第661話「〈ティンダロス〉と僕」



 正直に言って、僕は窮地に陥っていた。

 そもそもこんな〈ハイパーボリア〉なんてところに来た時点でもうとんでもなく八方ふさがりのはずだが、その中でも究極にヤバい事態になっていたのだ。

〈ハイパーボリア〉へ向かうという以前から少しずつ、退魔巫女のみんながやっていた座学というものを受けていたのだが、その中には当然に関する知識についてのものもあった。

 例え僕が遭遇することはなかったとしても、御子内さんたちがぶつかることがあるかもしれない。

 学んでおくに越したことはないからだ。

 だけど、まあ莫大な量の知識が存在するため、僕が必死に頑張っても氷山の一角を埋めるのが精いっぱいだった。

 御子内さんたちはかなり深いところまで暗記しているというのに。

 彼女たちは実際の学校の試験でも常に上位クラスにいて、全国模試でも100位以内は普通にとってくる秀才揃いだ。

 有名な神社の家系の出身という育ちの良さもあるが、もともとどんな業界でもある程度の地頭の良さがないといけないという事実を突きつけられている感があって、平凡だった僕としてはショックがあったのは内緒だ。

 ちなみに、世界に出られるほどのアスリートだと身体的能力以外にこういう「脳」の能力というものも重要で、女子サッカーのなでしこジャパンの選手だと普通に勉強をしていれば東大に合格できるほどの頭脳の持ち主ばかりらしい。

 それらをサッカーに全振りすることで彼女たちは世界一になったのである。

 となれば世界最強クラスの闘士である御子内さんたちが知力で優秀なのもわかるというものだ。

 話を戻すと、彼女たちに及ばないとしても必死になって覚えた邪神の眷属―――というかそれにまつわる伝承・神話の類いの中に語られている、とある怪物がいた。

 粘着性のある青みがかった液体のようなものを垂れ流して、こちらをじっと見つめている黄色い瞳。

 眼の位置が平べったいのに犬のように斜めになった顔をし、脈動する心臓のような舌らしき食管を上下に動かしていた。

 四つ足だが、後肢が妙に長く、そして、前肢には一つしかない関節が三つあって、三角定規のようであった。

 肩甲骨が大きく広がり、まるで短く飛べない翼を思わせる。

 見たこともないほどに異形の化け物―――だが、僕のイメージの中ではどことなく狩猟者てきなものを感じさせた。

 つまり、あの黄色い妖魅特有の目は僕を獲物として見ている。

 そう思えるのだ。

 さっきから僕の方を通路のからじっと凝視しているのに、なにもしてこないというのははなはだ不気味だけれど。

 しかし、あれはおそらく〈〉じゃないだろうか。

 僕の知る中でも最悪に近い怪物だった。

 しまった。

 素直にそう思う。

 挿話を聞いただけでもう僕の最期は決まったようなものだった。

 正しく僕の教わった通りの怪物ならば、あれからは絶対に逃げられない。

 あれはそういう生き物なのだ。

 だとしたら、もうやることは一つだ。

 あいつに殺られる前にしなければならないことを終わらせる。

 だが、おかしなこともあった。

 不浄がそのまま形態をつくったかのような肉体から強い刺激臭を発し続ける〈ティンダロス〉の接近はよくわかるのだが、僕が近づく何と少し後退した。

 怯えてのものではなく、何か躊躇っているそんな素振りだ。

 何か理由があるのだと思うけれどはっきりいってわからない。

 あいつが僕を見初めた理由もわからない。

〈ティンダロス〉というものに眼をつけられる理由は一つしかないと聞いていたけれど、僕は〈ハイパーボリア〉にやってきてからそんな行動をとった記憶はない。

 となると、今日以前の話のはずだけれど……

 かつて過去に遡ったり未来を見に行ったりしたことって、僕にあったっけ?

 

(あ、あの時のラブホテル……)


 あのぐらいしか思い当たる節はない。

 しかし、あれは僕の夢だったはず。

 だから僕の夢に性懲りもなく居座っているサム・ブレイディが姿を見せた訳だし。

 他に何かあっただろうか。


「でも、あれにストーキングされたままでここから先に行くのも不安だよね」


 伝承通りならば、一時的な撃退は容易い相手のはず。

 だったら、最終的なゴールはさておいたとして、この場ではお引き取り願うことにしよう。

 すべてが片付いた後ならば、殺されてやってもいい。

 そのぐらいの覚悟は僕にでもある。

 

「―――じゃあ、ついてきなよ」


 僕は歩き出した。

 ここ下層XブロックのDは、通常の建築物ならB2階ほどにあたる。

 最深部は「B」。

 ここの「A」というのはBにあるハッチからでた深海探査艇が収まるための、檻のようなスペースのことを指し、事実上の深海底のことだ。

 だから、あと二つ階段を降りればいいのだけど、僕が足踏みをしていたのはこのDにとんでもない怪物たちが血と血と洗う殺し合いをしていたからだ。

 巻き込まれただけですぐに虫けら同然に潰されてしまう争いの気配を避けて、僕はここを調べた。

 すでに人間サイズの〈深きもの〉や教団の魔術師は見なくなっていた。

 もうそのレベルではないということ。

 人間相手に無双できるような魔人・怪物でもゴミのように殺されてしまうのが今の下層部なのだ。

 しかも―――

 背後を見る。

 直角の壁のあちらから〈ティンダロス〉がこっちを執拗に見つめている。

 ―――あんなのまでうろうろしている魔界だ。

 僕がこうやっているだけでも奇跡的だった。

 一瞬も休まずに、怪物たちが僕という人間を殺すためにはどれだけの時間を与えてくれるかを考え続け、自分のやれる範囲の行動を導き出し、必死でそちらに舵を取るということをやり続けてようやく生き残れたのだ。

 少しでも考えること、走ることを止めたらもう終わり。

 僕は簡単に天に見放されてあっけなくくたばっていただろう。

 そして、今回もそうだ。

 この〈ティンダロス〉から逃れることと、ついでに利用することを考えた。

 

 くんくん……


 鼻が刺激臭を嗅ぎつける。

 後ろからではない。

 前からだ。

 これは鉄分の饐えた臭い。

 つまりは血の匂い。

 そして、この臭いをさせるものは―――さっきの透明吸血怪物だ。

 臭いで探せるこいつを僕は探していたのだ。

 

「―――!!」


 僕は走った。

 三度あいつの殺しを見た。

 血を吸うたびに体内に朱い液体が循環し、姿を現す怪物のディティールを僕は正確に把握していた。

 その吸血が鼻のような管からすることと、手がそんなに長くないことも見抜いていた。

 要するに……


(脇をすり抜けられる!!)


 例え透明といえども何度もシルエットを見せて情報を与えたら意味はない。

 僕はあっけないほど簡単に透明の怪物の腕を躱しきった。

 数多くいる種族でないのが助かった。

 一匹を交わせばなんとか逃げられる。

 しかも、こいつはを躱せば―――


『!!!!!』


 逃げる僕を追跡していた〈ティンダロス〉が慌てていたからか、透明な巨体に遮られた。

 

 だから、

 それだけに賭けた。

 薄紙一枚の奇跡に倍々プッシュでチップを賭けたのだ。

 後方で二匹の怪物たちが転げまわる音が聞こえた。

 こちらの思惑通りに噛みあってくれたらしい。

 よし、あの透明吸血怪物を足止めできたのならばもう一階下に行ける。

 

 ―――!!


 その時、僕の通信機がまたも震えた。

 発信者は、〔フェィスレス〕とあった。

 無貌の男ってことか。

 だいたい誰だかわかるけれど。

「……何?」

〔まだ健在とはさすがだ。私が選んだだけあるよ〕

「邪魔だよ、孟賀捻」

〔まあ、そういわずに。心配なさらずに、君を追跡していた怪物と〈星の精〉はあとしばらくは互いに殺し合っているさ〕


 ……どこで見ているのやら。

 まったく、気味が悪い。


〔今、連絡を取ったのは、君にどーしても伝えたいことがあってなんだ。むしろ感謝してほしいな〕

「しないから、さっさと用件を言って」

〔まったくつれない〕


 僕からすれば釣られたくもない。

 だが、通信機越しに悪魔が語った一言に僕は破壊される。


〔―――さっきから上階で大きな音がしているのに気が付いていますね。あれは〈ダゴン〉が戦っている音なのですが、それがとの激突によるものか教えて差し上げましょうかね。―――あれは、君が尊敬して憧憬して崇拝してやまない一人の少女とのものなのですよ〕









 ―――ああ、御子内或子。






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