第295話「魔導書〈春と修羅〉」

 組み伏せたハンチングの男へ一撃を加えようとした瞬間、或子は襟元を引っ張られて、強引に剥がされた。


「なっ!!」


 この強引なまでの膂力をもつものには覚えがある。

 明王殿レイの〈神腕〉だ。

 彼女が無理矢理に或子を引き剥がしたのだ。

 だが、その理由もすぐにわかった。

 彼女がマウントをとっていた場所に一陣の烈風が吹きすさんだのだ。

 それは風と呼ぶにはあまりに鋭すぎ、そして尖っていた。

 例えるのならば風のギロチン。

 もし、あのまま拳を振り下ろしていたら或子の首は無くなっていたかもしれない。


「気をつけろ! 先走り過ぎだ!」

「ごめん!」

「手の内をよく観てから動け、バカが!」


 罵倒しながらも親友を助け出したレイの隣に並ぶ。

 確かに今の一瞬、或子は敵を倒すことばかりに気を取られ過ぎていて、反撃を考慮していなかった。

 あのままいけば、レイの言う通りに御子内ではなくて、御/子内になっていたところだ。


「らしくねえ真似すんな。―――ここには京一くんがいねえんだから、自分で知恵もきちんと働かせろや」

「く、レイに説教されるとは……!」

「てめえ、ホント、たまにぶん殴りたくなるな」

「うるさいなあ。あと、ボクの京一の名前を馴れ馴れしく呼ばないように」

「そっちこそうるせえよ」


 二人が見ている中、青年が膝を曲げることもせずに、おきあがりこぼしのごとく立ち上がった。

 勢いもつけずに、バネ仕掛けの機械のように撥ねあがったのである。

 たったそれだけで青年が人間ではないことがわかった。

 上着のポケットに手を突っ込んだままの青年は猫背のまま、彼女たちを無感情に上目遣いで舐め上げていた。

 その手が出てきた。

 一冊の本を開いて片手に持つ。

 その書の名は―――〈春と修羅〉初版本。

 風に乗って空を翔ける邪神を喚び出すための魔導書であった。

 一見、聖書を片手に説法をする神父のようにさえ思えるが、彼が説くのはヒトの世に災いをもたらすための呪詛と苦悶でしかない。

 引き起こされる災禍は多くの人々が涙を流し、害され、死に向かう地獄への片道切符なのである。

 すべて或子たちが欠片も求めていないものばかりだ。

 

「くるかな」

「だろうよ」


 二人が構えを取った途端、爆風が室内を蹂躙した。

 彼女たちは知らなかったが、これは先ほど、山猫軒の外で御所守たゆうが風の少年と戦ったものと同質の魔で造られた風であった。

 その洗礼が二人に襲い掛かる。

 風自体には巫女たちを傷つける力はなかったが、荒れ狂う力の奔流は十分すぎるほどに巫女たちを翻弄した。

 例えば、人は膝の高さまでしかない水に浸かっただけでも、その流れが強ければまったく身動きがとれなくなる。

 それと同様に強すぎる風が四方から吹きつければ、身動きなど一切できなくなる。

 従って、かろうじて可能なのは膝をつくことだけであった。


(風の邪神の力の一端だね……)

(こりゃあ、そんじょそこらの風の妖怪なんか比べ物にならねえな)


 言葉を発することも不可能な圧力ではあったが、或子たちはその程度で屈するほど弱い精神力は有していない。

 あくまで人間としての範疇であるとしても、遙かに常人を超えた鍛え方をしたメンタルの持ち主であるのだ。

 指向性のある風に纏わり付かれ、動きを封じられた二人は、次に敵が仕掛けてくる攻撃を受けるしか道がない。

 だが、挑まれた技はすべて受けきるのがレスラーとはいえ、単なる妖怪とは決して呼べないレベルのものと正面切って渡り合うのは得策とはいえなかった。

 なんとか起死回生の一手を打とうと顔を上げた或子の目に、風の中を游ぐように動く影が飛び込んできた。

 何かがいる。

 この魔術が発生させた妖風の中を自在に游ぐものが。

 しかも、その影は鋭敏すぎる巫女たちの視界に捉えられないほどに素早く動くのだ。

 ただでさえ風によって瞼も開けにくい環境で、正体不明の物体に襲われるなど危険極まりない。

 レイは舌打ちをした。

 操り手はあのハンチングの青年だろうし、ポイントは〈春と修羅〉であることは間違いないというのに、間合いにたどり着けないのだから。

 その彼女に対して、親友が嫌味ったらしく言った。


「―――で、どうするんだい? ボクにあれだけ偉そうなことをいうんだから、きっと突破口も思いついているんだろうね」

「特にねえな。まあ、あいつは賢治本人じゃねえから、なんとかなるだろうさ」

「―――本人じゃない?」


 思わず或子は問い返した。

 今、魔道書を開いて呪文を唱える猫背の立ち姿をした青年のことを、彼女はこの事件の原典を創作した作者本人だと睨んでいたのだ。

 昭和八年に死んだ賢治が生存しているはずもないが、この世界では未練を残して逝った人間たちが霊となって残留していることはよくあることである。

 生前に〈魔術師ドルイド〉であったという人物なら尚更だ。

 それに青年の見た目は伝わっている写真によく似ていた。

 ゆえに、或子はあのハンチングの青年を、宮沢賢治の怨霊もしくはその呪術的残留思念と判断していた。

 だからこそ、レイに自分の仮説を否定されたので驚いたのである。


「何を根拠に? ボクにはどう見ても本人に見えるけど」

「てめえ、あいつの台詞をよく聞いてなかったのかよ」

「台詞って?」

「あとで、フランドン農学校の豚を読め。あいつの台詞はその中の登場人物の校長の思想そのままなんだよ。おそらく、奴も原典から力を得た傀儡だな。力は強そうだが、正体は他の化け物どもと変わらねえ」


 さすがに絶句した。

 もしかして、まだハンチングの青年の裏に黒幕がいるというのか?


「さあな。とにもかくにもオレたちの仕事はこの〈迷い家〉を撤収することだ。邪魔するやつは片っ端から追い出せばいい」

「やれやれ、地上げ屋かい、ボクらは」

「文句言うんじゃねえ。もともと、このヤマはてめえの縄張りだろうが」

「あー、忘れてたよ」


 しらっと聞き捨てならないことを言ってから、或子はじっと腰にとりつけた糸車を見た。

 この糸車から伸びた糸の先は彼女の世界と繋がっている。

 その繋がりを守るためにはこの〈迷い家〉という異世界を潰さなければならない。

 ならばやることは、ただ一つだ。


「じゃあ、レイ、いつもの通りに突っ込むか」

「そうするしかねえな」


〈社務所〉最強のタッグはやはり似たもの同士であった……








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