第638話「〈ハイパーボリア〉の悲劇」
「なーんも聞こえないッスよ。開けてみますか!!」
「待てよ。こういうときにそっと開けたら待ち構えてやがった!!……ってのがお約束じゃねえか。よく考えろ、バカ」
「なに言ってやがる!! このままだと、いくらなんでも〈ハイパーボリア〉がもたねえんだぞ。なんとかして逃げ出す方法を考えねえと」
「……あの半魚人どもを相手にか? ライフル構えた軍隊相手にか? 訳の分からん怪物どもをすり抜けてか? さすがに無理だろう」
「ざけんな、ソータ!! だったら、どうしろってんだ!?」
相棒といってもいいユーヘイの言い分にソータは答えられなかった。
それもそうだろう。
彼らは昨日の晩からずっと追い立てられていたのだ。
バケモノと殺人者に。
つい数時間前まで気は合わないけれど、同じ職場の同僚だと信じていた連中に。
飽きて捨てられる予定の玩具をついでだから壊してしまおうというかのごとく無慈悲に始末されていったのだ。
100人はいたはずの上部Bブロックの作業員のほとんどがゴミみたいに殺された。
たったの数十分の間に、だ。
今、ソータとユーヘイが生きていると断言できるのはここにいる数名だけ。
ちらりと後ろを見た。
ひー、ふー、みー、よー……
彼らを足してもたったの六人。
それしかいないのである。
あんなに沢山いた、たまにもっと減ればいいのにと思ってしまっていた〈ハイパーボリア〉で働く同僚たちがたったの六人。
外にも連中はいる。
だが、奴らは違う。
はっきりいって、きつく臭く汚い職場ではあったが、〈ハイパーボリア〉には夢があった。
日本という国が資源大国になり、かつてのように経済大国となれるかもしれないという夢が。
メタンハイドレートという新しい資源が確定することで放射能による脅威に怯えなくても済む生活が待っているかもしれない。
その先駆けとなめのではないかという夢が。
同じ夢を共有しているからこそ、この〈ハイパーボリア〉での仕事は愉しかったのだ。
しかし、違ったのだ。
半年程度の間だったが、一緒に汗水たらして働いていたはずの連中はただの化け物だった。
殺し屋だった。
悪魔だった。
あっという間に、善良な仲間達は皆殺しにされ、必死に逃げまどった数人だけがなんとか命を拾っている。
ソータたちはまだ若いから、涙をこぼすだけでこらえられたが、年配の男たちはほとんど気力というものを根こそぎ奪い尽くされたような状態だった。
「トシさん……」
中でも、作業中はみなのリーダー格であった鈴木寿郎の様子は無残なものだった。
空手四段の達人であるからこそ、あの半魚人を数匹ぶちのめし、なんとかあの場を切り抜けることはできたが、一端落ち着いてしまうとその落胆ぶりは目に余るものがあった。
この施設での働きに誇りを持っていたのもあるが、仲間や部下たちが目の前でちり芥のように惨殺されたことが傷となってしまったのだろう。
落ち込み方が酷すぎて、声をかけることも憚られるほどのであった。
「やめておけ、小僧ども。今のトシにはどんな言葉も厳しすぎる」
医師の間田が止めた。
彼は人生経験からわかっているのだ。
トシは今までの人生で培っていたすべての堅いものが、たったの数分で粉々に砕けきってしまったのだと。
腕っぷしや仕事への情熱というものが、元仲間による恐ろしい狼藉・虐殺によって汚されてしまい、そのショックが大きすぎて生きる気力を見失ってしまったのだと。
だから、彼はもう動けない。
男が男として生きてきた何十年が、脆くも崩れ去ってしまえば、あとは役に立たないでくのぼうが残るだけだ。
「放っておいてあげな。……ところで、あんたたち、〈ハイパーボリア〉はあとどれぐらいで沈む?」
看護師の鉢本いすゞは誰もが口にしたくなかったことを言った。
〈ハイパーボリア〉に着任したばかりで思い入れのない彼女だからこそ言えた台詞だった。
他の五人には決して誰よりも先に口にできないかもしれない。
「……嵐が止まないとな」
「ああ、昨日の夜からずっと嵐に巻き込まれている。外の様子はわからないけれど、いかに何千億円掛けた〈ハイパーボリア〉でも、これだけの嵐がずっと襲っていればもうそんなに長くはもたないぜ」
そもそも彼らは状況が正常であったとしても脱出すらできない状況なのだ。
ある程度知恵が働くものならばわかる。
時折ではあるが、この巨大な〈ハイパーボリア〉がひしぐほどの波と暴風に囲まれている以上、助けが来ることはない。
Bブロックのトイレでの殺人事件のために警察がやってくることも期待できなかった。
そして、扉の外で行われているであろう、凄惨な殺し合いの現場。
彼らは理解していた。
今の〈ハイパーボリア〉は世界中で行われている戦争でさえ生ぬるく思えるであろう、殺戮の地獄であるということを。
明らかに銃器の音とわかる連続音や断末魔の絶叫が遠くから聞こえてくる。
雷雨の中を。
さっき、Bブロックの作業員たちを皆殺しにしようとした連中が、今度は互いに殺し合っているのだ。
なんのために?
それはわからない。
ただ言えることは、彼らが外に出たとしてもすぐに殺されて終わるだろうということと、隠れていたとしても〈ハイパーボリア〉の崩壊とともに全滅するであろうということだけだった。
「この扉は大丈夫なの?」
いすゞが隠れている室内での唯一の出入り口を指していった。
「何度も言わせんなよ。あんたの後ろにある油の山を保管するために、ここはどこよりも厳重に隔離されてんだ」
ユーヘイが指さしたのは、部屋の奥に並べられたドラム缶の山だ。
さらに奥には揮発性ではない燃料の類いが管理されていた。
ほとんどが基地の機械と連結されているが、管理だけはこの部屋に集中させられていた。
〈ハイパーボリア〉にとって心臓部とはいえないが、なくてはならないものを保管するための燃料庫であった。
彼らが逃げ込んだのは、そういう場所であった。
おかげで半魚人も銃を持った殺し屋たちも踏み込んではこなかった。
「……しかし、奥に来すぎたな。このままでは逃げることも出来ないぞ」
関田医師は的確に問題点を点く。
逃げるのはいいが、逃げ場が限定されればそれは袋小路だ。
俗にいう袋のネズミである。
「あの、空気ダクトみたいなものから逃げられないのか、映画みたいに」
マサという作業員が落胆しきった顔つきをする。
「俺はコミュ症だから」と事あるごとに口にして、Bブロックでも鼻つまみ者となっていた男だった。
もともとそれなりの有名大学をでていたからか、根っからの労働者であるトシとは仲の悪い男であった。
「ああいうのは映画みたいに丈夫じゃない。普通は中に人が入ればすぐに壊れてしまう。アレの中を移動するなんて撃ってくれというようなものさ」
いすゞが応えた。
彼女は比較的冷静で率先してリーダーシップをとろうとはしないが、的確なアドバイスをし続けていた。
ソータも天井近くにあるステンレスっぽい四角いダクトをみて納得した。
あんなものでは脱出口にはならない。
となると、外に出るためにはやはりこの分厚い燃料保管のための扉を開けて出るしかない。
しかし、つい数時間前まで執拗に壁を殴り続けていた化け物たちが溢れている廊下に出ることはできそうもなかった。
そっと開けたと同時に隠れていたら奴らがなだれ込んでこないとも限らないからだ。
この場所にいる六人はもう袋小路で手も足も出ない―――あとはどう死ぬかどうかというかの瀬戸際にいるといっても過言ではなかった。
誰一人として生きて帰れるとは思っていないだろう。
比較的体力の残っている若いソータやユーヘイでさえ。
「だがのお。今の〈ハイパーボリア〉がどういう有様かはわからんが、このままではどうにもならんぞ。なあ、鉢本くん」
「はい。ここは第二次大戦中のフランスはダンケルク海岸並みの激戦区ですね。ここから撤退するのはほとんど不可能ではないでしょうか。―――そういえばクリストファー・ノーランがダンケルクの戦いを映画化しているらしいので、できたらそれを見てから死にたいです」
「この期に及んで映画の心配かね」
「どうせ死ぬのなら趣味のことを考えていきたいと思いません、
医師とたった一人の助手の雑談にはすでに諦めの気配があった。
まだ泣き叫ばないだけ気丈といえるかもしれない。
作業員の四人はそろそろ減らず口さえも叩けそうになかった。
「喉、乾いたな」
「燃料室に水はねえよ」
「腹、減ったな」
「油でも飲め」
六人は壁に寄りかかった。
外は止まない嵐の中―――部屋から出れば殺戮の戦場。
すでにどうにもならない。
あとは死ぬしかない。
最期に唯一の女性であるいすゞと性交渉でもしてから死のうかと一瞬思うが、これだけの状況下では性欲さえ起きてはこない。
種を残す気持ちにさえなれなかった。
六人はもうこのまま最後の時を待つしかなかった。
ガタ―――ガチャン!!
天井の方で何かが動いた。
さっき話題になった空調ダクトのあたりだった。
だが、銀色の四角いダクトではなくその奥にあった壁の一部が剥がれて落ちた音だった。
全員の視線が―――トシでさえ―――そちらを向いた。
なぜなら、剥がれ落ちた壁にできた空洞から少年の顔が覗いていたからだ。
そいつはこう言った。
「ごめんなさい、驚かせてしまって。でも、いい報せも持ってきたんで許してもらえませんか?」
少年は、窮屈そうな場所から手を出して謝罪の意思を示した。
「な、なななな、何者だ、君は!?」
声に出したのは関田医師だった。
ある意味で肝が一番座っていたのは、この老医師だったのかもしれない。
それに応えて、少年は言った。
「
只人でしかない普通の高校生が、あらゆるものを犠牲にして、動員をしてなんとかここに辿り着いたということに、男たちはこの時は誰一人として気が付いていなかったのである……
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