第531話「孔雀明王の羽ばたき」



 文字通りに高みに陣取っている孔雀だったが、奴のいる位置はまさにレイさんの背負う不動明王の拳の届く範囲であった。

 本来であれば降魔の利剣を持っているはずの右拳が固く握りしめられ、ぐぐぐと引き寄せられる。

 あの動きから放たれるものは決まっている。


「〈不動明王神腕槌ふどうのあきらおうしんわんのつち〉!!」


 レイさんの雄叫びとともに、不動明王のこぶしが突きだされる。

 空手の正拳突きというよりも俗にいう振りの大きなテレフォンパンチであったが、その勢いと圧倒的な迫力はちょっとしたビルなら真っ二つにできそうだ。

 実際、風を嵐に変えて突きだされた一撃を宙に舞う孔雀は間一髪で躱した。

 さすがに余裕がない。

 あの不動明王は少なくとも十数メートルはある。

 何倍ものリーチと体重の差はそれだけで武器となり、小柄なものを追い詰める。

 掠っただけで骨まで持っていかれるぐらいの差があるはずだ。

 しかも、レイさんが背負っているのは実体ではなくこの世界に顕現した神の力なのだ。

 おそらくは一部でしかないだろうが、それでもニンゲンが遠く及ばぬ存在の力の欠片である。

 触れるどころか近づかれただけで影響を受けることだろう。

 孔雀とて例外ではなかった。

 月のごとき美貌に焦りが生じた。

 いける。

 この驚天動地の術法でなら、空を飛び光線を撃つ〈八倵衆〉ですら撃墜させられるかもしれない。


「なっ!!」


 ただ、戦いはやはり予想通りにはいかず常に裏切られ続ける。

 いや違うか。

 流れも予想もすべて裏切って自分の好きなようにもっていけるものが本当の強者なのかもしれない。

 その意味では孔雀踏海―――化け物であった。


「ノウモボタヤ ノウモタラマヤ ノウモソウキヤ タニヤタ ゴゴゴ……!!」


 何やら真言を唱えると今度は奴の背中に後光が差してきたのだ。

 先ほどのレイさんの時と同様に爆発するような光の奔流が発され、火花のような煌めきが散った。

 独特のあの音がしなければ花火大会でもあるのかと誤解してしまいそうなめくるめく美しい光点の乱舞に、一瞬、孔雀が爆発してしまったかのごとく錯覚する。

 だが、美しい〈八倵衆〉はまだ健在で宙に漂っている。

 大きな変化を伴ってはいたが。

 いいや、変化の一言では済ませられない。

 僕の目には奴の背中には大量のネオンによって形作られたような羽根が映っていた。

 力強い羽ばたきではなく、華麗で舞うように飛翔することを目的としたような鮮やかな青藍色の飾り羽を持ち、扇状に開くことで邪気を祓うともいわれている孔雀のものであった。

 さっきまでの術によるものとは別に、背中から生えた羽根で〈八倵衆〉は空を飛んでいる。

 しかもその背後には―――武装した明王のなかで唯一武器を持たず、慈悲を表した菩薩形をして、美しい孔雀の上に乗った一面四臂の神がいた。

 孔雀明王。

 レイさんたちの守護者である五大明王とは違う、真言密教の本尊ともされる明王であった。


「……あいつも、レイさんみたいに守護明王を顕現させられるのか」


 同じように〈大元帥明王法〉によって選ばれた明王憑きであるのならば、レイさんと同じことができても何ら不思議はない。

 だから、まさかとは思わなかった。

 それはレイさんも同様。

 眼光に驚きは欠片もない。

 明王憑き同士の戦いなのだから、こんなことがあったとしても不思議なことではないということだろう。

 

(まったく、御子内さんもそうだけどレイさんも大した肝っ玉だよ)


 対峙する二柱の明王のせいで、上智大学の敷地内はすでに異様な世界となっていた。

 やはり神の顕現のためか、どこからともなく発達した台風に襲われた港のようにびゅうびゅうとまともに立っていられない規模の風が吹き荒れて、木の葉を飛ばしまくっていた。

 しかも、信じ難いことに大学の敷地から一歩踏み出すとすべての風が凪いでしまい、平和ないつもの光景に戻るようだった。

 だから、時折、誰かが脇を通りがかっても二人の巫女と魔人の戦いには一切気が付かない。

 多分、明王像もこの敷地内限定なのだろう。

 まあ、誰にでもどこからでも見えてしまっていたら、もう大怪獣決戦以上の騒ぎになるだろうからそれでよいのか。

 最近のモラルのないマスコミだとこんな深夜にヘリコプターを飛ばして取材に来かねない。

 そうなったとき、あの孔雀がどういう反応を示すかなんて僕にだって想像がつくからね。

 とはいえ、敷地内の僕が風のせいでどこかに叩き付けられそうな状況なのは変わらないので、必死に電灯なんかにしがみついて二人の戦いを見続けるしかない。

 僕に戦闘力があればここから隠れているはずの天海という〈八倵衆〉を探しに行くところだけれど、それがどんなに無謀なことかもわかっていた。

 天海というのは紛れもなく〈八倵衆〉。

 御子内さんたちに匹敵する戦闘力の持ち主だろうし、足を引っ張るだけですめばいいが、僕が勝手に動いて逃がしてしまい状況をさらに混乱させるのは避けたかった。

 せめて、霧隠でもいてくれれば別だが、あいつは多摩で〈社務所〉の禰宜としての仕事をしているはずだ。

 つまり、ここでレイさんの激戦を見守るしかやることがないのである。

 ちょっと前までなら機転とか知恵を働かせればみんなの手助けも出来たけれど、さすがにこのレベルの戦いにはなにもできない。

 とはいえ、無力であることは罪ではないとしても、内心忸怩たるものがあるのは否定できなかった。


(みんなは僕のことを買ってくれているけれど、実際にはもうほとんど役に立つ局面は少ない。これからも多分減っていく。ふふ、ララさん、あなたが言った通りになりそうだよ。僕の役目はもうすぐ終わって別のことをしなければならなくなるみたいだ。……少なくとも、まだみんなを助けたいと願うのならばね)


 吹き荒れる嵐の中、地上と空中の二つの明王のちょうど真ん中のあたりに黒い点の様なものが現われていた。

 点は最初野球の球程度だったのに、徐々に大きくなっていき、五号のサッカーボールから車のタイヤほどになる。

 よくよくみると、あの黒い球体が特異点となって二柱の明王の発する尋常ではない圧迫力のある〈気〉を吸収しているようだ。

 そのついでとして風が引き起っているようにも見える。

 さっきからレイさんも孔雀も動かなくなったのは、気を抜くとあれに吸い寄せられてしまうからか。

 黒点の周辺の盛り上がる空間の皺や表層がはっきりとしてきた。

 空間が歪んでいるのだ。

 しかもその表面は心臓の鼓動の様に脈打っている。

 空間の向こうに封じられた何かが不動の壁を砕いて出産されようされようとしているかのように。

 どこにもいない夜鷹の羽ばたきと鳴き声が聞こえだした。

 さらに歪む。

 僕は漂い始めた雰囲気と気配にある記憶が合致した。

 少し前に御子内さんといったとある団地での戦いの記憶が。

 あのとき、彼女を追い詰めた双子の兄弟の片割れが発していたのと似たような気配。

 例えるのならば、本人のものではなく、兄弟や親のもつものに近しい……それ。

 つまり、あの異常な黒点の歪みの奥には―――あの兄弟の近親者がいるのか。

 それは……

 だが、どうして。

 この戦いは〈社務所〉の退魔巫女と西の〈八倵衆〉の戦いだ。

 あのときのように邪神の眷属が関わり合っているものではない。

 では、どうして、あの兄弟と同じ予兆がするのか。

 捩子くれた空間が怪しく息づく。

 金色の心臓の被膜があったとしたらこうやって息づくだろう。

 そして、異世界の脈拍が呪文の詠唱となって、子を産むのを助ける産婆と化す。

 もうすぐでてくる。

 明王の力を呼び水として、何かが異世界からやってくる。

 言い知れぬ夢魔の光景。

 僕は思わず孔雀を見た。

 恍惚としていた。

 この世のものではない血潮の流れを嗅ぎ取ってやつは恍惚としていた。

 そして憧憬の眼差しをしていた。

 まるで父の帰りをずっと待っていた幼子のごとく。

 ぴかりと輝く球体の集積物が黒い空間を突き破ってこの世に出現しようとしていた。

 途方もない震動を産声として。

 僕はその悲鳴を越えた音の狂気に立っていられなくなる。

 空間が耐えきれず、世界の弾力が限界に達した時―――


 世界の音の全てが消え去った。

 

 震動すらも。


 そして、どこからともなくやってきた一人の少女の小さな拳が、異世界からの侵入者の扉を砕いた。


「―――!!」


 何か叫んでいるようだったが、何一つとして聞こえない。

 世界に沈黙の天使の羽根が降り注いだようだった。

 ただ、僕は黒い特異点を破壊した少女の隣に立つ、覆面の巫女のことを知っている。

 間に合ったのだ。

 神宮女音子と御子内或子が。

 事情は何一つわからずとも、彼女たちは常にヒーローとして世界を救うのだろう。

 

 ―――僕はよく知っているのだ。 


 

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