―第84試合 邪神戦線 5―
第668話「怒りの明王たち」
不動明王は、五大明王の中心に立つ柱であり、単純な武力と霊力だけで語るのならば最も強い仏法の守護者である。
その化身である少女は、疲労困憊して肩で息をするしかないほどに弱り切った親友の脇に立つと、飛びかかってくる無数の妖魅どもを文字通りに薙ぎ倒した。
彼女の両腕に宿る神通力の塊の名は〈神腕〉。
関東最大の退魔組織である〈社務所〉のみならず、おそらく日本全国を見渡しても彼女―――明王殿レイに匹敵する破壊力の持ち主は存在しないだろう。
ただ一振りの無造作極まるビンタの一閃で、数匹の〈深きもの〉を回転するまで強く吹き飛ばす姿はまさに圧倒的であった。
彼女にとって唯一といっていい習い覚えた武術は使わない。
こんなところで多勢に無勢、数の力で攻めたてるような不作法で芸のない奴ばら相手に振るってやることは、忘れられないあの懐かしい死闘の数々を穢すことでしかない。
彼女の半生はあの十三歳の春に始まった。
その春を呼んでくれた
最大の攻撃力を持つ彼女の仕事は梅雨払いだ。
「ナウマク サンマンダ バザラダン カン!!」
不動明王真言を唱える。
かつてとは違い、一瞬で炎を背負った大日如来の化身とも同視される彼女の守護神が顕現した。
「〈
その不動明王が両手を振るい、無数の〈深きもの〉を薙ぎ払った。
目標となった数はおよそ五十匹。
ただの一撃で深海から来た半魚人モドキどもは総戦力の数分の一を焼失させられてしまう。
そう、今のレイの不動明王は全身が業火に覆い尽くされていてまさに炎の神格そのものにまでなっていたのだ。
悪鬼羅刹を焼き尽くす降魔の利拳。
御子内或子を庇うために本気を出したレイの完全なる覚醒であった。
真っ向から〈ダゴン〉を睨みつける。
かつていすみ市で撃退したはずの魔神であるが、あのときとは比べ物ならないほど妖力が増している。
神物帰遷の影響を受け、個体進化を遂げたのだろうと推測した。
だが、レイなら殺れる。
〈五娘明王〉最大級の火力を誇る彼女ならあれほど巨大な敵でも斃せる。
なにより、親友をこんな目に合わせたのが〈
「ぶっ潰してやるぜ、邪神の腰ぎんちゃく。―――オレは不動明王〈神腕〉の明王殿レイだ!!」
◇◆◇
……一通り動きが回復できるようになるまで、熊埜御堂てんに付き添っていた刹彌皐月が蹴飛ばされた。
大丈夫かと心配めかして凹凸の少ないてんの肉体に触るというセクハラ行為に及んでいたのがバレたからである。
当然、殺気が籠っている蹴りであったのなら視て避けれたが、てんのものはツッコミの範囲だったのでまともに食らうことになる。
「……セクシー皐月先輩。いい加減にしないとてんちゃんでも蹴り飛ばしますよ」
「もう蹴っているよね!?」
「刹彌流も効かない蹴り方をするということですよー。こう見えてもてんちゃん、殺気とか出せずに人の関節壊せますから」
「ひぃぃぃ」
可愛い顔で恐ろしいことをいう後輩。
思わずビビりながら、皐月は背後から襲ってきた〈深きもの〉の首をノールックでひっつかむ。
はっきりいってこの〈ハイパーボリア〉甲板での戦いは彼女にとってどうということもなかった。
〈深きもの〉どもは揃いも揃ってちゃちな殺気を放ちまくり、それを消すことなど不可能な愚鈍ばかりだったからだ。
野生動物や妖魅の中にはたまにすべての気配を消失できる天然のハンターが存在するが、もともと人間が遺伝的に魚に化けたような怪物どもでしかない。
だから、皐月はてんの様子を見ながらしかも会話や冗談をかわしつつも、飛びかかる火の粉を的確に投げ飛ばしていた。
ただ、皐月流の投げに手加減はない。
すべて頭頂から鉄の床に叩き付ける殺人投げだ。
投げがうまくいかずにずれる場合があっても、落下のタイミングに合わせて逆さになった頭をローキックで邪悪な首の骨を蹴り折ったり、ぶざまに横になった顔を渾身の力で踏み潰したりとトドメを忘れない。
確実に〈深きもの〉を一殺一殺していくのだった。
本来、皐月の性格的にこんな残忍な殺しはしない。
例え妖魅であったとしても。
常に陽気で下ネタを愛する彼女の性格からするととてもありえない暴挙であったのだが、それには理由があった。
或子のことだけではない。
明王として菩提心に目覚めている彼女は聞き取っていたのだ。
足下から。
この施設で無残に殺された作業員たちの嘆きの声を。
日本のエネルギー事情を救える夢の施設だと信じて働いていた何の罪もない人々の慟哭を。
愛染明王は病苦や天災の苦難を取り除いて、信心する人の天寿を全うさせ、悪魔や鬼神・邪神による苦しみから
化身である彼女も同様だ。
そんな彼女が邪神や悪鬼のために唐突に、みじめに、何の救いもなく殺された人々の苦しみを無視できるはずがない。
邪神とその信徒の汚らしい企てのために命を奪われたものを見放せるはずがない。
ゆえに、今日の皐月は一味違う。
愛染明王も本気なのだ。
救えなかったものたちのために力を奮うことに一片の躊躇いもない。
「
愛染明王の真言を唱えた。
手の中に光り輝く長弓が召喚される。
〈取り寄せ〉によるものではなく、皐月の神通力が光の形をとり実体化した霊的兵装であった。
それは高野山金剛峯寺に伝えられる天弓愛染明王像からヒントを得て、「衆星の光を射るが如し」の部分を再現した天に向けて番えてよっぴくための弓であった。
不真面目でおちこぼれを自認していながら、決して研究は怠らない皐月の二面性の象徴でもある。
「オン マカラギャ バゾロウ シューニシャー」
弓を前にではなく頭上に向ける。
「
ぴょうと放った。
一本の矢が垂直に上がり、そして、百本に割けた。
割けた矢はそれぞれ複雑な弧を描いて落下していき、そのすべてが〈ハイパーボリア〉に蠢く闇の海魔どもを貫いた。
撃ち抜かれた〈深きもの〉は一体残らず何が起きたかわからなかったに違いない。
なぜなら、皐月の放った矢の軌道は、既存の物理法則にのっとったものではなく、命中することがわかっているからこそ発射される因果を無視した法術であったからだ。
これが彼女の持つ最大の
こんな大量殺戮しか許されない法術を使うほどに刹彌皐月はかつてないほどに怒っていたのである。
「うちだってね、怒ることはあるんだよ」
愛染明王はいつもより少しだけ陰のある表情で呟いた。
「後輩にセクハラしといて何をカッコつけているんですかー、セクシー皐月先輩。てんちゃんだってたまに怒りますよー」
「しぃ、ちょっと黙って」
空気を読もうともしない後輩に台無しにされても仕方がないのが、彼女の普段の行いなのであった。
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