「その下半身を麻痺させる技が龍極波だ。で、麻痺した相手を仕留めるアッパーまでを含めて、雷神拳という」
「でも、御子内さんはとっておきのボクシング技だって……」
レイさんは豪快に笑って、
「ボクシングの技ではあるんだぜ。日本のボクシング界に昔から影の道として伝わっている流派があってな。そこの必殺技なんだ。とはいえ、表の世界のボクサーはまず知らないし、知っていても使わない。邪道みたいなもんだからな。まあ、退魔巫女でも使うのは或子ぐらいなものだろうけどさ」
なるほど、外連が強すぎる技だけど、御子内さんは嘘をついていた訳ではないのか。
「妖怪には人間みたいな点穴はないし、使い勝手が悪いから誰も学ばないだけという可能性もあるけどよ」
しかし、そんな技を使っても相討ちに持ち込むのが精いっぱいだったとは……。
藍色さんは本当に強いんだな。
「アルっちは、猫パンチと衝撃波といい左を喰らわなければ勝ててたと思うよ」
「いくら藍色を本気にさせるためとはいえ、身体張りすぎだよな、あのバカ」
「シィ。ホントにバカ」
こうやって友達は毒づくけど、リングの上で天井のスポットライトを見上げる御子内さんの横顔は満足気だった。
そして、それと同じぐらい楽しそうな顔をした藍色さんがいた。
きっと彼女は過去の苦い敗戦の記憶を乗り越えたに違いない。
リングの上にいるというのに、神社で会ったときみたいな穏やかで眠そうな猫の顔をしていたのだから……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます