第297話「さういうものに……」



 突然、鼓膜につんざくような痛みが走った。

 エレベーターで何十階も上へと向かう時に感じるあれに似ていた。

 その理由として思いつくものは、気圧の変化によって中耳が刺激を受けるというものなのだが、原因として考えられるのはただ一つだ。

 僕たちが迷い込んでいるこの結界―――〈迷い家〉が消滅したのだ。

 しかも、さっきから僕のような神通力のない素人でもわかるぐらいに、例の山猫軒の中では風船が膨らむように風が溢れていて、それが何の前触れもなく消滅していた。

 風が止んだというか、消えたことで、おそらく真空状態のようなものが生まれ、気圧が変化したのだろうと推測した。

 そんなことが自然現象としてありうるかは不明だが、それ以外の説明がつかないのだから僕は納得するしかない。

 だが、理由なんてものよりも僕には優先すべきことがあり過ぎた。

〈迷い家〉が消えるというのならば、内部に突入した御子内さんとレイさんの安否についてが何よりも気にかかる。

 まさか、結界と一緒にどこかに消えてしまうなんてことはないよね!

 僕が半狂乱になりそうなぐらいに、周囲を見回していると、ちょいちょいと手が引っ張られた。

 視線を落とすと、それは僕が指に巻いていた糸であった。

 アリアドネの糸。

 神話において、迷宮の中のミノタウロスを倒すために勇者テセウスが使ったという脱出のための切り札。

 それがどこからか僕の指を引いているのだ。

 反対側の先端についた糸車を持っているのは、―――御子内さんしかいない。

 僕は糸を握った。

 何も届きはしないけれど、せめて彼女たちがここに帰れる道しるべになれれば、なんていうどうしょうもないことを願った。

 子供が満月に祈るように。

 普段、神頼みなんてしない人間がたまに信心深くなったって意味はないだろうけれど、御子内さんたちが戻れるのならばなんだってしてやる。

 そんな気分だった。


「―――どうやら二人とも無事のようですねえ」


 隣にいたたゆうさんがいつの間にか椅子から立ち上がっていた。

 暖を取っていた七輪はもうない。

 どこからか取り出した時同様、何処かへと戻してしまったのだろう。

 同様に椅子もなくなっている。

 彼女は遠くの一点をじっと見据えていた。

 僕にはそこには何も見えない。

 彼女にしか見えないものということだろうか。

 だが、確かに僕の指に結びついた糸の先はたゆうさんの視線と同じ方角を向いている。

 

「二人とも……大丈夫なんですか……?」

「だいぶ消耗しているようですが、どちらも五体満足のようですね。さすがはわたくしの孫たちというところですか。褒めてあげましょう」


 たゆうさんはおっとりと巫女たちを褒め讃えた。

 彼女の言うことが正しいのならば、二人は健在でいるということだ。

 生きていてくれたというだけでも素直に嬉しい。

 糸を引く力がさらに強くなったと感じたとき、今まで見えなかった巫女装束が忽然と姿を現した。

 並んでではなく、片方が片方をおんぶして歩いている。

 背負われているのはレイさんで、背負っているのは御子内さんだった。

 二人の身長差を考えると逆のような気がするが、それだけレイさんに重い負担がかかったということだろう。

 御子内さんの足取りはいつも通りに確かだった。


「御子内さん! レイさん!」


 僕は急いで駆け寄った。

 近づくと、レイさんがかなり消耗しているのがわかった。

 荒い息を吐いて、とても辛そうに眼を閉じている。

 ただ、口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。

 大切なことをやり遂げて満足を得た漢のものだった。

 ただ、皮膚が赤くなっていてほとんど凍傷になる寸前だというのはわかった。

 救急車を呼ばないと。


「或子、そこに救急車を待たせてあるからレイを連れておいき」


 たゆうさんの声がすると、御子内さんが目を丸くする。


「お義祖母ちゃま! どうしてここに!?」

「わたくしがいる程度で驚いていてどうするのですか? おまえ様のやるべきことはまず戦友を無事に医者のところに連れていくことですよ」

「は、はい!!」


 どうやら、たゆうさんには滅法弱いのか、御子内さんはその言葉に弾かれるように急いで大通りの方へと駆けだしていく。

 お義祖母ちゃまなんて、いつもの男らしい御子内さんらしくない呼びかけ方にびっくりしたけど。

 救急車に向かう途中で僕にウインクをして、背負った親友と共に救急車に乗り込む彼女を見守る。

 見たところ、外傷らしいものはなかった。

 良かった。

 風の邪神の眷属なんてものと戦ったはずなのに無傷でいてくれて。

 でも、いつか彼女たちはあれと同じようなものたちとまた戦わなければならないのかと思うと、とても平然とはしていられそうにない。

 いつも戦っている妖怪たちよりも遥かに格上の連中ばかりなのだから。


「―――心配ありませんよ。伊達や酔狂であの小娘たちをあそこまで育て上げた訳ではありませんからね。少しぐらいの入院はするでしょうけれど」

「そうなら……いいんですけど」


 今回、邪神召喚なんてものをギリギリ防いだけれど、彼女たちの戦いについては誰も知らない。

 どれだけ命を懸けたかについたって理解してくれる人はいない。

 でも、御子内さんたちは丈夫な身体をもって、欲は少なく、いつも静かに笑って戦い続けるだろう。

 みんながその勲を知ることがなかったとしても、褒められもせずとも、苦にもされずとも、そういう風にきっと生きていくはずだ。

 

 何にも負けずに、ね。


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