第665話「心中二人」
〈ダゴン〉は獲物をとることもできなくなるぐらい細く小さくなった両腕を振り上げて、さらに嵐を呼びこんでいた。
激しくなる風も滝のように落ちてくる雨も勢いは一切止むことがなかった。
その二つの中で御子内或子は、襲い掛かる〈深きもの〉を蹴散らし続けていた。
右拳を平たい顔面に叩き付け、左の回し蹴りはたるんだ脂肪に守られた腹筋を貫く。
例え掴まれたとしても強引な握力で引き剥がし、頭突きで頭蓋骨を破壊し返す。
〈ハイパーボリア〉に新たに上陸してきた〈深きもの〉どもは総勢千匹。
すでに邪神は彼女のことなどちり芥以下にしか感じていなかった。
コバエと一時間ほど遊んでやっただけのことだ。
後始末は臣下に任せてしまえばいい。
直々に始末する時間は終わった。
それに―――
最後にちらりと大海魔は足元を一瞥した。
雲霞のごとき〈深きもの〉の群れに取り込まれてしまえば、どんな敵でも飲まれて終わりだろう。
例え邪神であろうと主神クラスでない限り、待っている運命は決まっている。
あの小さき定命の者はもうすぐ死ぬ。
八つ裂きにされて死ぬ。
それが神に弓を引いたものの
「ハァハァハァ、―――でりゃ!!」
すでに或子は叫ぶこともできなくなっていた。
撃つ拳も、放つ蹴りも、威をなくしていた。
〈気〉も尽きかけていた。
「うっ。……ここにきて効いてくるとはね」
内臓がねじ切れるように痛い。
京一に飲まされた毒の後遺症だ。
強引に流しだしたとはいえ、一度効いてしまった毒の暴走は止まらない。
並みの人間なら何百人も殺してしまえるような猛毒を服用して、今のような動きができているだけでも奇跡なのだ。
或子は雨の水滴よりも熱い汗をかきつつ、群がる敵たちを屠り続けていた。
痛さも苦しみもすでに忘れかけていた。
戦いの昂揚と力の限り振る舞う爽快感ではない。
そんなものにかまけて、唯一無比のチャンスを逃してしまったことへの後悔だった。
あのとき、〈ハイパーボリア〉に上陸した直後であれば、すぐにでも階下に赴き彼女の相棒と合流できたはずなのに。
〈ダゴン〉など無視すれば良かったのだ。
それなのに神殺しの宿命に溺れ、戦いを選んでしまった。
そして、このざまだ。
斃すべき敵は高みの見物。
有象無象の雑魚に取りつかれてもう潰される寸前。
惨めだった。
〈星天大聖〉と二つ名で呼ばれて驕っていた訳はない。
最強と言われて己惚れていたこともない。
ただ、一度だけ力に溺れただけだ。
しかし、それが最悪の一度だったということが情けなかった。
おかげで大切な少年が魂を無くすことになる。
死よりも恐ろしい魂の穢れを受けて、未来永劫贖罪の余地のない地獄へと落としてしまう間接的な手引きをしたのは彼女ということになるのだ。
だから、或子も罪を贖わなければならない。
夜明けになれば深海の儀式は完成する。
その前にあの〈一指〉の少年が止める。
どうやるかはともかく、きっとやるだろう。
あの少年はそういう類いのものだ。
神に愛されたはずはなく、逆にその神に踏みつけられて弄ばれてもがき苦しんで来た人間の象徴のような存在だ。
邪神たちのおぞましい企てを確実に喰い止めるだろう。
だから、夜明け前にすべては終わる。
彼の死とともに。
生き残る可能性は万に一つもない状況だから。
升麻京一の命と引き換えに多くの人が邪神の餌にならずに済む。
或子は何もできなかった。
助けることも出来たのにしなかった。
彼女だけはできたはずなのに。
代わりに、彼の旅立ちに付き合うことにした。
夜明けまでは堪えよう。
この〈深きもの〉どもがどれほどの圧力をかけてきたとしても。
―――それはある意味では自殺であり、相棒の少年との心中であった。
◇◆◇
ライターに炙られたガソリンは発火どころか爆発した。
前に〈S.H.T.F〉での訓練で散々ガソリンの炎上実験をしていたので、この程度は想定済みだ。
冒険野郎マクガイバーもかくやという敵地潜入訓練をさせられたのはこのためだった。
〈ティンダロス〉を吹き飛ばしたのは見たこともないぐらいに巨大なタコの化け物だったが、業火に戸惑ったのか僕を素通りさせてしまう。
これも〈一指〉の力かな。
そして、僕は最下層にある地下探索艇がずらりと並んでいるはずのドックに辿り着いた。
この施設の中で最も広い場所は写真で見た限り、もっとがらんとした空間だったはずだが、今は途轍もない密度で埋まっていた。
夥しい〈深きもの〉が芋洗いの海岸よりも酷い数詰め込まれていたのだ。
それだけではない。
あちこちに大量の朱い血がこびりついていた。
誰かが―――いや、もっと多くの人々がここで喰われたのだ。
なんのために?
あの、中央に建てられた像に捧げるために。
オクトパスを模したような頭部、いくつもの触腕を生やした顔、巨大で鋭いすぎる鉤爪のある手と肢、ぬらぬらした鱗に覆われた小山のごとき大きなゴム状の身体、背面にはコウモリのような細い翼を広げていた―――邪神の似姿。
あれがクトゥルー―――海中の邪神。
今、この〈ハイパーボリア〉で多くの人間と化け物を生贄にして復活しようとしている太平洋の反対側に眠る恐怖の大海神。
たかが像を見るだけで背筋が凍りつくのは、これまで見ていた化け物や小物の邪神などが比べ物にならないホンモノの怪物だからだろう。
耳鳴りのするような呪文の詠唱が続く中、そのうちの一匹が僕を指さした。
数多くの黄色い瞳がぎらりと僕を睨みつける。
何か叫んだ。
多分、「贄だ!!」あたりだろう。
こいつらからすれば生贄は多ければ多い方がいいはず。
僕も他の人たちと同様に捧げるつもりなのだろう。
でもね、誰もがおまえたちの犠牲になるとは限らない。
左に大きな衝撃が走った。
腕がなくなったような虚無感だった。
実際に持ってかれたのかもしれない。
今度は顔を殴られた。
右眼が視えなくなった。
まあ、〈深きもの〉に殴られたら普通の人間なら即死だろうね。
偶然生きているだけ。
でも、それもどうでもいい。
僕はやるだけだ。
〈銀の鍵〉を握りしめて掲げた。
化け物どもがやや怯む。
こいつらでもこうなることはあるんだね。
少しだけ謝りたくなった。
「ごめん。僕はおまえたちの邪魔をするよ」
こいつらにとっては悲願だったかもしれないことをぶち壊す訳だ。
でも、それで多くの人間を助けられるのならそれでいいし、なによりも。
―――御子内さんたちを救える。
だから、僕は〈銀の鍵〉に向けて怒鳴って念じた。
「イア ヨグソトト!! ここにやって来い、<一にして全>、<全にして一>なるもの!! おまえがここに来たがっているのを僕はよく知っている!! だから、来たれ、過去、現在、未来のすべてを支配するヨグ=ソトース!! かつてシヴァと呼ばれたおまえを調伏した降三世明王の力を借りて命ずる!! やってきやがれ!!」
僕は本来ならば決して地球上に呼んではならぬ異次元の邪神をここへと召喚した!!
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