第666話「邪神と神のRONDO」



 僕の呼びかけに応じたのか、世界が変質した。

 空気が液体のように流動化し、次の段階で凍りつき、さらに固形化し、肌にまとわりついてくる。

 それまでなんとも思わなかったものが一気に触感に触れてくるということは、まるで無数の虫に全身にたかられるようだった。

 一言で不愉快。

 しかも吐き気がするほどに。

 全身をかきむしりたくなるような気持ち悪さだった。

 もちろん、その影響は僕だけにとどまらず僕を囲んで凹ろうとしていた〈深きもの〉どもにも及んでいた。

 動きがぴたりと止まってしまったのだ。

 何百匹もいそうな怪物全てが。

 なのに、僕だけは動いている。

 だから掴みかかろうとしている〈深きもの〉をかわして僕は逃げ出した。

 そこからわかるこの現象の正体は、


(時間停止?)


 さすがに初めて体験する怪現象だった。

 僕以外のすべてのものにとっての時が止まっているのか。

 いったい、どんな力が働けばこんなことが起きるんだ。

 発狂もせずにこんな状態を受け入れる僕も大概だとは思うけれど。

 とはいえ、この状況をもたらしたものに心当たりがある以上、僕の次のアクションは決まっている。

 

(どこだ?)


 見渡すと、クトゥルーの像のある手前の空間が歪んでいる。

 歪んでいるというよりも色が変わりだしていた。

 怪しさを増しながら、光り、色づいている。

 空間そのものが子宮の被膜となり、この世の者ではないものを育み産みだそうとしているかのようであった。

 びくん、びくん、と波打っていた。

 出産間近の妊婦の蛙腹を思わせた。

 ヨグソトト―――輝く球体の塊。

 閉鎖空間に風が薙いだ。

 音が凪いだ。

 比較的近いもので例えるなら殺気に類似した緊張感が満ちる。

 全ての光がかき消え、音が止む。

 

 光が黒に置換し、闇が輝きを放つ。

 常識が入り乱れ、混沌こそが秩序を駆逐する。

 このとき世界を支配したのはまさに暗黒そのものであった。

 空間をぶち破りこの世界へと顔を出そうとした邪神は、まずは邪魔なの像を崩壊させた。

 クトゥルーのために用意されていた依代は破壊され、メタンハイドレート鉱脈と直結していた龍脈から〈深きもの〉ども―――C教徒が盗み取っていた地球の力が略奪される。

 C教徒たちは邪神の像を媒介として純粋な光の力を闇へと変化させ、再び龍脈に流し込むことで地球の反対側にある彼らの都へエネルギーを送るつもりだったのだ。

 かつて復活しかけたときに―――1925年には快速船さえも逃すほどに力を消耗していた邪神のために絢爛豪華な力の虹を捧げるために、何十年もかけた邪悪なたくらみの結晶が結実しようとしていたのに、それが奪われたのだ。

 僕は輝く触手が闇に君臨する世界を垣間見た。

 その瞬間発狂し、次には完全に正気に戻る。

 何故かは簡単だ。

 今、僕の躰にはかつてを調伏した明王の化身が張り付いていたからだ。

 これがたゆうさんが僕を推した理由。

 僕には〈五娘明王〉とは違う別の明王が顕現していたのだ。

 ―――荒れ狂うえ降三世明王。

 三千世界を支配するシヴァを斃した天敵よ。

 例え、〈銀の鍵〉の解放によって世に復活する異次元の邪神であったとしても天敵相手には思うようにはでられまい!!

 僕は〈銀の鍵〉を抱いたまま〈深きもの〉どもの群れに躍り込み、時が停まった奴らの脇をすり抜けて、ヨグソトトのもとに躍り込む。

 そして、その尖端をどうやって運び込んだのかもわからぬ像にぶつけ、


「ヰグナイイ……ヨグソトト……好きに暴れるがいいさ。だけど、僕の中に居る……オン キリキリ バザラ ウンハッタ―――明王の枷を喰らえ……!!」


〈深きもの〉どもが〈ハイパーボリア〉で一日中呪文を詠唱を続けることで溜めていた妖力が爆散する。

 それは異世界から顕出しようとしていたヨグソトトに吸収されるが、邪神の天敵である聖なる力によって抑圧された。

 魔力も妖力も神通力も仏の力も、すべてが混ざり合い、黒を中心とした七色に変わっていく。

 そして、もっとも力の奔流に耐えきれなかったクトゥルーの像が四散し、衝撃で〈深きもの〉どもが動き出す。

 だが、時は遅し。

 こいつらが信仰していた神の復活の道は断たれた。

 龍脈の力はC教徒の目論見から外れ、異世界の邪神のもとに集まっていく。

 それなのに破裂したはずの像の眼の色が黄金に輝く。

 妖魅ではない邪神の放つ光輝だった。

 まだ、海底の邪神は諦めていない。

 その力が上方に迸っていくのを見送りながら僕は〈銀の鍵〉を振るってもう一度命じた。


「降三世明王よ、ヨグソトトの化身と戦え」


 異世界の壁の隙間から見たこともない仏法の守護者が顕れ、黒い輝く光の球体を押し潰す。

 あれが五大明王の本当の一柱・東を護る降三世明王なのであった。



               ◇◆◇



 そして、同時に、クトゥルーの眷属たちが張った結界が破れる。

〈ハイパーボリア〉を包む嵐に一瞬の停滞が起きた。

〈ダゴン〉の力にありえない対極からの干渉が入ったのである。

 雨がやみ、風が止まる。

 そして、暗やみに一陣の光が差す。

 巨大な海上基地を見下ろす遥か高みに位置する一機の飛行機の中にいるものたちが視線を交せあって大きく頷く。


「―――待たせやがったな、コラ」

「ホント、ひやひやするねえ。うちらの出番なんてないかと思った。生理が止まりそうだよ」

「京いっちゃんにしては仕事が遅い」

「何、やることがあるだけ良しとしにゃいと。でにゃいと、長時間拘束されたもとがとれませんから」

「確かにな」


 嵐の影響を受けない遥か上空を永延と旋回していた飛行機のハッチが開く。

 踏み出したのは四人の巫女たち。

 彼女たちは彼方に浮かぶ海上の基地をとんでもない視力で確認してから、


「京一さんを助けますよ」

「あと、抜け駆けした爆弾小僧もな」

「生きていればいいけれど」

「もう、オトコちゃんはツンデレなんだから。素直に心配していればいいのに」

「あんた、後で殺す」

「ひえええ」


 この期に及んで、ごく普通のガールズトークをかまして、彼女たちは一歩踏み出した。

 

 空中に。


 何のためらいもなく。


 友のため。



 

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