第660話「新造神として」



 大海魔ダゴン。

 過去、多くの滅びて喪われていった民族・種族が海神と讃え、崇拝してきた巨大な魚人。

〈深きもの〉と呼ばれる怪物どもを従え、七つの海を蹂躙してきた神話そのもの。

 それが遥か高みから御子内或子を睥睨していた。

 姿を現したときの筋肉質の彫刻のような上半身は痩せて一回り小さくなり、逆に下半身は分厚いどれほどの体重でも支えられるようながっちりとした体格になっていた。

 逆三角形がひっくり返ったとでもいうべきか。

 手は枯れ枝のようだが、なおそれでも問題はないであろう。

 小賢しいちっぽけな生き物など踏みつけてしまえばいいのだから。


「―――さて、どうする?」


 或子は自分に問いかけた。

 残念なことにどんな解決策も浮かんでこない。

 彼女の必殺の〈闘戦勝仏〉も他の技もどれもこれだけの大きさの敵相手に効くとは思えない。


「そもそも人が邪神に挑むってのが、まず無理解ゲーということかな」


 身も蓋もない感想を漏らす。

 当然のことだが、ニンゲンごときが神に抗うことがまず不遜であり不敬なのだ。

 彼女の感想はまさに真理そのものだった。

 だが、口元には笑みが浮かんでいた。

 恐怖による引き攣った笑いではなく、スリルとショックによってもたらされる刹那的な享楽を味わうためのクレイジーのためのものだ。

 もともとがバトルホリックのきらいがある人格であったが、この限界的な戦いにおいてさらにそれが顕著になって表れていた。


「だけどまあ、ボクにもちょっと退けないことはあるんだ。―――こんな魔界にわざわざやってきた奴を叱り飛ばすっていう理由わけがね」


 或子は周囲をじろりと睨んだ。

 酷い廃墟だった。

 しかも、夜の嵐の中ため、どうみてもただの地獄の一丁目だ。

 ところどころに血が飛沫き、生き物の死骸、魔物の残骸が散らばり、銃痕、傷跡、泥とちり芥が堆積している。

 すでに足の踏み場もないほどに荒れ果てた日本の夢の墓場は、彼女には懐かしさすら感じさせた。


(結局、ボクは地獄こーゆーとこに舞い戻る運命なのかもしれないね)


 幼いころの記憶をたどる。

 彼女を責めさいなむ異常な殺戮の宴と、炎と風、吹雪の記憶。

 東南アジアの一角のとある国の、ちっぽけな町に訪れた死の来訪。

 ただ一人の生き残りの彼女は連れ去られて、巨大な石に括りつけられ、地の底深くに幽閉された。

 虐待という言葉が空気のように軽く思える拷問よりも酷薄な時間を何年も過ごした。

 生きていたのは奇跡ではない。

 死なないようにされていただけ。

 死んでしまっては本も子もないから。

 そして、彼女の無残な境遇はあるやんごとなき人物に救い出されるまで続き、ぎりぎりのところで日本に帰ってきた。

 何故か言葉は忘れていなかった。

 父と母が教えてくれたのは言葉だけだったからだ。

 もう何一つ覚えていない本当の両親。

 きっとあの村で死んだはずの父母。

 ただ一人生き残ったということでサバイバーズギルドという罪悪感を背負いかけたこともあり、メサイアコンプレックスを発動しかけたこともある。

 なのに、或子はまだまっすぐに生きていた。

 血だらけの記憶を所持しながらも。


「―――仕方ないか。ボクの中の英雄はそんなのを意に介さないんだから。思い悩むのはヒトの仕事。ボクらは殺伐とした軍神や英雄なんだってことさ」


神釼・大元帥明王法しんけんだいげんすいみょうおうほう〉の真の効能はここにあった。

 巫女に神を降ろすのではない。

 巫女を神に伍する存在に昇華するのだ。

 そして、少女たちは呪法の力を借りて聖人・聖女に成り果てた。

 惨酷なヒトの残骸に。

 

「キミらを斃すためにはこのぐらいはしないといけないということみたいだよ」


 と、友にでも話しかけるように呑気に或子は語った。


 ―――ニンゲンの作った新造神。


(邪神とどつきあうには、よく頑張った方だと思うね)


 或子はヒトを恨まない。

 憎んだり、墜ちたりするのは英雄ではない。

 純粋無垢で高潔なものほど高みから蹴落とされ最悪の悪魔サタンになるという現実と照らし合わせると、英雄というのは清らかで優しいものではないのだ。

 だから、或子にはわかる。

 ボクたちのような戦うためのカラクリこそがこの場には相応しい。

 と。


「―――快くまで殲滅ころしあおうか、〈ダゴン〉」


 にっと彼女は笑った。

 ヒトのものではない歪んだ微笑みであった。

 ついさっきまで探し求めていた少年の面影が脳裏から消えかかっていることに彼女は気がついてさえいなかった。

 その影が薄くなるごとに、御子内或子からいくつも大切なものが剥離していくことを意識することもなかった……





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