第151話「荒れ寺の妖魅」
庭に出ると、木々などを越えて広い空間に出た。
しまったと後悔する。
なぜなら、バス停や隣家がある方向と反対に出てしまったからである。
もう一度迂回しないと人のいる場所に戻れない。
だが、あの坊主―――手に巨大なハサミのついた化け物のような男のいる家には戻りたくない。
仕方なく私は木の葉や雑草でいっぱいの荒れた地を歩き始めた。
大きな月が出ている。
おかげでもう夜だというのに足元を除けばほとんど見渡せた。
多摩とはいえ東京にあるとは思えないほどに広い河原の一画のような場所であった。
「……あれ、こんな感じだったっけ?」
地図では何度も見た。
そうでなければ土地の正式な価格の算定などできない。
あの一軒家にお邪魔する前にも見た。
なんで誰も家を建てないのかなと思ったのは確かだったが、こんなに広陵とした土地という記憶はなかった。
私の記憶が確かならば、すぐ先に多摩川の支流があるはずで……
だが、小川のせせらぎも、水の香りもなにも漂ってはおらず、私が辿り着いたのは林の中にある荒れ果てた元・寺院の痕跡であった。
月光が照らし出した寺は、屋根が傾き、漆喰の壁は崩れ、内部まで様子がわかるようなボロいものであった。
少なくとも私の見た地図には存在しなかった場所だ。
いや、荒れ果てた無住の寺としてもう認知されていなかっただけかもしれない。
最近はこういう住職が不在であったり、檀家が掃除などの奉仕をしない荒れ寺にホームレスが棲みついたり、不良グループの溜まり場になることがあるから、存在するだけで近くの不動産の評価が落ちることもある。
ある意味では不人気施設のようなものだ。
寺である以上、裏手には墓地もあるだろうし。
なるほど、あの調査対象の家が孤立気味なのはこういうものが背景にあったからか。
職業意識というものが急に働きだし、私は自分がどういう状況なのかも忘れて、思わず荒れ寺の中を覗き込んでしまった。
障子はすべて破れ、畳ごと床に穴が空き、砂と埃で酷い有様になっていた。
天井の一画が崩れ、そこから月光が差し込んでいるほどだ。
何十年放置しておけばこんな風になってしまうものか。
あの家の資産価値を調査するついでにあとで、ここも調べておかないと……
と考えていると、私はさっきのバケモノ坊主に追われていたことを思い出した。
そんな未来のことよりも直近に迫った危機を回避しないと。
私は後方の様子を恐る恐る窺ってみた。
誰もいなさそうだ。
あの坊主もここまで追ってはこなかったかと胸を撫で下ろした途端、横合いから胸倉を掴まれた。
ネクタイとワイシャツごと乱暴に掴み上げられる。
その手は岩のように黒々と堅そうで、まるで岩だった。
突然の出来事に抵抗することもできずに私は引っ張りあげられて、無造作に投げ捨てられた。
荒れ寺の畳を転がるとささくれが皮膚に刺さる。
下手な地面よりも危ない。
『問答に答えよ!!』
もう何度聞いたかもわからない胴間声が鳴り響く。
あの坊主だった。
いや、坊主というよりも荒法師とでもいうべきだろうか。
白い頭巾でも被れば武蔵坊弁慶のようでもあったからだ。
ごつい体格は広い肩幅と分厚い胸板をもっているせいであり、足は短足の上にガニ股というまさに岩が人間の形になったようである。
ただ、人間であるとはっきり言いきれないのは、右手が変形した巨大なハサミになっている点だ。
どう見ても人の腕とは思えない。
私を掴んだのはまだ人間のそれの形を保っている左手であったようだ。
『はよおせい!』
そんな風に急かされてもどうにもならない。
問い自体は覚えている。
確か、『両足八足大足二足、横行自在にして、両眼天を指すもの、汝はいかに!』とかいうものだったはずだけど、そんなすぐにおいそれと答えられるものじゃないだろう。
しかも、この荒法師の言い分に従えば答えられないと私を殺すのだという。
殺されたくない私としては逃げ続けるしかない。
私は無造作に転がっていた仏像を掴んだ。
手のひらサイズの小さなものだ。
仏像や仏具がこんな風に転がっているなんて普通では考えられない荒れようだし、雑に扱ったりしたら天罰が下るかもしれない。
ただ、今はそんなことを言っている余裕はなかった。
私はその仏像を振りかぶって投げた。
中学までは軟式野球のピッチャーをやっていたことからコントロールにはそれなりに自信がある。
仏像は狙い過たず、荒法師の顔面に飛んだ。
だが、当たることはなかった。
その鋭いハサミの先端に抓まれるに挟み取られてしまったからだ。
あんな巨大なものでなんという早業だろう。
野球のボールを手で受けること自体は誰にでも可能だ。
しかし、あんなハサミで掴むことはできない。
仏像とボールの形状や重さの違いを加味したとしても、普通はできない芸当である。
そこで戦慄したといってもいい。
きっと私はあの荒法師からは逃げられない。
『ここまで問うて答えぬと言うのであれば、貴殿には知恵がないものとみなす!!』
もう待ってはくれないということだ。
終わりが近いのか。
何だかんだと結婚についてをはぐらかしてきた彼女のことを思い出す。
そういえば今日はLINEを送ってこないな。
もしかして見限られたのかも。
でも、それはそれでいいか。
私はここであのハサミによって殺されるのであろうから、彼女もすぐに別の男のところへ行けるだろう。
こんなはっきりしない男など忘れて。
ただ、せめて三日ぐらいは私のことで悲しんでもらえたら嬉しいが。
『命、頂戴いたす!!』
荒法師がハサミを振り上げて近づいてきた。
私は恐怖のあまり眼を閉じた。
その間に殺してくれたのならば痛みも感じずに死ねるかもしれないと、情けないことを考えていた。
だが、巨大な化け物ハサミが私にまで到達することはなかった。
みゃー
現実から逃れるために砂に顔を突っ込んだダチョウのように眼を閉じた私の耳に、鈴の音のように凛とした清澄な響きが届いた。
荒法師のものとはまったく違う、月が囁いたかのような音が。
『ぐおおおお!!』
思わず眼を開いた私の視界には、立ち竦むハサミをかざした荒法師と、その肩に乗った巫女姿の少女の美貌が飛び込んできた。
「―――間に合ってよかった。まったく、ボクが今生の
荒法師に肩車でもするかのように腰掛けた巫女は、にやりと獰猛な笑みを浮かべる。
「妖怪〈蟹法師〉。今日がキミの最期の日になるんだよ」
それは、ある意味では荒法師よりも恐ろしい凄絶な笑顔であった。
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