第625話「明王殿家の青赤の悲願」
明王殿家は、明治の大帝が東京に帝都を移したときに京の御所から連れてきた氏族の一つであった。
大帝に千葉県の成田山の守護を命じられ、それ以来、千葉・茨城一帯における退魔業の中心を担っている。
表向きは成田神社に勤める多くの神主の一人という扱いに過ぎないが、裏事情に詳しいものにすれば最も権威ある家系ということになる。
特にレイは、明王殿家の正統のみが継承できる〈神腕〉の持ち主であり、「明王殿の姫」として敬われていた。
〈神腕〉は、明王殿家のみに伝わる強烈なまでの神通力を発する特質であり、過去の持ち主はすべて伝説的な勲をたててきた退魔士であった。
だが、女として〈神腕〉を得たものはレイが初めてであり、それも数十年前から〈社務所〉の上層部が行ってきた〈
ゆえに〈社務所〉にとっては、明王殿レイこそが人造的に産みだした初の〈五娘明王〉候補だったということになる。
そして、明王殿が成田山にやってきたころから途切れることなく研鑽を続けられていたある呪法の体現を期待されている救世主でもあった。
「対邪神呪禁戦技〈
これこそが、レイがいつかは修めなければならない宿命の技であった。
そして、その時はもうやってきていた。
「……うちが成田山でもとめられたことは千葉と茨城の守護だけじゃねえ。成田山が調伏していたとある英雄の力を借りることにあった」
レイは家訓を思い出す。
〈神腕〉をもつものが肝に銘じなければならない家訓を。
「その英雄はただのお人好しだった。バカがつくほどお人好しで、自分の亡くなった父親を模した像を盾に迫ってきた敵に対して「作りものとはいえ父に弓を引けない」と退却してしまうほどのバカだった。……その敵は父親の実の兄弟だったのに」
まだ、ある。
「ある敵と戦ったとき、敵大将の家族を捕らえたが女子供であるからと許して解き放ってしまった。しかし、その敵は彼の家族を八つ裂きにした。自分の妻子を救われた恩義など微塵も気に掛けずに。……血なまぐさい戦場において彼はただのお人好しのバカに過ぎなかったんだ」
他にも、ある。
「そもそも、彼が戦いに身を投じたのは朝廷から派遣された代官相手に正論を唱えたからだ。自分の生まれ育った地方の人々の嘆きを汲んだからだ。だが、朝廷からすればただの反逆者。邪魔なものでしかなく、彼は朝敵にまで貶められた。死後、日本三大怨霊とまで恐れられたのは汚名を晴らされないままだったからだ」
レイはその武将のことがずっと好きだった。
悲劇の将でありながらも、この関東ではおそらく最強の将軍であっただろう。
武蔵野の青い空と風が似合う、お人好しで愚かで、優しく強い風雲児。
「明王殿の最大の悲願は、その相馬小次郎の力を借りて関東を護ることだ。明治の大帝が目指したそれは、戦後に今度はGHQによって邪魔されて再び怨霊に貶められた。だが、彼が力の限り守ろうとしたこの関東を彼の代わりに絶対に護ることがオレたちの悲願だ。―――明王殿の名を継ぐものにとっての譲れぬ誓いだ」
カーンと澄んだ音が鳴り響く。
〈
「ナウマク サンマンダ バザラダン カン!!」
レイは不動明王の力を顕現した。
同時に、その身に一柱の英霊を宿す。
まったく苦しさはなかった。
英霊も明王も彼女の想いを良しと認めたのだ。
だから宿主の躰に一切の負担を掛けない。
不動明王はともかく、その英霊はやはり彼女の想像通りの優しい英雄であったからだろう。
名を相馬小次郎。
成田山の不動明王呪法によって封じられているという彼を、不動明王の化身である〈五娘明王〉のレイが降ろして共存するという奇跡がここに起きようとしていた。
本来ならばありえない奇跡だ。
だが、余人ならばともかく明王殿レイは関東を護る、それだけの理由で戦い続けてきた巫女であり―――聖女であった。
その必死の呼びかけに応えぬはずはないのだ。
相馬小次郎は愚かでお人好しで心優しい最強の将軍であるのだから。
『フギャー!!』
浅草寺の英雄タヌキは思わず後退した。
眼前の巫女の肉体に彼が震えてしまうような巨大な何かが降臨したことを悟ったからだ。
そして、彼の縄張りである浅草寺は神田明神に近い。
生粋の江戸っ子の彼だからこそ気づいてしまった。
今、降臨したものは神田明神に祀られているあの大怨霊に違いないことを確信した。
それがどれほど恐ろしいことかをわからない彼ではない。
神田明神に祀られているのは、一ノ宮の
タヌキはあまりの恐ろしさに膀胱が緩んだのに気づかなかった。
無意識のうちに失禁さえしてしまったことにも。
巨大な睾丸袋からバケツいっぱいの小便が垂れ流される。
「〈
レイの全身を炎が包む。
蒼く氷の様な火焔であった。
〈五娘明王〉の一柱・不動明王の赤いものと同格の青光。
今の彼女は二つの火を身にまとった炎魔と化していた。
どんな不定形の妖怪でさえ焼き尽くせる熱量が一瞬にしてレイとその〈神腕〉に収縮していく。
〈神腕〉はこの炎をぶつけるための器でもあったのだ。
これが〈九曜紋火焔掌〉。
明王殿家の究極の呪法であった。
その無尽の炎は、いかに浅草寺のタヌキ幻法〈狸提灯〉であったとしても原型を留めぬまでに焦げ付かされるであろう。
だが、そうはならなかった。
『――――――――――――降参します』
妖狸族の闘士はいともたやすく白旗を上げた。
勝つ負ける以前の問題がそこにあったからだ。
『神相手の技なんか喰らったら絶対に死ぬギャー!!』
まさしくごもっともな判断であった。
妖怪としてよりも生物としての本能がそれ以外の選択を許さなかった。
「……まあ、殺しちまうのも考えものだし、ここらで止めておくとするか……」
レイの側も部分的ではあったが、将門公の召喚が成功したことによる満足を得て、幸福を受け入れることになった。
……こうして、四対四の団体戦の二つ目の戦いは結果としては〈社務所〉の媛巫女側の圧勝で終わった。
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