第659話「御子内或子VS大海魔〈ダゴン〉」



 風雨渦巻く海上の鉄の塊の上で、一人と一柱が睨みあう。

 一人は驚くほどちっぽけな存在であり、もう一方はどうやって育ったのかもわからないほどに巨大な怪獣。

 だが、両者は互いのことを強敵だと認識し合っていた。


「邪魔だ、とは思わない。キミにも通すべき理があり、守るべき義があるだろうからね」


 御子内或子は、全長二十メートルはあろうという魚と人間のハーフの怪獣を見上げた。

 千人近くが居住できる〈ハイパーボリア〉の巨大さに比べれば、どうということはないが、身長150センチそこそこの或子とは全く違う。

 ボクシングやレスリングの世界で階級と呼ばれる体重ウェイトのハンデがどれだけの差を産みだすかわかっているものならば、骨身にしみて理解できるものだろう。

 大人が赤子の手をひねるよりも容易だと。

 なのに、大海魔―――信者も敵も彼のことを〈ダゴン〉と呼ぶ―――は不用意に仕掛けようとはしなかった。

 彼の頭の中には数か月前の忌まわしき記憶が残っていたからだ。


(ナウマク サンマンダ バザラダン カン―――〈不動明王神腕槌ふどうのあきらおうしんわんのつち〉!!」)


 ここからそれほど離れていない場所で、彼は同じような色合いの格好をした小さなものに痛い目にあわされ、退却を余儀なくされた。

 神の眷属としての彼が小さき生き物に敗走させられるなど、ありえないことであった。

 彼が魔術的生き物であることから、彼の全身を巡る魔力を逆位置に回すことで退散させるという方法でならば退却させられたことはある。

 人間という生き物の中には小賢しい知恵のあるものが多く存在するからだ。

 数年前も、太平洋という海のど真ん中で巨大な鉄の鳥を飛ばす船と戦ったことがある。

 愚かなものたちのちっぽけな武器のせいでややてこずったが、実際のところ大したことはなかった。

 あのとき眠りにつかざるをえなかったのは別の要因のためだ。

 実際、人間などは彼にとって障害にすらなり得ないはずであった。

 なのに、ダゴンは胸に大きな打撃を受けてあまりの衝撃に退散しなければならなくなったのである。

 ちっぽけなニンゲンのために。

 そして、彼の足下にいるさらにちっぽけなニンゲンは神の眷属たる彼の眼は、異常な力を持っていることを見抜いていた。

 二千年近く昔ならばこのようなものもよくいた。

 彼がまだ稚魚だった頃のことだ。

 だが、今の世界にこんなものがいるとは思ってもいなかった。

 ダゴンは愚鈍ではあったが、知恵があった。

 と思う程度の知恵があったのだ。

 ゆえに、吠えて、足を振るった。

 水中を棲家とする故、自重を支えて立つには不向きな足ではあったが、〈ハイパーボリア〉という陸に上がってしまった以上、それを使うしかない。

 当たれば鉄骨さえも薙ぎ倒す蹴りではあったが、或子にとってはどうということもない。

 蹴るポイントは〈気〉の流れでわかり、タイミングは予測しやすいテレホンキックだからだ。

 蹴りによって撒き散らされるゴミさえ気を付ければ、速度と体術で躱すのは可能。

 要するに、いつもよりもはるかに大きいだけで、いつもの妖魅退治とたいしてかわりはしないのだ。

 問題は〈護摩台〉の張る結界がないことぐらいのものと、あまりのサイズの差を埋めるための直接的な方法がないということだけだ。

 しかし、通常ならば誰もが恐れおののくだけの敵に対しても彼女は怯まなかった。

 なぜなら、両足が踏ん張れる足場があるからだ。

 船の上とは違い、狭くもない。

 巨大海上施設は上から見るとひし形をしているからか、感覚は〈護摩台〉のそれと近い。

 

「……巫女レスラーたるボクにとってはむしろ向いているといえるかな」


 何度目かの蹴りを躱されると〈ダゴン〉は尻もちをついた。

 もともと地上戦はやったことがない。

 蹴りという行動もほとんどやったことがない。

 ゆえに何度も攻撃を空ぶると身体にかかる負担が増すのである。

 水中戦ならばともかく地上に顔を出してしまい、うかうかと或子の挑発に乗って〈ハイパーボリア〉に乗り込んでしまったのが失敗だった。

 或子はただ身軽に避けるだけなのに、〈ダゴン〉は自重によって足を無効化させられてしまったのである。


「これでどうだい? 邪神の眷属!!」


 どっしりと座り込んだ〈ダゴン〉の顔の高さは十メートル前後。

 なんとかすれば拳が届く範囲だ。

 或子は全身の〈気〉を強化する。

 これから神を斃す。

 コツは夏の孤島で掴んでいる。

 秘めた斉天大聖の力を解放するだけのことだからだ。

 たまたま〈ダゴン〉が回した腕が彼女の進行方向に飛んできた。

 それを、


「でりゃああああああ!!」


 と大きく振りかぶった右ストレートで粉砕する。

 野茂のトルネードにも匹敵する螺旋を描いたパンチは何百倍の体重差をものともしない。

 逆に攻撃を逸らされた〈ダゴン〉の脇腹が開く。

 ひゅうううううう―――

 風を切る呼吸音。

 そのまま唸りをあげる竜巻めいた回転。

 トルネードを超えるタイフーンとかした全身が練りだした〈気〉を発勁としてぶちかます。

 通常の兵器すらものともしない硬すぎる表皮も、退魔巫女の清廉な〈気〉を通すと肉と骨にまでダメージが浸透する。

 かろうじて生き物の範疇に含まれるだけでなく、あまたの妖魅を退治することで練り続けられた或子の〈気〉は怪物にとって毒にも等しい。

 瞬く間に浸透していった〈気〉は分厚い肉を抜いて邪悪な生命を維持するための内臓に達した。


『!!!!!』


 初めての痛みに〈ダゴン〉は悶えた。

 以前、食らったものよりも痛みという点では強い。

 内臓そのものを抉られたのだから当然だろう。

 小さなものに加えられたまさに蜂の一撃でありながら、とてつもない激痛が〈ダゴン〉を怒らせた。

〈ダゴン〉が止まる。

 嫌な予感がしたのでいったん距離をとる。

 すると、いままでだらしなく女の子すわりにようになっていた足が急に太さを増していく。

 上半身に集中していた筋肉が雪崩のように下半身に流れ落ちていくようだった。

 普通の生き物にとっての筋肉というものはそういうものではないが、邪神の肉体にとっては違うのだろう。

 流体の細胞のように上下の肉付きが入れ替わる。

 そして、〈ダゴン〉は再び立ち上がった。

 雄々しい彫像のように。

 あの逞しい両脚の力で陸地の不利を払しょくしてしまったのだ。


「まるで、進化だね……」


 さすがの御子内或子が驚嘆するような変貌を遂げて、〈ダゴン〉はまたも高みから或子を見下ろしていく。


「これはもしかしなくてもヤバいかもね……」

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