第655話「彼方からの通信」
『うう……』
もうほとんど動けない重体の魔術師が上半身を起こした。
〈深きもの〉を仕留めたばかりの僕はさすがに動けず、魔術師の虹彩のない目と目があってしまう。
気絶から覚めたばかりでぼうっとしていたのは一瞬で、すぐに落ちていた魔導書を拾いあげ、僕に備える。
大した動きの良さだった。
思った以上に鍛えられているのかもしれない。
ただ、魔導書で不思議な魔術を使うだけでなく、戦いというものを叩き込まれているようだ。
だから、たぶん見たことのない僕を認識した途端、敵だと看做したのだろう。
この〈ハイパーボリア〉が殺し合いのサラダボウルと化していた以上、目についたものはすべて攻撃するのもありえない反応ではない。
どう見ても〈深きもの〉を殺害したばかりの僕を味方とは考えないのはそういうことだ。
もっとも僕からするとかなりのピンチだ。
ヨグソトト教団の魔術師のすることはわからないからである。
何か想定外の行動を起こされたら僕では敵わない。
「待っ、待った!! お、おれも魔術師だ!!」
上ずりながらもなんとか声を出した。
桃の木剣は手放して、手をあげる。
この程度で躊躇うとは思わないが、大袈裟にやることで意表を突くことができるはずだ。
「証拠もある!! それを見てからにしてくれ!!」
『ナ、nダ、ソレは……』
「カバンの中だ!! そこの水路を泳いできたからしまっておいたんだ!! そうすればおれが神の使徒だということもわかるだろう!! こんな場所で同士討ちするのはバカらしいだろ!?」
爛れた蝋細工の悪魔みたいな顔をした魔術師は沈黙した。
しめた。
意外と理性的だ。
思考形態は邪悪なようだが、ここが戦場であることを忘れずにどうすべきかを模索できるようである。
まあ、この顔だってきっと邪神に仕えるための魔術を覚えた代償として崩れたものだろう。
脳みその爛れ具合とよくマッチしていると思うよ。
『……オマエが我らの仲間ダトイウノカ。知らん顔ダ』
「そりゃあそうだ。おれは後詰めなんだよ。あんたたちが蜂起したときを見計らって突入するために待機していたんだ!! この基地で機会をうかがっていたあんたたちとは顔見せもしていない」
よく、こんなにすらすらと嘘が出る。
自分でいうのもなんだけどたいしたペテン師だと思う。
『ものハ?』
「魔導書だ!! おれは戦闘支援のために来たが、当然、魔導書はもらっている!!」
そんな制度があるとは知らなかったが、ここにいるヨグソトト教団の魔術師はみんな本を持っていたのでおそらく必須なのだろう。
だから、それを見せれば、なんとか……
『見せてミロ』
「もちろんだ!! ちょっと待て……」
興奮させないように上げていた手をゆっくりと下ろしてカバンに手を掛けた。
さらにゆっくりとカバンの蓋を開く。
ドリルシップから移る時の魔術の手から拾っておいて助かったかもしれない。
なんのための行動だったか自分でもわからなかったが、案外予感がしていたのかもしれない。
そっとビニールの中にしまっておいた魔導書を取り出す。
裏表紙を見せる。
『近づけろ。暗すぎて何モ見えn』
「わかった。これだ」
『見えん』
「パス」
『なに?』
軽く弧を描く要領で、僕は魔導書を投げた。
まさか投げられるとは思っていなかったのだろう。
ゆるやかに飛んでくる魔導書をやはり
だから、僕が下手に放ったフラッシュ・グレネードに注意を向けるのが遅れる。
それから眼を閉じて顔を伏せる。
直視さえしなければ害はない。
カッ!!
ほとんど無音で破裂した非致死性手榴弾は、10mの範囲で100万カンデラ以上の閃光を放つ。
しかも、こんなほとんど明るいところのない海上基地のB1部分だ。
多少の光だけでとてつもない威力を発する。
さっきのサメに対したものよりもずっと効果的だったろう。
失明しかねない眼の眩みを引き起こすだけでなく、脳にまで悪影響を与え神経をマヒさせる武器なのだ。
投げられた魔導書に気をとられていたせいでまともに目撃してしまった魔術師は、眼を押さえたまま音にならない叫び声をあげつつ、扉に寄りかかると、そのまま転がり出てしまった。
鍵をかけていないから当然だ。
そんなことをして目立つことは敵を招き寄せ殺されることになるとしても、失明せんばかりの眼の痛みに襲われているものには意味のないことだろう。
『あががああああ!!!!――― イア、イア、ヨグソトト!!』
痛みに耐えきれなかったのか、魔術師が言ってはならぬ名前を唱えた気がした。
ドン
ドン ドン
視神経の麻痺の影響でまともに立つこともできない魔術師の叫びはやはりヤバイ何かを呼んでしまったのかもしれない。
外の嵐によるものや〈ハイパーボリア〉の施設の何かが落下したものとは違う震動を感じた。
しかも、感触からして、その音は外からしたのだ。
嵐のせいもあり、上部一階部分でさえ水に浸かっていたのだから、このX-Cブロックもほとんど海の中のはず。
その外から何かが頑丈な〈ハイパーボリア〉のどこかの外壁を殴りつけているのだ。
しまった。
さっきオスプレイの中で見た巨大な海魔に違いない。
あいつが〈ハイパーボリア〉を壊そうとしているのか。
確かに、あいつは〈深きもの〉ども、C教徒の味方だろう。
何か意図があってか、それとももうやけくそ気味になっているのかわからないが、とにかくあの巨大な影が〈ハイパーボリア〉に取りついているとなると、この巨大な施設もそう長くはもたないかも知れない。
(上は火事、下は怪獣、中は水浸し―――それはなーんだ)
……答えは四面楚歌の大ピンチ。
まだまだ最深部は遠いってのに。
そのとき、ポケットに吊るしてあった通信機がバイブレーションを起こした。
ララさんからだろうか。
でも、こんな海の中に入り込んだ場所でこんな小さな通信機が機能するものだろうか。
「もしもし、升麻です」
〔順調なようじゃないですか。まったくもって想定外だというのに、予想通りというのはなかなかに不思議な経過です〕
「……孟賀捻」
名前も顔も忘れるはずがない。
〈顔のない黒い狗〉というショップを経営するデスマスク職人の浅黒い肌をした美青年だ。
織田家のデスマスクが関わる事件に唐突に現われて、唐突に消えていった謎の人物。
ただ、もう正体はわかっている。
「ずっと僕をつけまわしていましたよね。で、今度はこんなところにまで電話ですか。どうやっているかはわかりませんが、ストーキングにも程があると思いませんか。ストーカー法で訴えますよ」
〔失礼ですねえ。私は別に好意があって君に付き纏っている訳ではないので、適用はされませんよ。あの法律には好意の有無が構成要件とされていますからね〕
「法律論はどうでもいいんです。僕もちょっと暇ではないんで。―――単刀直入に二つほど聞きます」
〔どうぞ〕
「―――孟賀捻、あなたはララさんたち〈社務所・外宮〉と組んでますよね」
〔ええ。同盟の内容までは秘密ですが〕
興がのったらペラペラと喋りだしそうだけど。
「……で、あなたの仕える神様ってのはなんですか。僕をここに連れてこさせるのにわりと影で動いていたみたいですけど」
〔ほお、やはり気が付きますか〕
「わかりますよ。この〈銀の鍵〉だってあなたの仕業でしょう? 僕になにをさせたいんですか?」
〔特に、何も。しいて言うのならば、君がどういう道を選ぶか知れないのでお守り代わりに用意したというだけです。他意はありませんよ〕
しらじらしいなあ。
ここまで暗躍しておいて何も狙いがないなんてあり得るはずがない。
胡散臭いったらありゃしない。
「―――クトゥルーですか? ヨグソトトですか? あなたの神は?」
もう面倒くさいのではっきりと聞いてみた。
この〈ハイパーボリア〉での企みをうまくいけば調子に乗って暴露してくれるかもしれない。
〔残念です。私はそちらの二柱のことなど気にも留めていません。私の主人たちはもっと深いのです。―――空に、深い〕
はぐらかされた。
というか、言えない感じだ。
言ったらペナルティーがあるという含みをこめている。
「じゃあ、いいです」
〔いいんですか? 好奇心、ないんですか?〕
「ほっといてください。とりあえず、もう一つだけ。外で暴れているのはなんですか? それだけでいいです」
すると、孟賀捻は言った。
〔ダゴンですよ。ついでにいうと暴れている訳ではありません。戦っているのです〕
戦っている?
「何と?」
〔さあ。クトゥルーの眷属中で並外れて巨大なダゴンと戦えるなんて、やはりそれ相応の化け物なのでしょうが〕
「―――ダゴンってあの海魔ですよね」
あんなものと互角にやりあえるものがまだいるということか。
ただ、ダゴンの目的がこの〈ハイパーボリア〉のやけくそ的な破壊でないというのならばまだ余裕はある。
一刻も早く最深部に行けばいいだけだ。
〔では、只人の少年よ。よしなに〕
「あなたって最悪だ」
クスクスと嘲笑のような声をだして孟賀捻は通信を切った。
「まったく、僕をイラッとさせるなんて厭な奴もいるもんだ」
どん。
また上で音がした。
ダゴンの戦いの音だ。
あれが聞こえているうちに片を付けないと。
僕は再びこの暗黒のダンジョン探索に動き始めた……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます