第664話「犬と僕」



 金属が劣化で割れるようでいて重低音が原子すら震わすような獰猛な雄叫びを上げて、〈ティンダロス〉が走り続ける。

 途中で二度ほど始めて見る得体の知れない怪物を牙で引き裂き、棘管のような舌で刺殺してほとんど遅滞なく通路を駆け抜ける。

 結果として、あの恐ろしくでかい透明吸血怪物を斃したのであるから、見た目以上に危険で凶悪な生き物であることはわかっていた。

 しかも、敵に飛びかかるとき、一回どこへともなく消えて、何もない角度から襲い掛かるというトリッキー極まる狩りをするのである。

 透明化や瞬間移動とはまた違う、あり得ない奇襲方法についていける怪物がいないのであった。

 あれでは、通常兵器のみならず〈社務所〉の退魔巫女ですら歯が立たないだろう。

 唯一勝てそうな人はいないことはないが、その女の子はここにはいない。

 つまり、〈ティンダロス〉は無敵で、無人の野を走るがごとく、

 

(まったく、どんな手でも使うとは言ったけれど、こんな気が触れたような護衛が付くことになるとは……)


 僕としても予想外の事態だった。

 孟賀捻が僕に教えた〈銀の鍵〉の使い方の一つがだったのだ。


〔―――その鍵の所有者であるのならば〈ティンダロス〉を使役することが叶いますよ。さっきから君をつけまわしているのはそのせいです。獲物として捕捉したのではなく、〈銀の鍵〉の所有者として仕えていたということですね〕


 試しに呼び出してみたら、なんとすぐに僕の傍にやってきた。

 相変わらず壁やら器材の陰に隠れてはいるが、さっきまでのように敵対的な感じはしない。

 どうやら、僕が〈銀の鍵〉を使う腹を決めたことで従属する気にでもなったらしい。

 そうなるとさっきまでは中途半端で忌避していたせいで単なる盗人などと勘違いされていたのかもしれないね。


「なんで〈ティンダロス〉を使役できるんですか?」

〔仕様です〕

「……酷いはぐらかし方」


 とりあえず〈銀の鍵こいつ〉の取扱説明はともかく企画書などは渡す気はないらしい。

 でもいい。

 手段を択ばないと決めたのは僕自身だ。

 例え魔物の力でも猫の手よりははるかに強力だろう。

 少しだけ〈銀の鍵〉での〈ティンダロス〉の操作法を練習すると僕は今度こそ、一つ下のXブロックC区画へと降りた。

 今回は簡単に〈ティンダロス〉を先行させた。

 C区画にどんな化け物がいるかどうかなんて構っていられない。

 下手をしたら〈ティンダロス〉やさっきの透明吸血怪物以上のものがいたっておかしくはないのだ。

〈ティンダロス〉だって無事では済まないだろう。

 だが、悪いけれど魔物からの好感度や使い減りを気にしている余裕はない。

 一刻も早く僕は最下層に辿り着かなければならないのだ。

 Xブロックはいざという時に備えてか、階段が一つではなく階ごとに交差するように設置されていて、さらにBに降りるためにはこのCの長くはない通路を行かなければならない。

 すでに麻痺しきっているせいで血潮も汚物も死体もすべてを見なかったことにして僕は走る。

〈ティンダロス〉はここでも二度ほど戦闘したが怪我さえもしていない。

 それどころか横合いから現われた片手にチェーンソーのついた〈深きもの〉を牙の一閃で絶命させるというとんでもない戦闘力を示し続けている。

 あんな噛み合わせの悪い牙では餌はとれないだろうが、どのみちまっとうな生命体ではないだろうからどうでもいいことかも。

 しかし、あれだけ攻めあぐねていたC区画へのアタックが順調に進んだのは助かったというべきだろう。

 あと、この階に残っていた怪物どもが比較的少なかった―――むしろほとんどもぬけの殻状態だったのかもしれない。

 そりゃあ、そうである。

 もうすぐ夜明け―――わはたれ時だ。

 邪なるものたちの儀式が始まる。

 いや、もう始まっているから参加者は開場手続きを済ませて宴もたけなわなのだろう。

 わざわざお祭りの最中に外でぼけっとしているのはいない。例えバケモノでも。 

 間に合うか。

 最深部Bへと降りる階段に辿り着いた。

 今までも大概だったが、それを遥かに上回る凶悪な悪臭がもう暗雲のように漂っていた。

 散々吐き気を催す臭いというものを嗅いできたけれど、ここにいたってなんと僕は物理的に存在感のある臭気というのにぶつかったのである。

 室内に充満しているガスが重さを有したものというべきか。

 手を振ると比重の薄い水の中を歩くような抵抗を感じるのだ。


「……まあ、ガスの可能性もあるのか」


 むわっと立ち込める臭いの中に足を踏み入れるのはさすがに度胸がいった。

 さらに言うと、すでに階下からは人のものとは思えない唸り声が一定のリズムで流れている。

 呪文か何かだろう。

 ちょっとサッカー日本代表の試合のようだ。


(あれも何か召喚してんのかなあ)


 などとつまらないうえに黒い冗談を呟いてから、僕は〈ティンダロス〉に〈銀の鍵〉で指示を出した。

 同時に素直に突っ込んでいく表面不定形の怪物。

 多少可愛く思えてきたのは内緒だ。


『歩☆◇!!ヰ!!』


 悲鳴らしきものをあげて、〈ティンダロス〉が吹っ飛んできた。

 自分から戻ってきたにしては器用な飛び方だったので、下から投げつけられたのだろう。

 辛うじて避けたけれど、あの〈ティンダロス〉の体格をまるでボールのように投げ飛ばすものが下にいる。

 とんでもない膂力の持ち主だ。

 しかし、なにより恐ろしいのは、角が存在しさえすればどこからともなく襲い掛かれる特殊な力を持つ〈ティンダロス〉の肉体に触れた、という点であろう。

 まだ、僕の把握していない化け物がいるんだ。

 すぐには上がってこない。

 階段を守護しているのか。

 だったら、これしかないな。

 持っていた重い荷物を下ろし、そのコックを捻り、階段に傾けた。

 ドバドバと透明な液体が流れていく。

 さっきまでの生物とオカルト的な臭さとは違う化学物質の刺激臭が漂い出す。


「最後のお守りを使わせてもらおうかな」


 口に水中で呼吸するための使い捨てボンベをつける。

 実はこれは地上の火災時に煙に巻かれても使えるという優れものだ。

 それと、たゆうさんに貰った呪法のお札を喉に貼りつけた。

 すると、戦闘服のいたるところが熱くなる。

 服の繊維に縫い込んであった髪の毛と裏地に貼りつけてある護符が起動し始めたのだ。

 荷物から流れた液体がほぼ空になったのを見計らって、僕はオイルライターに火をつけた。

 なんとどんなに風が強い場所でも一度ついた火は消えないという聖火台に使ったらいいんじゃないかという冒険者の蛮用に耐えうる逸品だ。

 ただもう使うこともないので、惜しげもなく投げ捨てた。

 階段の下へ。

 途端に下が明るくなった。

 電灯がついたのではなく、ガソリンに火が点いたのだ。

 危険で辛い思いをして持ってきた容器の中に、たっぷりと詰めておいたガソリンが炎を垂れ流しているのである。


「人間の道具も意外と役に立つだろう」


 火災によって生じた間隙にどれだけつけこめるか。

 僕は階段を一歩下がった。

 熱くない。

 起動させた護符は〈社務所〉の禰宜がいざという時に使う耐火・耐水の不動明王の真言が書かれたものであり、たゆうさんにいただいたものにさらに〈五娘明王〉であるレイさんの祈祷がされた特注品だ。

 短期間ならば火事程度の熱量ならば凌げる。

 さて、行こうかB区画へ。

 邪神復活の儀式が進行している地獄の底へ。



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