第296話「巫女二人」
ぐんなりとした風が吹き、二人の巫女の肉体をがりがりと削っていく。
それなりに広いとはいえ、所詮はただのレストランテの一室でしかなかった部屋の中は、宮沢賢治風にごうごうと荒れる風によって立ち上がることさえできない圧力に満ちていた。
或子もレイも時間が経っていくにつれて強くなる勢いに、もはや為すすべもないという状態のようであった。
しかし、巫女たちは吹き飛ばされて壁に激突しないように床を掴みながら、丁寧に呼吸を繰り返し、調息と練気を続けていた。
全身に満ちる〈気〉を溜めこみ、これからただ一度は訪れるだろうチャンスを窺っているのだ。
或子もレイも、一撃を加えられれば絶対に必倒できると自信を持っていた。
ただ、問題は―――一つ。
(どうやって、一撃の隙を産みだすかってことかな?)
高らかにおぞましい呪文を念じ、風を吹き荒らしているハンチングの青年までの距離は約二十メートル。
不断ならばものの数歩で辿り着く距離もこの猛風の只中を突き進んでいくのは至難の業だ。
さらに時間が足りない。
二人の巫女は、青年の詠唱が続くにつれて高まっていく妖気の純度を感じていた。
間違いなく普通ではない勢いで妖気が増している。
〈迷い家〉という結界の中では収まりきらないほどに密度が増加し、あと数分後にはこの山猫軒はおろか、包み込んでいる結界ごと吹き飛ばしてしまいかねない。
そして、最終的には、その妖気の収束がもたらすものは―――
「……おいおい、そろそろイタクァが来ちまうぞ。なんとかしろ、爆弾小僧」
「レイこそ、踏ん張ってくれないかな。あと、ボクのことをダンシィ呼ばわりするのは禁止」
「ちっ、しょうがねえなあ。……あとでさっきのダーツを、もっかい勝負だぞ。今度は負けねえかんな」
諦めたような深い溜息を吐くと、レイは顔を伏せた。
反撃を諦めた訳ではない。
力を一か所に集中するためだ。
正確には、「二か所」に。
彼女が先祖から受け継いだ〈神腕〉の掌にだ。
さっき〈よだか〉相手に振るった双掌打をもう一度使えるぐらいの〈気〉を練り上げてまとめていく。
ただし、〈気〉というものは飛び道具ではない。
本来、ゲームや漫画の主人公のようにビームのごとく放てる代物ではないのだ。
自分の妖気を武器として飛ばすことができる妖怪はいるとしても、〈社務所〉の退魔巫女でそんな真似ができるものはいない。
では、どうするのか。
レイが選んだのは……
「オレが盾になる。スリップストリームだ。いいな……」
「わかった。ジェットストリームアタックだね」
「ちげえ。三人もいねえだろ」
「頑張ってくれ、踏み台」
「……あとで京一くんに言いつけてやる。或子がオレを捨てゴマに使ったってな」
「ちょっ、卑怯だぞ!」
慌ててなされた抗議は無視した。
言い分に腹が立ったのもあるが、実際のところ、時間がないのも事実だからだ。
早くしなければこの帝都にヤバい邪神が召喚されてしまう。
そんな喜劇に近い悲劇など起こさせてはならないのだ。
レイは踵に力を入れて立ち上がった。
通常ならブレーキに使うためのつま先よりも、力を入れやすいからだ。
そして、四つん這いの体勢から膝に力を入れて、ぐいっと身体を持ち上げた。
ごうごうと吹きすさぶ風の中、強引すぎる勢いで立ちあがる。
立っているだけでも奇跡のような状態の中、両の掌を合わせる。
すると、左右の〈神腕〉から増幅された〈気〉の連なりが接続し、全身を駆け巡り始めた。
双掌打同様に〈気〉を集め循環させるのだが、その際に〈神腕〉というバイパスを通すことで威力を高めるのである。
増幅された〈気〉がレイの全身に金剛仁王もかくやという力を与えた。
一歩踏み出しても、身体はぶれることなく正中線を軸に保つ。
二歩……三歩……
風の圧力を受け止めても、一切揺るぐことはない。
だが、受け止めた前半分は霜が振ったように白くなっていく。
あまりに強い風が低温度を作り上げているのだ。
しかし、それでもレイは歩みを止めない。
止めたら終わり。
また再度動けるのかもわからないのだから。
また、一歩。
さらに、一歩。
背中に或子を庇いながら。
この速度ではスリップストリームの本来の意味があるわけもないが、風の抵抗から後続を守りつつ進むということでレイにとって同じだった。
一歩……
一歩……
オレ、どうしてこんな冷たくて苦しいことをしているんだ、とさえ考えずに、レイはただ歩き続ける。
たった十歩だけで全身が切れるように痛くて堪らないというのにレイは進んだ。
彼女が或子を庇うことで、親友は万全とはいわなくても敵を完全に倒すだけの体力を維持できる。
―――はずだ。
可能性を数字で表したら、本当に低いものにしかならないかもしれなくても、彼女はひたすらに信じた。
〈神腕〉を持っていなくても、術なんてほとんど使いこなせなくても、自分の背中にいる馬鹿者は―――絶対にやり遂げてみせる。
それだけを信じた。
そして、主観時間では長い長い歩みの後、レイはその手でハンチングの青年の肩を伸ばした手で掴んだ。
すでに握力と呼べるほどの力は残っていない。
天地開闢以来のすべての生命を憎悪する怨霊のような白い顔のまま、青年を睨みつける。
〈春と修羅〉の呪文をほうほうと唱えていた青年もそうなって初めてレイの存在に気が付いた。
まさか、こんな傍にいるとは思っていなかったのだ。
尋常ならざる暴風の中を接近してくるものなどいるはずがないと、無神経に高をくくっていたのである。
だから、彼は油断していた。
何も知らなかった。
明王殿レイという不屈の女を見くびっていた。
かつ―――
「でやああああああ!!」
親友の無私の犠牲を決して無駄にしないために、彼女を止めたいのを必死にこらえて牙を研いでいた御子内或子を理解していなかった。
レイの背中にぴったりと貼り付くことで、魔風による体力の減少を極限までおさえていた或子も、いつもよりは遥かに消耗しきっていたが、それでも友の戦いを無駄にすることはできない。
彼女はすべての〈気〉を拳に集め、レイの背後からまろび出ると、渾身の力をこめた正拳突きを撃ち放つ。
その拳は〈春と修羅〉の表紙に当たったが、稀代の魔導書の秘めた〈魔力〉が或子の拳を弾いた。
力が及ばなかったのだ。
愕然となりながらも、或子は弾き飛ばされまいと踏ん張る。
踏ん張らないと、すべてが無駄になる。
意味がなくなる。
そんなことはさせない。
「ぎぃぃ!!」
歯を食いしばった。
一瞬で眼が充血する。
全身の毛細血管が破れそうになった。
どれほどの血を噴きだしたっていい。
この一撃を無敵にしてくれるのならば。
或子の奥歯が一つ割れた。
ガリっと割れた。
さらなる力がこもる。
そして、青年は見た。
或子の瞳の虹彩が金色に輝き、黒い眼球が〈気〉の効果によって赤く、炎のごとく真っ赤に燃え上がるのを。
『
「どりゃああああ!!」
悪名高き詩集ごと、或子はハンチングの青年の胸に拳を叩きこんだ。
捩るような一撃。
「喰らえ!!」
退魔巫女・御子内或子のすべてを賭けたストレートは、ただの捻りの入ったパンチでしかなかった。
だが、その一撃はすべてを破壊して電磁ブレイクする兵器に匹敵した。
青年が吐いたのは血ではなく、黒い油であった。
人ではないことの証し―――玄油である。
そして、或子が踏み込んだ左脚を地につけるとともに、青年は吹き飛んでいき、〈春と修羅〉は綴じ紐が切れてバラバラに散った。
風も止み、轟音は消えていく。
「―――やっ……た……じゃねえ……か」
「ああ、レイ。ボクたちの勝利だ」
倒れていく親友を支えながら、或子は勝どきを小さく呟いた。
「ボクとキミが勝ったんだ……」
レイの口元に、満足の笑みが浮かんだのを或子は嬉しそうに見つめていた……
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