第602話「金剛夜叉明王・猫耳藍色」



「そのとき、わたしは大怪我をしました。肉体もそうでしたが、なによりも心の方に。……川上という巡査は、片手を失くして警察官を辞めたそうです。全部、わたしの油断というか驕りの招いたことです。あのとき、〈社務所〉の媛巫女としてのわたしは一度死んだんですにゃ」


 ……藍色さんの語りはそこで終わった。

 具体的な〈ノヅチ〉との戦いは彼女にとってはそう重要なことではないのだろう。

 どこがしくじりであったかについては、彼女自身がよくわかっていることなのでわざわざ僕が指摘するほどのことではない。

 おそらく、ずっと心に留めておいてことがあるごとに反芻していたのはまちがいない。

 巫女の中でも最も生真面目で、最もストイックな彼女なのだから。


「その〈ノヅチ〉というのが、影の中を移動する妖怪という奴だったんですね」

「そうですにゃ。わたしが引退したのは、あいつ相手にボクシングが効かにゃかったこともあるし、川上巡査の片手が喰われたときの絶叫が耳に残っていたせいもあります。ただ、ボクシングと猫耳流交殺法はもう身体に染みついてしまっていたから、どうあがいても忘れられ二ャかったのですよ」


 ボクシングも猫耳流もどちらも藍色さんの両輪だ。

 バイクと同じで、二つのタイヤが揃っている以上、走り続けてしまうのだろう。


「或子さんと京一さんが合戦場までわざわざわたしを連れにこにゃければ、今頃は普通の女の子ににゃっていたかもしれません」

「多分、そんなことはないと思うよ」

「どうしてですか?」


 僕は思っていたことを正直に口に出した。


「藍色さんは御子内さんと同じようで違う。でも、実際はよく似ている。苦しむ人の叫びに耳を塞いでいられない。どんなに自分にとって苦痛で厭なことであったとしても、夜な夜な助けに向かってしまう。そういう女の子だ。だから、普通になってもいつか戻ってきてしまう。……優しいから」

「口説かれているみたいで気分がよくにゃいですよ」

「僕がそんな男に見えますか?」

「残念にゃことに、弱った女をまっすぐに狙えるほど器用なタイプではにゃいのは知っています」 


 何が残念かは知らないけれど、藍色さんは僕の気持ちをわかってくれたらしい。

 だから、手元にあったペットボトルのお茶を飲みほした顔は、いつもの彼女のものになっていた。

 生真面目なのにどこか楽しそうで、いつも面白いことをほくそ笑みながら探している猫のような晴れ晴れとした表情に。

 あの合戦場で御子内さんと引き分けたときのように。


「―――今度こそ、あの〈ノヅチ〉を仕留めてみせます。どのみちあいつを斃さにゃいと、〈五娘明王〉にゃんて煽てられても全然ピンとこにゃいんですから」


 本質は自由な猫であったとしても、猫耳藍色という女の子はやはり生真面目なのである。



             ◇◆◇



 妖怪〈ノヅチ〉は、本来「野槌」と書き、名の由来は「野の精霊(野つ霊)」ということからきているらしい。

 鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」では、『野槌は草木の霊をいふ 又沙石集に見えたる野づちといへるものは 目も鼻もなき物也といへり』との説明書きが付されている。

〈社務所〉の歴史においても、あまり関東では見掛けられない妖怪であるのは、もともと旧い起源をもつ都のあった京都から奈良県にかけて目撃されることからも当然とみなされているそうだ。

 乞食・日本書紀において、伊弉諾尊いざなきのみこと伊弉冉尊いざなみのみことの子である、野椎神のつちのかみ草野姫かやのひめがその正体であるともいわれているぐらいに昔から伝承のある妖怪であるのだ。

 だからというべきか、〈ノヅチ〉とまともにやりあったことがあるのは、実は平成に入ってからは藍色さんが初めてだったということである。

 それぐらい関東ではレアな妖怪らしい。

 形状としては、蛇のようであり、直径15センチ、体長1メートルほどとされ、頭の一番上には口があり、目も鼻もなく、深山に住み、兎や栗鼠を食べるとされている。

 これだけ聞くと、ツチノコという例のUMAを連想するが、実際はどうだろう。

 まず兎はともかく、そんなビール瓶のような妖怪が木の上に棲息する栗鼠を頻繁に捕食できるものだろうか。

 それにツチノコのモデルであったとしたら、過去において流行したツチノコブームの渦中で一切捕獲されなかった事実をどう考えるべきか。

 川の途中にある石の上で横になって鼾をかいていたというツチノコの目撃例もあるが、なんと信ぴょう性のないものも含めてツチノコはどんな痕跡も残していないのである。

 生き物であるのならば、糞や遺骸があったとしても不思議ではないのに、ツチノコについては学術的に否定されるべき外来種などのものを遺して、一切が謎に包まれている。

 どう考えても移動するのには不向きな体系をしている蛇の様な生き物を人間が捕獲できないはずはない。

 そのことから、ツチノコの存在そのものが懐疑的に見られていたとしてもそれは仕方のないことだと思われる。

 だが、僕は藍色さんにきいた話からツチノコが〈ノヅチ〉であるということについての確信を抱いている。

 そして、いわゆるツチノコではないということについての確証も、だ。

 

「影に潜って、影の中を移動することができる妖怪―――それが〈ノヅチ〉なんだね」

「そうですにゃ。あのときはそのことを知らずに、ベンツの中に〈ノヅチ〉がいるものと決めつけてしまい、もっと周囲に対して警戒をしていにゃかったことが敗因だったんです」


 おそらく、影から遠く離れた別の影に移動することはできないはずだ。

 ただ、車の影から伝わる形で外に逃げた〈ノヅチ〉に、藍色さんは背中を獲られたということなのだろう。

 もし、警察官の人が庇ってくれなかったら、背中からがっつりと呑み込まれてしまっていたわけである。

 それと……


「体長1メートルというのも違うね」

「ええ、そうですにゃ。伝承にある〈ノヅチ〉の短い身体と言うのは、のことで、本体そのものはきっと影の中に隠れているんです」

「だから、短くても素早く動くし、見つかってすぐに消えるのか」

「そうでしょうね。それに……」


 藍色さんは冷たい顔で言った。


草野姫かやのひめにとって、同じ両親から生まれた長姉といっていい存在がいます。―――蛭子命ヒルコです。水蛭のように手足が異形であったのではないかといわれ、蛭子伝説りもとになった神ですが、それと〈ノヅチ〉は外見が似通っています。実際にやられたわたしが感じたのは、〈ノヅチ〉にはただの妖怪にはない強過ぎる妖力が満ちていたということでした。だから、わかります。おそらくあの妖怪は―――神のオトシゴでしょう」


 ツチノコなんていう、ありふれて有名な安っぽい妖怪の正体が、もしかしたら神々の末裔か落し仔であるという衝撃の事実を口にしながらも、どういう訳か、藍色さんは嬉しそうだった。

 恐怖もあるだろう。

 怯えもあるだろう。

 しかし、もう過去の自分はきっといないのだ。

 見習いの巫女ボクサーはもうおらず、ここにいるのは人類の決戦存在の一柱である〈五娘明王〉金剛夜叉明王の猫耳藍色なのだから。


「……借りを返しにいかにゃいとね」

 

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