第656話「あいつがやってきた」



 軍荼利明王を顕現させた〈五娘明王〉熊埜御堂てんによる操船による回避は神業的なものがあったが、同じ手は何度も通じない。

 三度目の切り返しの時、呪術船〈山王丸〉の縁を海魔に掴まれてしまった。

 手のサイズからすると身長は十五メートル前後。

 小柄な或子たちならば掌に納まってしまう大きさであった。

 強引にしがみついた〈山王丸〉を止めようとする。


「させませんよー!!」


 てんが自分の神通力を注ぎまくって、ほとんど手足同然となっている安宅船を斜めに傾かせた。

 力をかけてきた方向にそって傾けることでバランスを崩させたのである。

 海魔のひっかけていた船の縁にひっかけていた指が外れた。

 だが、相手の執念もさるもので無理矢理に反対側の腕を伸ばして再び船体にしがみつく。


「てん、もうすぐだ!!」

「了解でーす!!」


 或子は舳先の方を見た。

 巨大な、とても海の上に浮かんでいるとは思えないもの施設がある。

 もうすぐあそこに辿り着けるというのに、こんなところで邪魔をされてたまるものか。

 しかし、嵐の中、激しい風雨に吹き飛ばされないようにするのが精いっぱいという状態であった。

 邪神の一角さえも崩したさすがの巫女レスラーも本来の自然の驚異には抵抗できないというところか。

 海中から襲ってくる巨大な怪物に一矢さえ報いそうにない。

 頼りになるのは船長として、呪術船に同調シンクロしているてんのみだ。

 自分が何もできない立場というのは或子にとっては苦痛以外のなにものでもないが、ここは堪えるしかない。

 常に自分たちが戦える舞台がある訳ではなく、耐えるべき時は耐えなければならないのはわかりきっていた。

 今は頼りになる後輩にすべてを任せるしかない。


「或子先輩!! をあの〈ハイパーボリア〉にぶつけますので、衝撃で振り落とされないようにしてください!!」

「こいつをか!?」


 それ以上、てんは言わず、舳先部分に立ったまま〈山王丸〉の針路を睨み続けていた。

 彼女は今タイミングを計っているのだ。

 自分たちが生き残るためではなく、御子内或子をあの場所に送り届けるためだけに。


「いっけえええええ、〈山王丸〉!! ここでカッコよく決めちゃって世界を護るんですよー!!」


 安宅船がまっすぐではなく斜めに海上採掘基地〈ハイパーボリア〉に向かう。

 強い波の影響でそうでなければ目的地からずれてしまうのである。

 バリっと〈山王丸〉の甲板に巨大な鋭い爪が突き刺さった。

 とっかかりができたことで、海の中に潜んでいた怪物が上体を起こす。

 顔が出現する。

〈深きもの〉と似てはいるが、それよりはっきりとした魚類そのものだった。

 特に似ているのは鯛だ。

 この海魔はひしゃげた巨大な鯛のような顔と、神話に語られる神のような美しい筋肉を持っている。

 妖魅のもつ独特の黄色い瞳で船上の或子を見下ろした。

 ただの人間であったのならばあまりの格の差に震えることもできず魂を抜き取られるような絶対的な力の違いがあった。

 これが、神とヒトの圧倒的な差なのだ。

 なのに、決して怯まないものがいた。

 すべての生き物が平伏す神と呼ばれる存在に意の力で対抗するものがいた。

 本来ならば嵩にかかって人間の作った船など破壊するだろう海魔がその大槌のような腕を振り回しもせず、一点を見つめていた。

 いや、一人を見ていた。

 奇妙な沈黙が落ちる。

 人と神の視線がぶつかりあう。

 日本人の女の子の中でも小柄な肉体が何十倍もの大きさの巨神と真っ向から睨みあっていた。

 地獄の業火だろうと最果ての極寒だろうと、その闘志のまえには障害にもならない。

 御子内或子と邪神の邂逅を邪魔することはできないのだ。

 

「―――レイの報告にあったものと同じだな。つまりは、ボクでも斃せる程度だということだ」


 この考えることもばからしい体格差を前にしても、御子内或子は不敵な台詞を吐く。

 意味は単純だ。

 今まで何度も勝ち越している明王殿レイに負けたことのある邪神の眷属だったらどうということもない。

 そう言いたいのだ。

 だから、自信満々なのである。

 親友の強さを十分承知しているということもあるのだろうが。

 ゆえにこの追い詰められた状況においても、彼女は揺るがない。

 戦えば勝てると確信しているから。

 そして、この睨みあいの間の数秒の対峙が戦いの帰趨を変えた。


「或子先輩!! 〈重気功〉してくださいーい!!」


〈重気功〉はあまり使われない技術で、みずからの体重を増やすかのように〈気〉を丹田に溜めることで重さをあげるものである。

 てんの言うがままに丹田に〈気〉を沈める。

 その結果、或子の躰は石のように安宅船の甲板にめりこむ。

 ドドドドドと雪崩のような音を立てて〈山王丸〉が波を滑る。

 ブリザードの中を滑空するスキーヤーのようなターン。

 アメリカンズカップにでる帆船ならばともかく何十石の重さの和船ができるはずもない異常な挙動をみせて〈山王丸〉は〈ハイパーボリア〉に近づく。

 しがみついている海魔ですら剥がされないように力を籠めなければ吹き飛ばされていたかもしれない。

 ただ、それが仇となる。

〈山王丸〉の急速旋回に貼りついていたため、身動き取れない海魔はなんとそのまま船と〈ハイパーボリア〉の間に挟まれて甚大なダメージを受けた。

 木製とはいえ何百トンの質量をまともに食らえば異界の肉と骨といえども軋み断裂する。


 GYヰヰ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀!!!


 海魔は呪いのごとき苦鳴をあげた。

 いかに邪神でも肉の躰がある以上痛みはあるのだ。

 

「てん、あとは好きにしていい!!」

「京一先輩をよろしくお願いしますねー!!」

「―――馬鹿をいうな」


 或子は船の外に飛び上がった。

 どんな跳躍力があろうと、空を飛べぬ人間では真っ逆さまに海へ一直線だ。

 だが、或子の途轍もない身体能力はそんなことは歯牙にもかけぬ。

 なんと海魔の狭い額を足場にしてもう一度跳ね上がったのだ。

 足場にすると同時に、牛の首の骨すら破壊する蹴りの一撃を加え、海魔にダメージを与えつつ、さらに舞う。

 その姿はまさに聖女。

 荒れ狂う嵐でさえ、御子内或子にとってはただの舞台装置に過ぎない。

 

「でりゃああああああ!!」


 間一髪で〈ハイパーボリア〉の端に手をかけて、身体を持ち上げると、縦に回転をしてありえない上陸を果たす。

 ついさっきまで妖魅から採れた毒で苦しんでいたとは思えぬ動きのキレであった。

 だが、彼女にとってはそれほど特別なことではなかった。

 大切なのはただ一つ。


「―――来たぞ。ボクは」


 この場に彼女がいることなのだ。


「辿り着いたぞ、升麻京一!! ボクをおいてけぼりにして好き勝手しようなんて十年早い!! 追いかけっこでボクに勝とうというのは百年早い!! キミがボクに内緒で何かをしようなんて千年早い!!」


 或子は拳と掌を打ち鳴らした。


「この御子内或子が、キミとついでにここにいる邪神バカモノどもの性根を根っこから叩きのめしてやるから、覚悟するがいい!!」


 この〈ハイパーボリア〉のどこかにであろう相棒に聞こえようと聞こえまいと、これは或子の譲れない宣言であった。

 勝手をしでかした馬鹿な男の子を叱りに来たついでに、善くないやつらをぶちのめそうというのが彼女の今回の行動理由である。

 そして、その理由こそが―――邪なる超越者たちにとっての断罪のこぶしと化すのである。




 聞け、数多の悪漢・怪物ども。

 聖なる正義の白き巫女がやってきたぞ。

 弱きものを蹂躙し、綺麗なものを穢すだけの幼稚な振る舞いをするおまえたちをぶっとばして叩きのめす強きものがここにきたぞ。

 騒々しくも華やかで、おまえたちには決して負けない女の子が。


 殺戮の宴は終わりだ。


 凌辱の遊戯は終わりだ。


 なぜならば―――



 ―――御子内或子がついにやってきたのだから。 



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