第600話「妖怪〈ノヅチ〉」



「おい、新入り。ちょっと応援に行け」


 警察学校を卒業して、川崎市内にある派出所に巡査として配属されていた川上太一は、

 上司に当たる部長に命じられた。

 派出所から少し離れた場所にある路上で、が出てしまい、人手がいるのだという。

 入ったばかりの新入りとはいえ、すでに数か月も警察官として働いていればたいていの隠語も理解できるようになる。

 だから、亀の子が何の意味なのかわざわざ問い返すことはしなかった。


「了解です。―――ちなみに、チャカですかクスリですか?」

「さあ、わからん。職質していたら、突然、亀の子になったらしい。囲みを突破されても困るし、人手が要るんだとさ」

「わかりました。じゃあ行ってきます」


 川上はそのまま一礼をすると、派出所の横に停めてあった自転車に乗ると、命令のあった通り目掛けて駆けだした。

 すでに何度もパトロールしているので市内の受け持ち地区の道はほとんど完璧に把握している。

 次に市民がどういう風に生活をしているのかを肌で理解する。

 この二つがあって初めて市民生活の治安というものがどのようにして維持されるのかを体感できるのであった。

 警察官が真っ先に派出所に配属されるのは、こういう「お巡りさん」としての基本を学ぶためでもある。

 

「……亀の子かあ」


 とは、甲羅の中に隠れてしまい、文字通り手も足も出ない状態になったことをいう。

 転じて、警察用語では、「車の中に立て籠もった籠城犯」のことを指す隠語となっていた。

 検問や職質を受けても、警察官に囲まれているせいで逃げることもできずに、状況が少しでも良くなるのではないかと車内で鍵をかけて立て籠もるものは意外と多い。

 車そのものは他人の財産であり、無理矢理に壊して中から引き摺り出すこともできない警察側としては説得を続けて顔を出すのを根気よく待ち続けるしかないのである。

 強制的な執行をできないとしても、食べ物も飲み物もトイレもない車内にいつまでも立て籠もることは不可能であり、警察側と被疑者側の忍耐勝負となるのが普通であった。

 とはいえ、ほぼ100%、警察側の勝ちとなるのは決まっているのではあるが。


「……川上巡査、応援に来ました」


 もうすぐ翌日になろうという深夜の路上で、一台の外車が停車していた。

 周囲には私服警官と制服警官が二人ずつ、合計四人が取り囲んでいた。

 皆、所轄の知った顔だ。

 その中の一人が真っ黒のスモークガラスに向けて叫んでいた。


「おい、おまえ!! いい加減にでてきなさい!! いつまでもそんなところにいたって無駄だぞ!!」


 フロントガラス以外のすべてが真っ暗で内部がわかりにくい、今どきあり得ないような改造のされたベンツであった。

 これは警官であったのなら誰でも怪しいと思わざるを得ない。

 完璧な違法車両である。


「おう、川上。応援はおまえだけか?」

「は、自分が聞いている限りは自分だけです」

「仕方ないか。結局、容疑はなんともしれねえ亀の子一匹だ。そのうち観念して出てくるまで待つしかねえしな。わりいな、川上」

「いいえ、自分も警官ですから」

「そんなにかしこまらんでもいいぜ」


 指揮をとっているのは、生活安全課の刑事だった。

 もともと別件で動いていたときに、たまたま奇妙な動きをしていた男を見つけて、職質をかけたところ、いきなりあの車に逃げ込んで鍵をかけて立て籠もったのである。

 そのため、警察官たちは覚せい剤などのクスリの所持あたりだろうとは思っていたが、時間がかかりそうなので応援を必要としたのだ。


「俺たちは、例の死体消失の件でもう少し動かなきゃならないから、あとはおまえたちに任せるぞ」

「……死体消失? ああ、あの血痕だけが大量に残っているのに、死体はどこにもないってやつですか? 何か掴めたんですか?」

「なんでも東京の方から専門家が来るらしくてな。そいつに対抗意識があるらしくて、県警の上の方がピリピリしてんのよ。俺らとしては早めに片付けばこしたことはねえと言っても、神奈川県警うちはマジで評判わりいからそうもいかんらしい」


 川崎の警察も大本は神奈川県警だ。

 世間にバッシングされやすい神奈川県警の一員としてできたら手柄をたてたいという気持ちは当然ある。

 もっとも、事件そのものが不可解なものである場合にどうすれば解決するかなど答えが見いだせない場合も多々ある。

 今、川崎市警の管轄で起きている事件などその最たるものだ。


「……現場に残っていた肉片ってほんとに人間のものだったんですか?」

「マジだ。少なくとも一人分の流れちゃいけねえぐらいの量の血が広がっていたみたいだぜ。すべての現場で。だから、最低でも三人は死んでいないと勘定が合わねえ訳だ。まったくいくら治安が良くねえとはいっても川崎でこんな事件が起きるなんて想像もしてなかったぜ」


 刑事は吐き捨てた。

 それは川上とて同じことだ。

 配属されたばかりの川崎署の管轄内で現在起きている事件は、まだ報道協定のおかげで大きくはニュースとされていないが、ヤマとして考えるのならば国内でも滅諦にない規模のものであった。

 ただし、事件を簡単に説明するとただの迷惑条例違反程度のものでしかない。

 なぜなら、川崎市内のいたるところでヒトのものらしい大量の血痕が見つかり、それだけでなくおそらく同じ人物のものと思しき少量の肉片が採取されたというだけなのだから。

 死体そのものがみつかっていなければ事件として立件することは難しく、せめて誰であるかが判明すれば事件に巻き込まれたものとして大々的に捜査できるのだが、今のところ被害者かもしれない人物も浮かんでいない。

 つまり、ただのいたずらの可能性も否定できないのだ。

 そのため川崎市警と神奈川県警では、記者会見を開かず、事件性の有無から慎重に捜査を続けていたのである。

 今回の亀の子について人手不足になっている原因でもあった。


「お疲れ様です」

「だろ? とにかく、一人だけ被害者っつうか、血の持ち主が見つかりそうでちょっと探していたんだ。だから、いつまでもあんな亀の子に関わってられねえんだよ」

「え、被害者みつかったんですか?」

「まだ確認は取れてねえがな。このあたりを縄張りにしてるホームレスだよ。同じような路上生活をしている連中がいるらしいから探してんだが、一人も見つからねえで困っていたところだ」

「そういや、ホームレスの爺さんたちここ数日は見ませんね」

「だろ? なんか知っていて隠れてんならいいが、もしかしたらあいつらも被害にあってるかもしれねえからよお。ちょっと心配してんだ」


 いかつい顔して意外と優しいのが、この手の刑事の特徴だ。

 ホームレスたちが事件に巻き込まれたのではないかと、かなり心配しているらしい。


「わかしりました。あのは自分たちで対処しますので、そっちの捜査はよろしくお願いします」

「頼まあ。ナンバー照会もしてっし、そろそろガサ用の令状もくるだろうから、窓でも割って引き摺り出してやれ」

「はい」


 生活安全課の刑事たちが現場を離れようとしたとき、ベンツがいきなりガタンゴトンと音を立てた。

 視線を送ると、ベンツの車中にいる亀の子が暴れているのか、誰も触れていないのに揺れていた。

 それだけならいい。

 ただ一面だけやや暗いだけで中を見られるフロントガラスが赤く染まったのだ。

 勢いよく噴きつけられた飛沫のようであった。

 しかも、その飛沫は赤い色をしていた。

 まるで鮮血のように。


「おい、どうした!? 何をしている!! ここを開けろ、おい!!」


 警察官たちがガラスを叩いて声を荒げても返事はなかった。

 それどころかベンツはさらに揺れて中で何かが暴れているようにしか思えない。

 

「うわっ!?」


 唯一の中を見られそうなフロントガラスから、ボンネットに飛び乗って警官が顔を寄せたとき、ガタンと音がした中年の男性の顔が押し付けられた。

 血だるまの男の顔は、半分なくなっていた。

 白い脳漿が血と混じりあってピンクになっている。

 だが、次の瞬間には男は車内の奥に引きずり込まれるように消えた。

 事態を重く見た警官たちが、ベンツの窓を割ろうと警棒で叩くがびくともしない。


「強化ガラスだぞ、これ!?」

「やべえ、銃でも割れねえんじゃねえのか?」

「鍵をピッキングしたほうが早い!」

「そんな技術ねえよ!!」

「早く開けねえと、中の奴がやべえぞ!!」


 さすがの修羅場を潜った百戦錬磨の警官たちでも右往左往する状況だったにも関わらず、一つののんびりとした声が聞こえた。


「わたしがガラスを割るからちょっとどいてください」


 やや滑舌の悪い女の子の声であった。

 それに警官たちが反応するよりも速く、ガシャンとベンツの強化ガラスが吹き飛んだ。

 ただ一人の女の子の拳が防弾の強化ガラスさえも粉々に砕いたと、警官たちはすぐには理解できなかった。


「間に合わにゃかったか」


 血まみれのベンツの車内を見て、まだ十五歳の猫耳藍色は悔しそうに呟いた。


 

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