第626話「神宮女音子VS兎妖怪〈犰〉」


 蹴り技というものは、手業に比べれば威力はあるが連続的に攻撃ができないという欠点がある。

 拳法における旋風脚は回転する脚の勢いを利用してもう一度蹴りを放つことで連撃を可能にして、ハイキックとローキックの蹴り分けによる場合もある。

 だが、通常の身体能力の持ち主では不可能に近い。

 アクロバティックのような見世物としての技ならできるものはいるが、実戦レベルでの体現者は数えるほどしかいない。

〈社務所〉の媛巫女に限ったとしても、足癖の悪い或子、空手使いの那慈邑ミトル、そして空中戦の鬼・神宮女音子の三人ぐらいのものだろう。

 右蹴りと左蹴りをほぼ同時に放つ双龍脚までならミトルでも可能だが、空中での飛燕のような三連脚、そしてさらにそれを上回る四連脚は或子と音子しかできないほど神かがり的なバランスを必要とする技であった。

 しかし、その彼女たちを上回る蹴りの使い手というものは存在する。

 それがウサギの妖怪〈犰〉であった。


「しゃっ!!」

『まだまだだゾ』


 音子の空中での三連旋風脚をまるで予測してきたかのように躱す。

 そして、待ち構えていたかのような下から突きあげる槍のごとき一撃。

 辛うじてブロックしたが、それだけで肘から先が壊死したかのように麻痺する強烈さであった。

 伸びた長い脚がしなり、方向を変え、こんどは鎌のように首を薙ぐ。

 腕でのガードは奇跡的に間に合った。

 ただし、横に激しく吹っ飛ぶことだけは免れない。

 もっとも、次の瞬間には逆からも鞭のごとき蹴りが飛び、ギリギリ堅い肩の部位で抑えたが、三発分のダメージは確実に音子の肉体に残った。

 技ではない。

〈犰〉は思うがままに蹴っているだけだ。

 打つと決めた瞬間には一切の溜めもなく蹴りが跳び、それが技となり、策となる。

 妖怪であるから一切の訓練も修行もしたことがないにもかかわらず、〈犰〉の放つ蹴りはすべてがあらゆる格闘技の達人の蹴りに等しくなるのだ。

 ヒトの及ばぬ真の妖魅の本領発揮であった。

 見切りの天才である御子内或子にはわずかに及ばないとはいっても、音子もまた躱すことにかけては天性の素質を持つのだが、〈犰〉の実力の前にはなすすべもないかと思われた。

〈犰〉もまた、音子相手に手ごたえを感じ取っていた。

 妖怪〈犰〉はこれまで一度たりとも人に敗北したことがなかった。

 比較的平和的な嗜好の持ち主でもあり戦いの数自体が少ないことと、ニンゲンに狙われることがほとんどなかったからである。

 むしろ、ニンゲンに近い妖怪であった。

 ただしイケメンに限る、という注意書きはついていたが。

 そんな〈犰〉が一度だけ負けた相手が今の敵と同門の巫女であった。

 

『でも、あれは京ちゃんのせいなんだけどネ。わたしが力で負けた訳じゃない』


〈犰〉が或子に敗北したのは、彼女が狙っていたとある裏切者の色男を升麻京一に人質に取られたからだ。

 一瞬の、京一の体を張った隙を突かれた結果であり、実力で敗北したとは思っていない。

 それを今日こそはっきりさせようという気持ちがあった。

 ……あったはずだ。


(おかしい。わたしの蹴りは確かにこの巫女に当たっているけれど、全部いいところで凌がれている。そんなはずない。だって、わたしの蹴りは無拍子の蹴り。誰にも放つ瞬間を見極めさせないはず。なのに、全部、防御がされている。……おかしい)


 手応えのなさから薄々勘付いていた。

 どれもまともに当たってはいないのだ。

 確かにダメージは蓄積されているはずだった。

 しかし、本来ならばもっと簡単に手早く仕留めきれていておかしくない圧倒的な実力があるはずだ。

 事実、〈犰〉は音子から何の攻撃も受けていない。

 やぶれかぶれのパンチやキックでは〈犰〉には掠りもしないのだから当然と言えば当然なのだけれど。

 なのに、それなのに。

〈犰〉はじりじりと押されている自分に気が付きつつあった。

 

(京ちゃんは絶対に触らせるな、と言っていたっけ。あの子のいうことだから絶対なんだろうけど、触らせたらどうなるのか、ちょっとだけ気になる……)


〈犰〉は〈江戸前の五尾〉と違い、戦士ではない。

〈社務所〉の媛巫女とも違い、闘士でもない。

 ゆえに戦いにおける執念というものを持っていなかった。

 だから、まったくわかっていなかった。

 一度戦場に赴いた戦人いくさびとの恐ろしさというものを。


 チッ


〈犰〉の指先を音子の肘打ちが掠めた。

 なんということもない偶然の一撃だった。

 しかし、その指から一瞬にして感覚というものがなくなったことにウサギの妖怪は戦慄した。

 指はついているのに、一切の感触がない。

 まるで切断されてなくなってしまい、見ているものは幻なのかとしか思えないような感覚。

 明らかに異常だった。

 妖魅の彼女が背筋に寒気を覚えるほどに。


「〈大威徳音奏念術〉からの―――〈神宮女流神音かんなり〉」


 すべての原子の動きを停止させる大威徳明王の化身である音子の秘儀〈大威徳音奏念術〉。

 それを四肢の末端からではなく、肘と膝から敵に叩き込む〈神宮女流神音かんなり〉。

 この二つの秘術を〈犰〉と戦いながらずっと練ってきていたのである。

 そのせいでわずかに防御が遅れたとしてもガードにすべてを委ね、ただ一撃を叩きこむためだけに守勢も厭わない。

 諦めない闘士の粘り強さこそが、音子にはあって、〈犰〉にはないものだった。


「或ッチに負けた程度の妖怪に、あたしが劣る訳ない。あたしが一番強い」


 覆面に顔を包んだ繊細な超絶美少女でありながら、仲間の誰よりもプライドが高く喧嘩っ早いのが音子であった。

 SNSの「いいね」は気にしても他人の評判は一切歯牙にもかけない。

 だから、一時の優勢に酔って一気に追い込まなかった〈犰〉のやり方で、彼女に勝てるはずがない。

 そう、はっきりと言えよう。


「ウサギの妖怪。―――あんた、ニンゲンを舐めすぎ」


 音子からすればもう一言言えた。


「せっかく京いっちゃんがくれたアドバイスも、あんた程度じゃ役に立たない。もったいない」

『なによ?』

「人間というものには無限の勝ち目がある。どんなに勝率の少ない相手だとしてもやり方次第では絶対になんとかできるんじゃないかという可能性が。―――京いっちゃんを見ていればそれがわかる。だから、あの人のいうことをきちんと熟せないなら、あんたの勝算はずっとなくなる」

『意味がわからないゾ☆』

「バカの振りは止めた方がいい。でないと、またあんたは人間に敗れる。或ッチのときよりもさらにはっきりと―――格付けされる」


 劣る。

 ―――数百年を生きる旧き妖怪である〈犰〉がたかが十七・八年しか生きていない小娘に負けるだと!!


「そう、負ける。勝つのはあたし」


 神宮女音子ははっきりと断定した。

 御子内或子に負ける程度の妖怪が、あたしに勝てるはずがないだろうという自負をもって。

 いともたやすく、勝利を口にした。


 

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