第639話「背負うべき重みの数」



 ドリルシップ〈サイクラノーシュ〉と母港である〈ハイパーボリア〉を繋ぐハシゴは嵐の中でひどく揺れていた。

 一歩間違えれば嵐の海の中に落下してしまうのは確実な不安定すぎる足場だった。

 僕は躊躇いなく飛び乗った。

 時間をかけて渡っていく手もあるけれど、そんなことをしている暇はない。

 何故かというと、ハシゴの先にポンチョを着た男が立っていたからだ。

〈サイクラノーシュ〉にいた半魚人たちはどいつもこいつも服の一つも着こんでいないのは、まあ濡れても構わない生物だからなのだろうから当然だ。

 となると、あそこにいるのは高い確率で半魚人―――〈深きもの〉ではないということになる。

 しかも、僕の聞いている範囲では巨大な施設の内部は邪神の信者やら怪物やらが互いに争っている状態のはず。

 あんなところで突っ立っている普通の作業員は一人もいない。

 そして、〈サイクラノーシュ〉にいた〈深きもの〉どもが、なぜか船内に残っていた理由もわかる。

 半魚人たちは基地に渡りたくても渡れなかっただけなのだ。

 つまり、あいつがいたから船から脱出することが叶わなかったというわけだ。

 

(……あれほどの怪物を足止めするということは間違いなく、力が強いだけの存在じゃない。となると……)


 男のポンチョがマントのように翻った。

 雨ざらしになった手にもたれていたのは、遠目でもわかる分厚い本だった。

 ああいうものを持っている奴の手口は―――だいたい想像つく。

 今まで僕が御子内さんたちと執り行ってきた退魔業の経験が教えてくれたのである。


『イア!! ヨグ・ソトト!!』


 男が叫んだ。

 フードが頭から落ちて、顔が剥きだしになる。

 片方が潰れて、瞼のない白内障のような眼がぎらりと現われた。

 そこまでは奇形であっても人間の範囲だった。

 でも、すべての歯が五倍も六倍も伸びきった口はほとんど深海魚そのものだった。

 なのに、出てくる言葉は人間のものだった。


『イアあああああ!!』

 

 獰猛な叫びが雷雨を裂いて轟く。

 同時に男の目の前の雨が歪んでずれた。

 透明な何かがあるのだ。

 何かが。

 そして、それが怪しい。

 あの透明な歪みがあるから〈深きもの〉どもはブリッジを渡れなかったのではないか。

 僕だってこのまま正面からいったらあれに遮られるかもしれない。

 どうすればいい。

 すぐに答えは出た。


「ビイさん! 横から狙撃して! 前からは絶対にダメ!!」

「―――わかった」


 僕の援護のために船の側板でライフルを構えていたビイさんではなくて、隣でスコープを使い観測手をしていたクロコダイルさんが重々しく頷いた。

 あの歪みがどういうものかはわからないけれど、僕が進むことで方向性が生まれる。

 囮として動くのならば、それしかない。

 僕はハシゴに登った。

 ポンチョと本を持った人間と深海魚の合いの子みたいな男の視線はまだこっちを向かない。

 また、何か人間の声帯器官では喋れそうにない呪文を唱えた。

 甲板で〈深きもの〉と戦っている〈S.H.T.F〉の隊員たちに向けられている。

 このままでは彼らに不可視の危険が及ぶ。

 

『イア―――!!』

「こっちを見ろ、クソ野郎め!!」


 僕は大きく手を広げた。

 着ているものは僕のだってみんなと同じ黒い戦闘服だ。

 無視できるはずもない。

 いや、無視させない。


「でりゃあああああああああ!!」


 御子内さんのように叫んでみた。

 咽喉が破れんばかりの大声を発する。


『……!?』


 ようやく男がこちらを向いた。

 色のない眼が僕を認識する。

 嫌なものが視えた気がした。

 もしかして、あれが皐月さんの視ている殺意というものなのかもしれないという暗色の七色が。

 何故、刹彌流でもない僕に殺意が視えるのかはわからない。

 でも、もし本当にあれが男の放った殺意が可視化したものだというのならば……


「こっちを見ろ!! 狂信者め!!」


 何かを言うたびに暗色の七色が僕へと向けられていく。

 完全に男の関心が一点に集中した段階で、僕はつい最近教わったハンドサインを使った。

 ビイさんとクロコダイルさんへの合図だ。

 

 パン!!


 破裂音がして男の顔面が柘榴のように吹き飛ぶ。

 狙撃が成功したのだ。

 あの軽い音で人の命が一つ消えたということを意識せざるを得なかった。

 でも、今は考えるな。

 このブリッジを越えた先に地獄絵図が広がっていることもわかっている。

 けど、前に行くしかない。

 ここで僕が失敗したら、今度は御子内さんたちが、音子さん、レイさん、藍色さんたちがこなければならない。

 彼女たちにはまだまだやらなければならないことがある。

 こんなところで消費されていい女の子たちではないのだ。

 そして、〈ハイパーボリア〉での活動は僕でもできる、みんなの代わりにできることだ。

 だから、僕が行く。

 不安定なハシゴを渡りきった。

 足下に無残に転がった男の死体を大股で飛び越す。

 顔半分が吹き飛んだ肉体はついさっきまで生きていた証しの痙攣をしていた。

 直接手を下したわけではない。

 殺したのはビイさんだ。

 でも、狙撃以外の方法もあるのにあえて射殺するように頼んだのは僕なんだ。

 男の注意を逸らし、ビイさんの手助けをしたのも僕だ。 

 人一人死んだことの重みを正面から受け入れることをしなければならない。

 でなければ、この男の死を覚えている人はいなくなる。


「ごめん」


 僕は男の死体を跨いで〈ハイパーボリア〉に突入した。

 地獄を、巡る、ために。


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