第601話「ベンツに入らずんばノヅチ得ず」
川上は、亀の子の立て籠るベンツの強化ガラスを割った人物よりも、まず車中の様子を見て鼻白んだ。
電灯の淡い光の下でもよくわかるぐらいに、ベンツの中は無残に赤く染まっていたのだ。
その赤がなんの赤なのかわからない川上ではない。
無残に惨殺されたに違いない、人の躯が発する鮮血によるものであった。
少し離れた位置にいても鉄さびの様な饐えた臭いが鼻孔をくすぐる。
「いったい、なんだよ、これは!!」
「近づかにゃいで。〈ノヅチ〉はまだ車内にいるんです」
思わずドアを開けようとした川上は、横合いからがっちりと拒まれた。
この時になって初めて彼は、ネコミミのような二つの個性的な髪型をした改造巫女装束の少女のことに気がついた。
血なまぐさいに現場に不似合な巫女の姿をした少女は、強い視線をむけて川上を止めていた。
「なんだ、おまえは!?」
もっともな質問である。
この状況下でこれ以外の質問を出せるものはそうはいないだろう。
模範解答といっても過言ではない。
ただ、猫耳藍色からすればすでに何度も聞いていて芸も何もない聞き慣れたものなので、特に気を留める必要もない。
「この酷い有様を作りだした妖怪はまだ手中にいるんです。迂闊に手を出したら、今度はあにゃたが喰い散らかされますよ」
藍色の発言には一片の衒いもないのは川上にもわかった。
だが、突然、目の前で殺人事件が起きただけではなく、ネコミミをつけた巫女がやってきて警官を諫めようとする光景に対してなんと語ればよいのかわからなくなっていたのだ。
他の警察官たちも同様のようで、皆が二人とベンツをとりまいて遠くから様子を見ているだけだ。
「あにゃたもすぐに下がってください。この車から、いつ〈ノヅチ〉が出てくるかはわかりません」
「だから、おまえはいったいなんなんだよ!! ここは警察の出番だ!! おまえみたいな女の子になにができるっていうんだよ!! そっちこそ下がれ!!」
「……わたしに何ができるって聞きますか? だったら答えは簡単です。 わたしはこいつと戦えます」
次の瞬間、藍色の下方からの抉り気味のパンチがベンツのドアに突き刺さった。
高速道路で事故にあったとしても乗客を守りきると言われた分厚いベンツのボディが凹み、衝撃が金具と鍵をへし折って、ドアがぷらりと開いた。
とてもではないが少女の―――いや人間のパンチ力ではない。
〈気〉で強化されたうえ、後に巫女ボクサーと恐れられた藍色のとんでもない破壊力によるものであった。
思わず、その場にいた全警察官が飛び退った。
破壊の音に弾かれたように。
「―――でてきにゃさい、妖怪!!」
自分の一撃によって開いたドアの内部に藍色は呼びかけた。
この内部に妖怪がいる。
ベンツに籠城して亀の子になった男性を喰い散らかした妖怪が。
問題はどんな方法を用いて密閉した車内に侵入したのかだったが、このときの藍色は深く考えてはいなかった。
彼女が八咫烏からの通報を受けて探していたのは、〈ノヅチ〉と呼ばれる知性はあまりないとされる妖怪であり、それは太いが短い、俗にいうツチノコのモデルとされている程度の妖魅であった。
大喰いで、最大に成長しきると村を丸ごと呑み込んでしまうとも言われているが、今回藍色が探しているものは人を丸のみにするのが手一杯程度のサイズのはずだ。
彼女からしてみれば、油断することはできないが、それほど強敵と言う認識はなかった。
だから、普段ならば用意している〈護摩台〉の設置も依頼せず、ただの巫女として退魔業を行うつもりでいたのだ。
しかし、彼女の呼びかけに妖怪〈ノヅチ〉は出てこない。
知性はなくとも退魔巫女の発する清浄な〈気〉を当てられれば相当強力で年を経た妖魅でもない限り、過敏な反応を見せるはずだ。
それがないとなると、藍色の〈気〉をあえて無視しているか、それともすでに逃げ出したか……
(どのみち、わたしが思っているよりは愚鈍とは言えにゃい相手のようですね)
ただ、凶悪なのは折り紙付きだ。
ベンツの内部にいて喰い散らかされた亀の子の男性を含めて、数日で四人もの人間を腹に納めているのだから。
ここで仕留めなければ、もっと大勢の犠牲者が出る。
それだけは何としてでも避けたい。
「にゃ!!」
藍色は気を放ち、敵の位置を補足する
〈気当て〉による索敵は、相手が〈気〉をスルーする能力を有しているか〈断気〉の技術を使用していない限りほとんど有効である。
使用者同士の〈気〉の格による差異はあるものの、藍色クラスならば相手を見逃すことはない。
だが、ベンツの車中のどこからも妖魅の〈気〉は観測されなかった。
つまり、簡単にいうと、「いない」ということだ。
「まさか、わたしがドアを破った瞬間に逃げたってことかにゃ?」
確かに警官の川上にわずかに気をとられてはいたが、妖怪一匹逃げ出すほどの隙はなかったはず。
では、答えは単純だ。
〈ノヅチ〉はなんらかの手段でベンツの中に隠れていて、藍色の〈気〉をやりすごしたのだ。
しかし、いったいどうやって……
「でも、出てこにゃいというのにゃらば、わたしの方から出てこざるを得にゃくしてあげますよ」
そこで、藍色はあえて内部に躰を入れることで妖怪の反応を見ることにした。
自分の反射神経ならばどの方向からの襲撃でも対応できるという自負を持っていたからだ。
ボクサーの命とも言うべきフットワークを犠牲にして、そんな無茶のことをしてしまうところが
それでも多少の用心をしつつ、そっとベンツの広い後部座席に頭を突っ込んだ。
「お、おい……」
藍色の発した〈気〉を多少受けてしまったせいで、文字通りに気後れした状態になっていた川上だったが、勝手にベンツに触れようとしている巫女をとめなければならないという警察官の職業魂が首をもたげた。
相手が誰であろうとも現場保存は基本であるし、どんな危険が起きるかわからないのだから少女を保護しなければならない。
川上はまだ配属されたばかりで、世の中のことをよくわかっていなかった。
そして、わかっていないなりに正義というものを魂に持っていた。
ベンツの中に上半身を入れた藍色は片足だけを地面について、お尻を突きだすようにして内部を探っていたのだが、その足元の黒い影の部分が揺らいだような気がしたのだ。
(なんだ。こんな夜中の外灯の弱い光しかささないこんな場所であの陰だけはやけに黒くないか。……いや、黒いだけじゃない。いくらなんでもこの巫女のものにしては大きすぎないか!!)
川上は思わず藍色を突き飛ばした。
なぜ、そんなことをしてしまったのか、川上にもわからない。
ただ、そのおかげで黒々と広がった影の中から飛び足してきた漆黒の咢と牙によって、巫女の下半身が食いちぎられることはなかった。
もっとも何の犠牲も払われなかったわけではない。
「うわああああああああ!!」
右手の肘から先を鋭利な刃物によって切断されたかのように無くした川上の絶叫が人気のない夜の路上に響き渡る。
影から姿を現した口と牙しかない薄汚い胴体の蛇状の妖怪〈ノヅチ〉は不気味にけほっと軽くゲップをした。
ついさっき一人の人間を呑み込み、今も腕の一本を食したとしても、まだまだ足りない。
そんな風な舐めきった態度であった……
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