第667話「六魂離合の果て……」
御子内或子は「死ぬこと」を覚悟した。
だが、一瞬たりとも、「負ける」とは思わなかった。
例えどれだけの苦痛を与えられたとしても、顔を踏まれ土を舐め、小便をかけられたりしたとしても、敗北したとは断じて認めることはしないだろう。
敗北を心が折れることと定義づけるものがいる。
あるいは、魂が屈服することとするものもいる。
ただ単に暴力によって完膚なきまでに打ちのめされて二度と歯向かえないようにされることを客観的に敗北と呼ぶのかもしれない。
御子内或子にとっては多少違う。
彼女は「死ななければ負けではない」と考えていた。
その理屈では殺された時点で敗北するが、殺されたときに意識も心も精神も残っていないのだから負けることはないのだ。
要するに、生きている限りは彼女の勝利なので、「敗北はない」といえた。
だから、「死ぬこと」だけを覚悟すればいいのである。
すでに四肢に回せる〈気〉は尽きかけていた。
〈気〉がなければ並みよりは鍛えているというだけのただの少女だ。
あっというまになぶり殺しにされるだろう。
立ち続けるだけの体力も無くなっていた。
座り込むよりも立っている方が楽だから、辛うじて背を伸ばしているに過ぎない。
内臓はもうあるかないかもわからないぐらいに存在を感じさせない。
五臓六腑が尻から垂れ流されていてもわからないはずだ。
なんとか或ると感じられているのは、眼の奥だけだった。
鋭く敵を射貫く視線だけが生きていることを実感させる。
しかし、それしかないのだ。
斃すべき敵を強く睨み続けることだけが今の或子の全てなのだ。
もう、それしかできなかった。
御子内或子は―――死なないだけの抵抗をするのが精いっぱいになるまでに、終わっていた。
もう、駄目だった。
四肢が残っていたのが奇跡だった。
致命傷を受けていないのは偶然だった。
〈一指〉の少年が死に物狂いに生き残ろうとして抗う時のように、意志と運の力で姥貝ていたのではなく、これまでの経験が機械的に身体を動かしているだけだったのだ。
御子内或子はもうすぐ死ぬ。
群がる蟲たちのような化け物に集られて死ぬ。
運命はそれしかもう彼女に選択肢を残してくれていなかった。
「―――ボクは死ねない。死んでたまるものか!!」
死なずに済むのならばそれでいい。
だが、戦いには相手がつきものだ。
少なからず〈深きもの〉どもの同胞を始末してきた自分を八つ裂きにするだろう。
もはやどうにもならない死地そのものだった。
ただ、我慢ならないのは―――足元に広がる基地の中で彼女の助けを待っていたはずの少年のところに辿り着けないことだ。
生き残ること以外に、最も悔しいのはその事実。
「すまない、京一。ボクはキミのところへはもう行けそうにない……」
彼女がかつてしたこともない弱音を口にしたとき、背後から途轍もない力を感じ取った。
邪神の妖力でも、妖魅の魔力でもない、聖なる霊力―――神通力であった。
誰かがこれまでに体感したことのない光を発し、上へと向けていた。
上へ、上へ、上へ……
まるで天にも届かんとする美しい
ぐんぐんと伸びていく。
上へ、天へ、先へ……
―――空へと!!
濁りきった汚泥を貫く眩しい灯火のように!!
◇◆◇
「―――見えた」
「やると思っていたぜ、軍荼利明王!!」
「うんうん、うちもさあ、十年前からあの後輩はやる奴だと思っていたんだよ。出会ったのは三年前だけどね!!」
「偉いですよ、てんさん。あにゃたはじっと待っていたのですね。この時を、この瞬間を、この勝機を!!」
「褒めてやるぞ、ロリっ子!!」
遥か上空から、突然聳え立った強すぎる柱の輝きを少女たちは
ただ海上の一構造物を目標にするよりも、あの神通力の塊目掛けて修正する方がいい。
「オン マユ キラテイ ソワカ―――〈孔雀明王飛翔呪〉!!」
かつて一度見ただけの術を完全にものにした明王殿レイは、仲間たちとともに空を飛ぶための呪法を駆使する。
羽根のある孔雀明王ではない彼女たちでは自在にとまではいえないが、自由落下をコントロールすることぐらいは容易い。
〈五娘明王〉として覚醒している彼女たちにとっては、体重を軽くする〈軽気功〉よりもむしろ実際的な効果手段だった。
しかも、呪法としてのシンクロニテイから、あの聳え立つ光の柱に吸い寄せられるようにスムーズに落下していく。
「なろう。味な真似をしやがる」
「或子さんを〈ハイパーボリア〉まで連れていくだけじゃにゃくて、わたしたちを引き寄せようと神通力を張っているようです。まったく、先輩冥利に尽きますにゃ」
「ノ. 抜け駆けした奴を褒めたらダメ。あとで折檻」
「ふ、踏んでくれるの!?!」
巫女たちは瞬く間に数キロの距離を落下していく。
◇◆◇
「……てんか!? 何をしている、早く逃げろ!!」
或子は背後からはじけ飛ぶように漏れ出した神通力が可愛い後輩のものだと気がついた。
思わず振り向く。
そんなことをしたらおまえも餌食にされるぞ!
なんて馬鹿なことをしているんだ、と叫びたかったがもう声も出ない。
ただ、手を伸ばした。
せめて後輩だけは救いたかった。
御子内或子が戦った証しを覚える証人としてではなく、ただ妹のようにも思っていた少女を巻き添えにしたくなかった。
しかし、ただ二十メートルほどの距離ももう彼女には踏破できない。
四方八方から〈深きもの〉が襲い掛かってきた。
防御も回避ももうできない。
ボクは死ぬ―――
ここで死ぬ……
てんも助けられずに死ぬ…………
絶対に意地でも閉じないと決めていた瞼が落ちる。
後輩の無事すら確認できないのか。
無敵の少女の命が尽きる寸前。
彼女に覆いかぶさろうとしていた半魚人の妖魅どもが一匹残らず停止して頭部を破裂させた。
空から降ってきたリングシューズの底が完膚なきまでに爆砕したのだ。
或子に牙を突き立てようとしていたものは、無造作なビンタを受けて縦に何回転もしてから吹き飛んでいった。
百キロを超える体重が野球のボールよりも見事に回りきっていた。
立ち尽くして神通力を発しているだけの熊埜御堂てんを襲おうとしていたものたちも同様に叩きのめされた。
拳と投げによって。
ともに〈深きもの〉どもには見えない攻撃であった。
清廉なる嵐が突然吹き荒れたようであった。
或子は閉じかけていた眼を再び見開いた。
東から陽光が差しかけていたせいで、夜が一段と暗く思える。
だが、もう暗黒は晴れんとしていた。
太陽が昇るからではない。
みんながやってきたからだ。
親友たちがやってきたからだ。
窮地に陥ったもののためにどこからともなく風のようにやってきて助けの手を差し伸べるものたちがいて、それらのものを―――親友という。
御子内或子の親友たちは全員少し不機嫌そうだったが、同時に温かい優しい笑みを浮かべていた。
前者は独りで独断した或子への不満で、後者は彼女が無事であったことに安堵しているからだろう。
「間に合った」
大威徳明王が言った。
「ギリギリじゃねーか」
不動明王が不平を洩らした。
「誰も死んでいにゃいからいいんですよ」
金剛夜叉明王が笑った。
「或子ちゃーん、この貸しは添い寝一回でいいよお」
愛染明王はこの期に及んでもマイペースだった。
「もー、先輩方、もう少し早く来てくださいよー。てんちゃん、胃が痛くなっちゃいましたー」
軍荼利明王は可愛く頬を膨らませる。
……その様子を御子内或子は泣きそうになりながらぼんやりと見つめていた。
全員、或子のボロボロになった身体を一瞥してから、〈深きもの〉どもと奥に直立した大海魔をぎんと睨みつけた。
「オレらのダチを散々いたぶってくれたようだな、魚ども」
「まったく数が要ればいいとかこれだから邪神にゃんて時代遅れの連中は……」
「うちも珍しくちょっとだけ怒っているかな、かな」
「―――絶対、
敵は何百にも及ぶ〈深きもの〉と海魔〈ダゴン〉。
味方はたったの六人。
しかし、この六人は―――万人が恐れおののく神にさえも弓引く最強の闘士の群れであったのだ。
しかも、友の仇を討つという火山のような怒りが、脳内から腹腔にいたるすべてに満ち満ちていた……
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