第654話「一撃の味」
身体がぐんとひきずられる。
通路に張っていた水が一気に抜けていくからだ。
一応、備えてはいたが、水の勢いという奴はかなりのものがあるので、僕は耐えるだけで精一杯だった。
必死に握りしめていた手すりがなければそのまま外に流されて行ってしまっただろう。
だが、僕よりも悲惨な状況だったのはやはり
水洗トイレの中の汚物のようにざぱぁっと非常口に流されていく。
足首に巻き付いたワイヤーが引き留めているので、なんというか哀れな感じだ。
洗濯機の中の汚れものみたいに回転している。
水が抜けたのは一分後ぐらいで、その時には僕はもう動けるようになっていた。
動く死体は哀れに非常口にもたれかかってぴくぴくと震えていた。
死んでいてもわりと過酷なだったのだろう。
相手をしている暇もないので、僕はそのままそっと抜き足差し足忍び足で通路をすり抜けた。
ホラー映画のように動かなくなったはずのモンスターが急に襲ってくるかもという予感が外れてちょっとだけほっとしていた。
出口となる階段を降りると、待望の下層Xブロックに辿り着いた。
意外と電球が生き残っていて明るい。
むしろ、上部に比べても見通しがいい。
そういえば上では殺し合いが凄まじすぎて通気口から何からすべて銃弾でハチの巣になっていたし、照明もほぼ破壊されつくしていた。
枷を外された化け物たちによる殺戮の宴だったのだ。
半日以上遅れた僕はピークではなかったこともあり、鬼たちのカラバの真っ最中に入りこまなかったおかげで生き残れたというのがあるのだろう。
焼け焦げて溶けた柱。
無残に裂けた消火器。
何が落ちればこんなに凹むかわからない鉛の床。
ここは戦場なんてものではない、事実上の魔界だったのだ。
僕の知る最強の女の子たちでさえ、まともに正面から踏み入ればすぐに終わるかもしれない。
まさに人知を超えた魔境そのものなのだ。
「水に浸かったゾンビ一匹排除できない僕に何ができるかって話なんだけどね」
ま、使い捨てにするには僕ぐらいが適任か。
さっきのようにわざと音を立ててみたが、下層を支配する〈深きもの〉どもはでてこない。
こっちからは来ないと高を括っているのだろうか。
だが、それなら好都合。
もう少し下に行かせてもらおう。
僕はもう一階下へと向かった。
表示的にはB1ということになるエリアからが本番だ。
ここは〈深きもの〉どもの居住区。
ララさんたちの調査でも深くは探れなかった部位だ。
「……」
さっきまでと違い、もっと戦いの音がしない。
無音すぎるのだ。
今までとは一つグレードがあがった感がある。
囮の音なんかでは誤魔化せない何かが潜んでいるのだろう。
でも、最下層まであと二つ階段を下らないとならない。
僕の目指すキングストン弁はそこにある。
周囲を見渡してみた。
身体を潜められそうな場所は幾つかある。
少し落ち着きたくなった。
眼の前ではなく少し離れた扉のノブをそっと捻った。
鍵はかかっていない。
中に化け物がいる可能性はあるけれど、そのときはその時だ。
僕は静かに中に入った。
『ぐうぅ……』
呻き声がした。
けど、そちらは向かない。
〈社務所〉の退魔巫女たちと潜った修羅場の数が教えてくれるのだ。
これは怪我人の呻き声だと。
だとすると、むしろ逆の方に危険がある。
ある意味で僕のなした囮作戦と同じものだ。
そして、案の定、そこには座り込んだ〈深きもの〉がいた。
姿勢的には疲れ切って一休みしているという風にみえる。
壁に寄りかかってだらしなく足を伸ばして寛いでいるようだ。
ぶっさいくなヒラメ顔が口を開けて寝こけていた。
反対側の呻き声は死にそうな荒い呼吸を続ける眼の白いヨグソトト教団の魔術師。
どうやら、戦いの後のようだ。
勝利を確信した後で魚ヅラは疲労で眠ってしまったのだろう。
いかに化け物でも暴動が始まってだいぶ時間が経っているから、相当の疲れがきているとみえた。
眼前の敵を倒してすぐに休息しなければもたないぐらいなのか。
もしかしたらヤバすぎる場所に潜り込んでしまったかもしれない。
仕方なく僕は〈深きもの〉の様子を見るためにこっそりと近づいた。
その瞬間、瞼がないはずの魚類モドキのくせに眼をつむっていた〈深きもの〉が開眼した。
こちらを視界にとらえる。
―――瞬間、僕は手にした木剣でそいつのエラを貫いた。
殺そうなんて欠片も思っていない。
でも、僕の中の小動物の弱さが敵を殺せと命じたのだ。
このとき、僕は初めて自分の手で生き物を殺したのかもしれない。
幼児の頃にアリやバッタを踏みつぶしたことは覚えていなくても、僕はたった今の手の震えのことを忘れないだろう。
同じ命であったとしても、質量に差があるとしても、僕のやっていることは殺しだ。
(ああ……僕もそちら側だ)
頑なに拒んでいたものを受け入れる時が来たのだ。
「僕はもう普通じゃないんだよ」
それはいつからか。
たった今なんてことはない。
残念なことに僕は随分と前から薄々勘付いていたのだ。
死に対して先駆する自分を。
御子内さんに憧れたのはきっと正反対の存在だからだろう。
彼女は生に対して先駆する。
生きようと足掻いた結果生き残って衆生を救う。
僕は逆だ。
死に向かって突き進み死を越えようとして自分と周囲だけを生き残らせる。
ほんの少ししか違わないのに大分異なる。
でも、イカれているのは実は御子内さんの方だ。
僕の方が感覚的には普通のはず。
ただの人間には彼女の真似はできない。
だからこそ、彼女たちは神聖なのだ。
神が宿り、聖者が顕れるほどに。
僕たちただの生き汚い定命の人間とは違う。
「……じゃあ、どうしてここにいるのかな」
簡単だ。
ナザレの大工の息子は処刑されて人の原罪を背負ったが、それは聖人だからだ。
天草四郎も聖人だから殺されなければならなかった。
かつて、神聖なるものはそうやって一度は土に塗れ汚されてきた。
聖なるものの歴史とはそいうものだ。
では、今の時代はどうだろうか。
聖なるものが大事にされて行くことが確定しているのだろうか。
決してそんなことはない。
汚されて貶められるのは聖なるものの宿命だ。
そして、現代の聖なるものは……
「僕でもいいけど誰かが運命ってやつを出し抜かないと、あの娘たちが不幸になってしまうから」
御子内さん、音子さん、レイさん、藍色さん、皐月さん、そしててんちゃんが生贄にされるような世の中にしてたまるものかってんだ。
例え、僕がクソみたいな奴に成り下がっても、それだけはさせない。
―――させてたまるものか。
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