第599話「汚泥の味」
〈ノヅチ〉。
八咫烏は確かにそう言っていた。
受け取った感じからすると、間違いなく妖怪の名前だ。
字はおそらく「野槌」あるいは「野霊」だろう。
僕の記憶にある限り、体長一メートルくらいの蛇に似た太くて短い姿で、頭のてっぺんに口がある以外は目も鼻もない槌のような形をしている妖怪のはずだ。
UMAであるツチノコのモデルといえばわかりやすいだろうか。
それほど危険な妖怪というイメージはない。
少なくとも八咫烏がこんな風にやってきて警告を発するほどに強力な害悪ではないと思う。
だが、その名を聞いた瞬間、さっきまでコスプレ衣装でホクホク顔をしていた藍色さんが一気に暗い表情に陥ったのが事態の深刻さを物語っていた。
彼女は〈ノヅチ〉という妖怪について覚えがあり、それに恐怖を覚えているということだった。
右手を見る。
震えていた。
あの御子内さんと引き分けて、数多くの妖怪・妖魅相手に勝利してきた巫女ボクサーが震えていた。
見間違えではない。
証拠に瞳孔が微かに開いている。
額にちょっとだけ汗が噴いていた。
僕の観察力の全てが彼女の怖れを伝えていた。
「〈ノヅチ〉ですか……」
藍色さんが声をようやくひりだした。
やや擦れていた。
その恐怖を知ってか知らずか使い魔のカラスが言葉を紡いだ。
「ソウダ、巫女ヨ!! ソナタガ忘レルハズハアルマイ!! 二年前ノアノ晩、ソナタヲ地ニ塗レサセタアノ〈ノヅチ〉ト同種―――モシカシタラ同一個体カモシレンモノガ現ワレタノダ!!」
それでわかった。
かつて藍色さんはある戦いで敗れ、一度退魔巫女を辞めたことがある。
どれだけの衝撃があったのかはわからないが、これほどの強者が前線から足を洗わざるをえなかったのだから相当深刻だったのがわかる。
ただ、彼女自身納得できないものがあったからだろう、合戦場と呼ばれるボクシングの裏の賭け試合にボクサーとして出場し続けていた。
一月に一戦の割合で行われる合戦場で藍色さんは十六歳の若さで、しかも女子でありながら無敵の選手として王者になり君臨していた。
妖怪・妖魅事件の発生件数があまりにも増加して人手不足であった〈社務所〉が、一度は引退を容認していた藍色さんを復帰させるため、御子内さんを送り込んだあの日まで、ずっと。
ただのボクサーではなく、裏でのなんでもありの賭けボクシングにおける無敵の女王であったのだ。
その彼女を一度でも戦いから手を引かせかけた妖怪〈ノヅチ〉。
おそらくはまともなバケモノではないだろう。
藍色さんは関西から来た仏凶徒〈八倵衆〉の幹部である一休僧人を破ったほどであるから、〈ノヅチ〉はそれ以上なのかもしれない。
「場所はどこ?」
「オ台場ノ埋立地ダ。彼奴メ、ナニゴトカ仕出カスツモリラシイ。ソナタガイッテコレヲ阻止スルベキダロウ」
「お台場……丁度コミケのこの時期とはね。いいリベンジの機会かもしれにゃいかにゃ」
彼女はあのあたりに土地勘もあるし、同じ東京の担当といっても御子内さんが出張るよりは向いているかもしれない。
しかし、
一度は敗北の屈辱を受けた相手に。
しかも、さっきの震え方と態度からはまだ完全にトラウマを克服しきっている訳ではなさそうだ。
ただの敗北ではなく、心までバキバキに折られたであろうことは想像に難くない。
御子内さんが言っていたことがあるけれど、「どんなにボロボロにされても心までおられなければ敗北ではない」。
藍色さんはその敗北を味わい、立ち上がれなくなった経験があるのだから、もっと深刻な状態のはずだ。
「―――大丈夫」
「にゃんとかね」
それでも巫女ボクサーは気丈に振る舞っていた。
まだ傷は癒えていないだろうに。
「……京一さん」
「なに?」
「アルバイトしません? 〈護摩台〉を一つ設置するだけの簡単にゃやつです」
「……それで藍色さんが戦えるというのならやるよ。八咫烏経由ならあとでバイト料は申請すればいいしね」
実際は
今の僕は〈社務所〉からのバイト料が七桁の貯金があるし、〈護摩台〉一つなら二時間もいらない。
ただ、こう言っておけば藍色さんが過剰に借りの意識を感じないだろうから。
僕としては彼女が過去の挫折に立ち向かい、克服するというのならば手間を惜しむつもりはないし、異存はまったくない。
それにどうせ夏休みだ。
自由研究だとおもえばどうということもないさ。
「それで、その〈ノヅチ〉ってのはどんな妖怪なの? よく知っているんでしょ」
「よく知ってはいます。まだ高校一年生の頃のわたしは〈護摩台〉にゃしであいつに挑んでしまい、惨めに敗北したんですから」
……〈五娘明王〉の一柱である金剛夜叉明王・猫耳藍色は苦い気持ちを噛みしめるかのように語りだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます