第663話「少女の悔恨」
脳内が沸騰するような気の昂ぶりを押さえつけて、御子内或子は大海馬〈ダゴン〉との戦いを冷静に行っていた。
彼我の体重差は比べるのもばからしいほどの違いがある。
爆撃機に竹槍で挑むようなものだ。
だが、〈ハイパーボリア〉という陸に上がってしまった海の怪獣がつねに故郷と同じ動きをできるはずもない。
躰を軽くし舞い踊る〈軽気功〉と全身を鋼に還る〈金剛体〉、そして力を何倍にもあげる〈強気功〉を駆使して、〈ダゴン〉の攻撃を機械的に躱していく。
ひたすらに
一手一手がすべて必殺どころか滅殺の怪獣相手に、攻撃をすべて避け切るということがどれほどの奇跡なのか、誰でもわかることである。
一億人が挑戦して一億人ができないことであろう。
二十メートルもある巨大なバケモノに対して、人間が素手で挑むなど不可能なことなのだ。
例え、数多の大妖魅を打ち負かしてきた〈社務所〉の媛巫女といえど。
例え、邪神〈ラーン・テゴス〉すら斃した御子内或子であったとしても。
なのに、彼女があえてその一瞬たりとも気を緩められない勝ち目すらあるかどうかもわからない戦いに何故積極的に身を置いたのか。
実は本人にさえわかっていなかった。
強いてあげるとすれば、ただのきまぐれ、「夕飯の支度をしているときにたまたまビートルズを唄ってみたくなった」程度の思い付きでしかない。
深い理由など何もない。
しかし、或子はその思い付きをすでに一時間近く続けていた。
完全なる消耗戦だ。
或子の側にとっての一方的な。
スタミナの問題で考えれば、〈ダゴン〉の方に疲労が出ることはありえない。
海魔は神の眷属であり、疲れ知らずの妖魅だ。
しかも、彼がやっていることはうるさいハエをなんとかして潰そうとする行為であり、面倒であれ命がかかっている訳でもないから真剣さもいらない。
足元で行われている自分の主人のための儀式を護りきれれば、それでいいという愚鈍ゆえに単純な考えしか持っていなかった。
ただ、自分にかつてないほどの痛痒なダメージを与えた虫けらだけは潰しておくべきだと思っていただけだ。
それも一時間近くと飽きてくる。
もうすぐ夜明けだ。
神の眷属としての勘が告げている。
いの一番に陽が差すこの場所から何千年もかけた悲願が達成されようとしている。
非常に満足だった。
足元のコバエだけが邪魔だったが。
「色々と疎かになってきたな」
海魔から集中力がなくなってきているのを或子は鋭く読み取っていた。
顔つきや動きから感情はわからなくとも態度でわかるものだ。
当初持っていた或子への怒りの様なものはもうなくなっている。
彼女の攻撃がほとんど意味をなさない事実を理解しているからだ。
せめて蚊ではなく蜂の一撃でも与えられれば話は変わっていただろうが。
だから、或子の戦いは本質的には無意味だった。
何もない空間で戦いのまねごとをしているよりも空虚な行動だった。
では、或子は何を目的としているのか?
「面白いね!!」
なんと楽しんでいた。
巨大な敵と雌雄を決するどころか一方的に蹂躙される以外にない状況を愉しんでいたのだ。
心は昂ぶりながら、魂は冷静に。
戦いに逸りつつ、勝ち負けを視野に入れて。
機械のように、獣のように、魔人のように。
ただ、楽しんでいた。
今の或子はただの遊戯にはしゃぎまわる魔獣であった。
仏の命を受け、西への冒険に挑む前の、彼女の魂をなぞるように戦闘の享楽を貪るためだけの魔物。
普段の澄み切った双眸には星の輝きはなく、凛とした陽の光が実体化したような美貌に明るさはなく、天真爛漫な笑顔は酷く歪んでいた。
このとき、御子内或子は死んでいたといってもいい。
戦いの高揚感に溺れ、なんの思惑もなしにスリルを味わうことだけが目的のニンゲンなど、ただの化外の生き物でしかなかった。
みなが愛した退魔の巫女はこのとき消えかかる寸前であった。
「ヴヴヴヴあああああああああああ!!」
〈ダゴン〉の雄叫びかと思えるような人外の叫びをあげて、御子内或子の眼が金色に輝いていく。
御子内或子の〈火眼金睛〉。
だが、その光る眼は〈ダゴン〉以外のものを発見していた。
『―――』
『―――』
『―――』
無言で〈ハイパーボリア〉の舞台に上がってくる影があった。
夜明けになる寸前の最も暗き狭間の時よりもさらに昏い影が。
一つ、二つではない。
わらわらと無数に湧いてくる影は海からやって来るものどもであった。
人ではなく、魚でもない。
魚の特徴のある肉体を持った歪んだニンゲン。
〈深きもの〉と呼ばれる異形の種族であった。
それが上位にある〈ダゴン〉に呼ばれるかのような海上から高い位置にある〈ハイパーボリア〉の甲板に嵐をかき分けて登ってきたのだ。
四方八方から。
〈ダゴン〉はもう動かない。
海魔はもう小物の相手が面倒くさくなったのであろう。
自分で仕留めるよりも手下にまとめて襲い掛からせて数で蹂躙してしまった方がいいと判断したのだ。
或子は周囲を見渡してみた。
戦いの美酒に酔っている間に、〈ハイパーボリア〉に取りついてきた〈深きもの〉どもの数は何百匹にも及ぶだろうことは見て取れた。
明らかにしくじった。
一時間近く命を懸けて刹那的に遊ぶことで最悪の事態に至ってしまったことは明白だった。
その時間があれば〈ダゴン〉を躱して、〈ハイパーボリア〉の無傷な内部に侵入して先行する升麻京一のことを助けることができただろうに。
或子はすべての歯が折れんばかりに顎を噛みしめた。
こんな慙愧と後悔はしたことがなかった。
引き継いだ血と魂に操られ、してはならないことをしてしまった。
「……ボクは馬鹿だ」
皮肉にも軍団規模の〈深きもの〉どもの来襲が或子の正常なる精神を取り戻させたのである。
ただし、それは血の涙がでるような莫大な悔いと引き換えであった。
「すまない、京一」
そして、御子内或子は強き少女となって初めて絶対に逃れられない窮地に陥ったのである……
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